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いくぞ新作⁈ (4)

アナログ作家の創作・読書ノート   おおくぼ系

*年末に開始した長編連載小説の4回目です。仮のタイトルは〈 ミンダナオの情念・ダバオからの風 〉といったところでしょうか。ハードボイルド・サスペンを意識しております。引かないで読んでくだっせ~

            〈あらすじ〉
中城紫織(なかじょう・しおり)は、一級建築士で中城設計工房を主催しているが、不満をかかえたまま、裁判所書記官の女史とイタリアンの会食をし、指摘事項などの対案を考えてもらう。翌日の午前、事務所に中年の制服警官が訪ねてきた。〈ダバオに行った長男タツヤが過激派に拉致された〉とのことである。シオリは暗雲につつまれて、ダバオの天羽(あまばね)へ連絡を取る。
アイ・コーポレション、フィリピン・ダバオ支店長の天羽隆一(あまばね・りゅういち)はシオリからの国際電話をとった。彼は拉致について総領事へ問い合わせる。人質事件で情報が混乱しているが、日本人の拉致は聞いてないという。天羽は現場で直接に確認せねばと、アンガスとジープを走らせる。密林を走るなかで、シオリの〈いまだ活動家〉の言葉が浮かんできた。

天羽には、いまだ活動家の残り火がくすぶっていた。アポ山裏の密林を抜けて、小屋にたどり着くが、タツヤは非番でいなかった。伝言を残して引き返すもいろいろな懸案が浮かんでくる。今、おこなわれているダバオの市長選も現グスマンと前ドウタテイの戦いで、ねじれている。


密林を出て、六月の強烈な光にてらされ、ジープの助手席で景色を眺めるともなく眺めていると、よくぞここ、ダバオまで流れ着いたなとの感慨がわいてくる。

若いころの正義は、時がたつと青春の狂気でしかなかったかと、挫折感に打ちひしがれたのだった。
学生運動にシンパとして参加していたが、活動の最盛期は二年ほどしかもたずに、バラバラになっていき、卒業後の就職を考えなければならなかった。ジャーナリストになり、言論をもって世の中に訴えたいと考えた。
東都テレビに勤めていた先輩から「ジャーナリズムも、テレビ中心になっていく」という誘いを受けた。権力にものもうす正義のジャーナリスト、さもありなん、と志して、同テレビ局の入社試験を受けた。聖華大学は英語だけでの授業もあり、英語にはことに強かったために一次の筆記試験は順当にパスして、二次の個別面接に臨んだ。
 二次試験の当日、五人の面接担当を前にして、一人椅子にかけ緊張しながら背筋をのばした。
最初の質問は「昨今の学生運動についてどう思いますか」だったので、若者が正義を主張して世の中を変えていく必要がある、と訴えた。あとで思うとアジ演説みたいで気合が入っていたと、我ながら可笑しかった。「うちの局を目指した動機は?」については、「御社で正義を主張できるジャーナリストになりたいから」と、至極単純明快な回答をした。中学から剣道をたしなんでいたので、なにごともストレートにいきたかった。
一月後に、誘いのあった東都テレビの先輩から飲もうかと連絡があったので、午後八時過ぎに神田駅近くのオフイスビルの地下にある小料理屋の座敷でお互い向かい合った。ビールを注いでくれながら、先輩が切り出した。
「お前さ、採用はむつかしそうだぞ」
「えっ、どうしてですか」乾杯の手が少しふるえた。
「それとなく漏れ聞いた話では……まあ、怒らずに冷静に聞けよ、大学の担当教授からの調査書の内容がひどかったらしい」
 調書の内容についての概略を先輩が語りだす。
「本学生は傍若無人にして、はなはだ性格に難がある。協調性なく主義に心酔している感あり。学力においても見どころがない、といったひどいものだったそうだ」
「えっ、それってあんまりじゃないですか」
しばらく先輩を見つめ、その後、出されたお造りの皿を見つめて固まってしまった。
「人事担当から、あなたから推薦のあった学生はそんなにひどいのか、と聞かれて答えようがなかった。ただ、担当教授のコメントはちょっとひど過ぎる、学生を育てる配慮が欠けている、大学の関係者に再度問い合わせしてみるべきでは、と言ったけどな」
 冷水をかけられビールも苦すぎた。何とか取りつくろって刺身に手を付けた。何か言おうと思っても言葉が出ない。卒論「都市の歴史的条件」を指導してくれた、その担当教授をつるし上げたとか、おべっかを使ったことはなかった。また、致命的なトラブルを起こしたこともなかったが、大学を混乱に巻き込み教授陣の権威までもおとしめした学生運動と学生すべてについて苦々しく思っていたのだろう。
 積極的かつ過激な活動家となったわけではなくて、初めは平和を標榜して米国との安全保障条約に反対するデモに参加したものであったが、機動隊のタテによって粉砕されると、逃げ惑うみじめさのなかで、ナニクソと戦うオスの本能が沸き起こり、警察権力機動隊が、敵だという意識が芽生えたのは事実だった。
左派の学生を中心とした全学生共闘会議運動は日本全国に燃え広がり、全国学生連合会が結成されると、あたかも国内に革命がおこる様相を呈した。
天羽も、いやほとんどの学生が、また世間も無関心ではいられない時勢であった。
ベトナム戦争に反対する〈べ平連〉に賛同したことは、間違ってはいなかったとの信念があった。しかし、学生運動に加速がついて新宿の国道にバリケードを築き、権力からゆがめられた区間を解放する〈解放区〉という言葉に酔いしれる間もなく、全国学生連合会は、主義主張の違いから五つに分裂していった。対して、治安を守る警察は、学生運動を粉砕し、鎮圧するためにより強力な壊滅行動をとった。
武力で世界共産革命をめざす赤軍一派が、山荘に追い詰められ警察の機動隊と壮絶なバトルを行い自滅した。とともに学生運動は内紛の分裂をくり返し終息をむかえつつあった。
このような時流のなかで翻弄されながら、放送ジャーナリズム界をめざしたのだが、不採用の積み重ねとなった。
だが、マスコミへの希望はすてがたく、なんとか通信社の嘱託として働きだした。
果たして、今まで主張していた正義は実在するのか? 青春の気まぐれだったのか?
明確な答えはなく、結果、フィリッピンのダバオに居つくことになったのは、成り行きとしか言いようがなかったが、いや、今では必然であったのだと信じている。
この地の人々の生き方は、のびのびとして、明日は明日さと、おおらかで、くよくよ考えずに、いわばでたらめなヤクザ人生に思えた。
フィリピンの南のミンダナオ島は、いまだにカオスの状態にあり、置きわすられた人々の歴史のトラウマもあったのだ。それが天羽自身に共振をもたらした。スペイン、アメリカにつづき四年間の日本の支配を受け、植民地としてゆれにゆれた果てに再び独立を果たした。この南の島に静かに根付き、定着しているさまざまな情念ともいえるたくましきエネルギー。この混沌としたなかで何かを作り出し、この地に貢献できるという、挫折から不毛に沈んでいた自身の生きる意味が復活した。
ダバオに自身の拠点を築き、ひとつの構想のもとに交流プロジエクトを推進しようと思い立った。それで、まず、たよったのはサツマの第一高校の同窓生であった。同窓生はサツマの地元でもいろいろな分野で活躍しており、相田健次郎は、同族会社のアイ・コーポレーションの副社長になっていた、

*    *   *

安東博史(あんどうひろし)は、ダバオの総領事を最後に長年勤めた外務省を退官して、衆議院議員の政策秘書となった。永田町の議員会館に日勤するようになって約一年がたち、七階の上国料議員事務所の窓から、すぐ下に首相官邸が見下ろせる。これが、この国の頂点なのだと思うと、今までの苦渋が消え去り、ひとっ飛びに高みに昇ったという感慨に満ちていた。
まわりには、霞ヶ関とひとくくりにされる権威をまとった多くの官庁があるが、外務省庁舎も単なる建物のひとつにすぎなくなった。
昨年まで勤めていた八階建ての外務省のグレーの庁舎も色あせて見える。この庁舎を背景にして、チエコスロバキア大使館の二等書記官をはじめとして各国の大使館や領事館に赴任した。国の外交政策を背負ってきたという誇りが常にあった。
だが安東には、外交官上級職採用ではなくノンキャリアであったという鬱屈が勤務年数とともに蓄積していったのだった。
 ダバオの総領事として二年を経へて、五十五歳になっていた。
総領事といえば領事より格上で聞こえはいいが、ダバオ在住の日本人二万数千人でできている村の村長さんのようなものだった。ダバオ日本人会の名誉会長として、総会などに出席してあいさつを述べ懇親会にて親睦を深める。領事館の仕事として、日本人の安全に務めるというものもあるが、警察権や調査権があるわけではないので、これが極めて難しい。ビザの発給もあるのだが、これは完全なルーチンワークである。大使館と違って領事館は、花形である外交活動ができずに、邦人のお世話係といったニュアンスである。
総領事までのぼりつめたのはノンキャリとしてはまれなことであり、当局もそれなりの評価をしてくれたとは思うが、残りの年数を考えると、官房審議官や大使まではいけないのは明らかであった。せいぜいあと一年で外郭団体へ出向の形で追いやられ、本省にもどることなく実質上は定年となる。そこで十年近くをすごしたのち完全に自由になる日を迎えることになるだろう。
やはり大きなプロジェクトなり、今までの経験を生かした大事業をやってみたいとの気概が残っている。
そのようなときに、日本人会で知り合ったのが天羽であった。
「お互いの経験を生かし、ミンダナオを拠点として、フィリピン、日本、アジアをみすえた新たな潮流、いわゆる大きな構想のもとで事業を創りだしてみないか?」
総領事室で、天羽とあぐらを組んで座り込み、酒やワインをあおりながら日本を論じ、また世界を論じあった。私にもまだまだ、この任務地を思い、さらに日本とフィリピン、両国を愛おしく思う気持ちが満ちていた。
天羽は、私に熱く語ったのだった。
「ダバオのポテンシャルは高いと思いませんか。地政学的にもアジアで発展していく可能性が整っていると。ある意味で、漂流した日本人が溶け込んで共生していく未来社会を実現している。満州国や韓国併合の失敗とは違って、進行しつつある国際社会の偉大なサンプルだと思うのですが? これを継承発展して地域にねざした豊かな社会をつくりを目指してゆきたいと、どうですかね?」
「確かに、一理はあると思いますね。私もダバオの総領事になったのも何かの縁だと思っとります。この地をアジアの一画として発展させたい思いはある」
「ミンダナオには、いろんな人や集団があり、異なった考え方のルツボとなっており、今だに武装勢力が革命をめざしてもいる。だが、それぞれがダバオにルーツをもち、共同社会で生きあっていかねばならない。面白いじゃないですか」
「そうだな、ラツールの赤があるから、あらためて乾杯をしよう」
考えが完全に一致したのではないが、お互いの気脈が通じ合った。
そして、現地で意気投合し、腹を割って話せる友人となった天羽隆一から、衆議院議員の政策秘書にならないかとの打診があった。彼の政策秘書への打診に対して、これも何らかのめぐりあわせかと、現ポストに対して思い残すことはなかった。この歳になっても静かに燃え、チエコ以来の消し去ることができない情念が沸き起こっていた。
さらにもう一つ、天羽とは共通項がある。それは、彼がジャーナリストとして、〈ダバオの日本人たち〉というノンフィクションをものし、新人賞をとっていたこと。対して私も一昨年、チエコスロバキアでの外交経験を書き綴った〈雪解けのプラハ〉という小説を上梓しており、これがけっこう読まれて十版を重ねている。互いに文士仲間であるというものだった。

         ( つづく )  

*まだまだ続きます。応援、感想をヨロピク!    







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