真冬のそうめん

 大きくも小さくもないとあるメーカーに事務員として働いている。

 ボールペンやポストイット、ノート、マーカーといった文房具から石鹸、ティッシュ、軍手などの雑貨の管理担当で、備品をもらいに来る社員への応対、時には社内メール便の依頼も受け付ける。まあ、のんびりとした部署で、私はたいてい他のメンバーよりも早く出社して、コーヒーを淹れ、十五分ほど一人でボーッとする。そういう時間がないと頑張れないのだ。

 今朝も仕入れられてきた事務用品の山を眺めながら、何も考えたくない、でも私には何か考えなければならないことがありそうな、なんて思いを往き来させながらコーヒーを啜っていた。

 失礼ながらほぼお爺さんに近い男性五人に、私を含め女性二人の職場。セクハラ禁止令が幅をきかせて「彼氏いるの?結婚は?」なんて質問は一切されない、居心地の良さにどっぷり浸かって、かなりいい歳をしながら彼氏いない歴=年齢の域に私は達していた。まあ開き直るつもりはないが、恥だとも思わない。今日も一日の業務を終えて、一人暮らしの簡単な夕飯の買い物をしただけでマンションにまっすぐ戻ると、隣の部屋が引っ越しの最中だった。

 割安になるから夕方からの作業なのね、と思いながらちらと見ると部屋の主と思われるのは私よりやや年嵩の、中年の少し手前といった感じの男性だった。まあ、こんな単身者向けのマンションなんて引っ越した後は滅多に顔も合わさないどころか、最近では挨拶すらしないことも多いのだから、うるさくさえされなければ誰が越して来たって同じ、と引っ越し作業の邪魔にならないようにそそくさと私は自室に入った。隣人になる男性の方は私には気付かなかった様子だった。

 その日、社内メール便の遅延というトラブルがあって、その対処に珍しくかなり残業した。私は疲れ果てて自宅マンションに戻り、三階までの階段をいつもの倍疲れる感覚でやっとこさ上り終えると部屋のドアを開けた。

 すると、何日か前、隣に引っ越してきたあの男性が、ウチの台所で鼻歌など歌いながら料理をしている。
 白シャツに黒ズボン、黒のソムリエエプロンという、パリのギャルソンか、とでも言いたくなるはっきり言って容姿に似合わぬ出で立ちをしていて、見ると素麺を茹でている。ここのところ急に気温も下がってきたので煮麺にでもしてくれるのかなぁと思ったらテーブルには小鉢に入った麺つゆと薬味が。
「この寒いのに、冷やし素麺⁉︎」
と私は怒鳴ったが、
「俺、これぐらいしか作れないし」
と男はさほど気にする様子もない。

 やがて、私たちはテーブルに向かい合って茹で上がった素麺を啜った。料理があまりできない割に薬味はおろし生姜、刻んだ大葉と茗荷、となかなか洒落ている。

 とはいえ食べ終わっても身体が冷えるので、熱いお茶を二人分淹れてテレビを観ている男の側へも持って行くと、彼は昔流行ったドラマの再放送を観てポロポロ泣いている。
 子供五人を女手一つで育てる主人公に次々と苦難が降りかかる話だ。
「俺のお袋も、親父が仕事すぐ辞めちまって働かないもんだから、苦労して稼いで子供六人育ててさ。結局腎臓悪くして、俺が高校一年の時、まだ若くで死んじまったよ」普通ならアンタ、いつの時代の人だよ?と突っ込みたくなる話だがその時、私は何故だかそういう気にはならず、その後に続く彼の母親の思い出話も神妙に聴き入っていた。

 私も隣に座って泣きはしないけれども一緒にドラマを観、お茶を飲んでしまうと急にまた疲れが襲ってきて、すぐに歯を磨いてお風呂に入り、布団に潜り込んだ。

 すぐに私は意識を失うように眠ってしまってどれぐらい時間が経ったか、ふと目を覚ますと男が当然のようにベッドに入って来ていて、私のパジャマのボタンを器用に外し始める。そして私の乳房に手を直に触れた。その感触を最後にまた私は記憶を無くすように眠り込んで、そんな一瞬の出来事も、すぐ側にいるはずの男の存在も、曖昧な、内容を思い出せない夢のような感覚となって霧散した。

 早朝に目覚めてみるとシーツと着ていたパジャマがいつもの朝と違う乱れ方をしていて、窓が開き、カーテンが冷たい風に煽られている。
 風邪引いちゃう、と思いながら窓を閉めようとカーディガンを羽織り、ベッドから起き上がると昨夜の男がベランダで煙草を吸っているのが見えた。その姿が思いの外、様になっていて私はしばらく気付かれないように黙って見つめていたが、よく見ると灰皿がないので台所の引き出しにあったアルミホイルを皿形に丸めて代用している。私は窓から顔を出し、灰皿ぐらいお客さん用に(あまり来はしないが)用意してあるから取ってくるよ、と声をかけて、これで十分だから何だかんだと男が言うのを尻目にリビングへ向かい、戸棚の奥を探してそれをようやく見つけ出し、もう一度ベランダへ行ってみるともう男の姿はなく、アルミホイルに包まれた一本の吸い殻が転がっているだけだった。

 私は再び一人になった部屋でコーヒーを淹れて、まだ薄暗い窓の外を眺めながら、それを飲んだ。

 いつも職場で仕事前に味わうのと同じ、頭の中が空っぽなような、でも何か悩まなければならないことがあるような、あの感じだった。

 数日後、いつも通り仕事を終えて家で夕飯の支度をしていると玄関のチャイムが鳴って、出て行ってみると、今度隣に引っ越してきた山本です、ご挨拶が遅くなってすみません、よろしくお願いします、と満面の笑みの若い男性が菓子折と一人用の小鍋に入った何かを差し出した。

 この間見かけた男性、即ち数日前私の部屋で素麺を茹でていたあの男性とは違う。私も自己紹介をして、この小鍋は?と聞くと
「これ、僕が作ったおでんなんです。よかったら食べてみてください」
と、言い方はあっさりしているが、相当料理の腕に自信ありげな表情で男性は答えた。
 もう一度簡単に挨拶をしてそれから、先日引っ越しの作業中に別の男性をお見かけしました、業者の方とも違うようでしたが、何方だったんでしょう?と少し尋ねてみた。すると山本と名乗った男性は怪訝な顔をして、知り合いに手伝いを頼んだ覚えもないし、業者以外に人は来ていない、と答えた。

 晩ご飯にさっそくいただいたおでんを温めて食べてみると思った通りそれはプロ並みの味だった。
 やっぱり寒いときにはおでんよねぇと思ったのに、その時、数日前に食べたあの男の茹でた素麺がふと蘇って何故だか涙がこぼれた。

 それから、度々ご飯時には隣の部屋から料理をする良い匂いが漂うようになった。しかし私の脳裏に浮かぶその料理人は山本さんではなく、ギャルソンのような格好で突然現れて、そして消えていった、あの中年男なのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?