オカンのたこ焼き

 大阪の家庭には必ず一台たこ焼き器がある、という噂は半ば以上真実で、私の実家(大阪北端の田舎町)もその例に漏れず、その昔、小さくて一度に九個しか焼けないが、油が染み込んで黒光りする、たこ焼き器というよりはたこ焼き用ミニ鉄板と呼んだ方がふさわしい趣の調理器具があった。私の母が、嫁入り道具、ではさすがにないだろうけれど、結婚前から持っていたものらしかった。

 早速話が脱線するが、母はいわゆる「金の卵」と言われた世代の人で、中学を卒業するとすぐに小さな機械メーカーに就職した。早くから仕事に就いたのにはやむを得ぬ理由もあった。

 母の父親、つまり私の祖父は、なかなか腕の良い料理人だったらしいが喧嘩っ早くてすぐ雇い主と一悶着起こしては仕事を辞めてしまうような人で、母が子供の頃は、祖母が家事の合間に割烹の手伝いなど、働きに出てどうにか家計を支えている、という有様だったらしい。そこで母が十代半ばから一家の稼ぎ手となったわけだが働きに出るとやはり家事は家族任せで、料理などにも縁遠くなってしまう。母がその後、夜間の短大を出て小学校教師となってからはますます多忙になり、結婚後も食事作りは姑にあたる、私の父方の祖母が一手に担っていたので、そのまま仕事の鬼を貫き通していた。

 そんな調子だから、子供の頃の私は、母の手料理といえばいつもは目玉焼きぐらいしか食べたことがなかったが、二~三ヶ月に一度くらい、日曜のお昼にたこ焼きを焼いてくれることがあった。他の料理はほとんどできない母だがたこ焼きだけは、実家にいた頃から家にやって来たお客にリクエストされるほどだったというだけあって、お店で買ったりするものより段違いに美味しかった。と、私は思っている。その作り方や具はちょっと変わっていて、まず細かく切ったタコとこんにゃくを甘辛く煮付ける。中身はそれらと、同じく細かく切ったちくわと紅ショウガとネギ。そのたこ焼きは、どんなに時間がたって冷めても完全にまん丸のまま。焼かれた表面がカリッと堅く、極薄いせいだろうか。熱いうちにその香ばしい皮部分をかじると中は少しとろみがついて、出汁の効いたスープ状といってもいいくらいなめらかで、舌をやけどするのは必至だが、出てくる具とよく絡む。

 ウスターソースだけをかけて食べるそのたこ焼きが、私は本当に大好きだった。でもけっこうな手間と時間がかかるし、普段仕事で疲れてもいただろうから、そう頻繁には作れなかったのだと思う。そんな中、日曜のお昼近くの母の様子を見て今日はたこ焼きだと察すると、私はワクワクしたものだ。

 けれどやっぱり、母は料理があまり好きでなかったのか、教師の仕事がどんどん忙しくなっていったのか、その両方なのか、だんだんその手の込んだたこ焼きを焼いてくれることは少なくなっていって、私が中学二年の時、料理担当だった祖母が急に亡くなった後は、普段の食事作りの流れで、日曜の昼食を作るのも完全に父か私の役割になった。そのうち、そのたこ焼き用の鉄板がどこに行ったかさえわからなくなり、今年七十一歳の母はもうこの先、たこ焼きを焼くことはないのだろうな、と思う。少し寂しい気もするが、それはそれでいいのかもしれない。

 美味しい思い出。

 いつも働き詰めに働いて、疲れを癒したい貴重な休日を、時に家族のためにたこ焼きを焼く日に当ててくれた母(いつもは自分中心でクールな人なんですが)。料理上手なお母さんのいろいろな美味しい手料理を毎日食べている友達を羨ましいと思ったこともあったけれど、私の母もひとつだけ「おふくろの味」を私に残してくれたのだなあ、と思っている。


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