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「対話」について考えた

大学院修了から2年がたった。


学んだことが人生の下支えになっている感覚はあるものの、転職や引っ越しでアートに触れる機会は激減し、張り巡らしていたアンテナの感度は鈍くなるばかり。
そんな私のアンテナを刺激してくれるのはいつも学友との対話の場だった。
在学時代から私がいつも助けられてきた対話の場。
そしてそんな学友たちが始めた「超域Podcast」。
日々の中に「対話」が戻ったとき、改めて体感した私の経験を書いてみる。

まずは「超域Podcast」について少し紹介

この番組は、京都芸術大学通信制大学院、超域プログラム、後藤繁雄ラボの在校生、卒業生による勉強会を配信する試みではじめたポッドキャストです。アートについて考えるように、アート作品を創るようかのように思考を飛躍させながらトークを続けていければと考えています。

By 京都芸術大学 通信制大学院 超域プログラム 後藤繁雄ラボ 勉強会
https://gotolabochoikipodcast.wordpress.com/

私はこのPodcastを聞き始めたころ、参加したい、意見を言いたい、そんなことばかり感じていた。
「対話」は参加してこそ意味があり、意見を交わすことが大切と感じてきたからだと思う。
とはいえ、メンバーではないので、ただただ聞き続ける毎日。

そのうち同じシーズンを何度も聞き直し、無意識に対話内容を反芻するようになった。
すると、日常の中で突然、内容から異なるところへ思考が飛躍したり、新しい発見が起きるようになった。

面白い。また何度も何度も聞きなおす。
経験は重層化し、どんどん強度をまして自分の中に残っていく。
鈍っていたアンテナがフル稼働で働き始める。
思考と気づきの連鎖は加速して、また日々に活力が戻ってくる。

「あ、これ作品鑑賞と一緒だ。」

これまで作品鑑賞によって発見や思考が深まる経験を何度かしてきた。
持ち帰り反芻したり、わからないまま抱え続けることもたくさんある。
それでも考えることを繰り返すと、感覚が変化し始め、いろいろなことに気づけるようになる。
この気づきこそ、私たちを豊かに、生きやすくしてくれる大切な要素だ。
私はこの「気づき」にこそ価値があり、気づきをもたらすアートの可能性を強く感じてきた。
そして今回、私は超域Podcastを聞き続けることで、この気づきを得た。

つまり「超域Podcast」自体がアートだと感じたのだ。

これまで私の中で「対話」とは相手や物事(作品鑑賞でも)を理解する手段であり、誰かとするものだった。
なので、対話や往復書簡の作品などは他人の対話を眺めるに終わってしまい、中々思考をつなぐに至らなかった。

今回 、超域Podcastは私にとって完全に他者間の対話であったが、聞き続けることで私の「対話」の対象が参加者個人ではない「超域Podcast」そのものにスライドした感覚があった。
彼らと違う世界の中で、自分は自分の「対話」がはじまる感覚だった。
そうなると、アート鑑賞と同様に、私の思考は飛躍しはじめた。

さらに、超域Podcastはより日常に溶け込める媒体を介し、自然とリスナーの日々の一部になりえる。
そして、安定した配信と多岐に及ぶ膨大な情報量、自由で豊かな対話内容と対話者たちの愉しげな様子が更に聞き手を惹きつけ、恐らく普段アート鑑賞をしない多くの人を含んで気づきをもたらしているだろうと思える。
彼ら自身の思考の連鎖がたくさんの世界の中でまた新たに広がっている。それこそがアートとしての強度でもあるのではないか。

冒頭でいつも語られる
「アートを観るように、アートを創るように」
という言葉は対話者である彼らだけではなく、リスナーである私たちにもつながる体験であり、もう既にものすごく自由なアート作品として拡散をはじめていると思うのだ。

私個人としてこれからもこの「対話」の場が必要であるし、ぜひ多くの人に知ってもらいたい。

そして、アートを学ぶ人間にとってこれがいかに必聴であり(情報量もすさまじい)、学び大き場であることを勝手に強く進言する。

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読み直して気づいたが、私が書いてることと同じことがPodcastでも色んな場面で語られてる。
となるとなんか私が言うの今更感だけど、許してもらおう。

うん、やっぱり思考は拡散しているのです。

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