シキ外れ

第五章

「おはようございます。お目覚めになりましたってお見舞いものを持ってきました」

 茶色のセーターに綿製の黒いズボンにしている李鳴がふらついてテーブルについた。まずは左手に林檎を盛った重そうな竹のかご  テーブルに置いて、そして右の小脇には抱えられた厚いジャギーコートを、最後には右手の鞄を。


「おっと、重すぎ。やっぱ無理をしないで介護者を助けてもらったらよかったですのに。青森県産のみずみずしい林檎、一ついかがでしょうか。昨日のことどうも申し訳ございませんでした。何も言わずに勝手にそれを見せてしまいました」

 李鳴が言いながら、一つの林檎を取り出して伊江圭に渡す。

 伊江圭が手の中の林檎をためつすがめつ見て、瑞々しい林檎を鼻先に突き付けて、精気を奪わんばかりに顔を少しずつ天井に上げながら、深く吸い込んで、大息をしてからしっかりとケースの上に据えた。

「いいえ、謝る必要はない。むしろ李さんのおかげで、今朝目が覚めると不意にたくさんのことを思い出した。というより、このようなものはまったく似つかわしくないものなんだね。間もなく他界するかも。他界でもこのような鮮やかな赤さもあるの、ちょっと気になっている」

「信じればあるんだと思います。人は今の夢を次から次へと叶えられることも、その想いの強さあってのことです。弱々しい言い方は何らか伊江さんらしくないのではないでしょうか」

「終わりを迎えるって、誰でも同じなんだろう。そのことに誰でも白面だからこそ、経験の一般論というものはあるわけないだろう。まあ、いま一番惜しいのはやはり世間いわば大往生を遂げることは果に夢で終わるなのか。夜を送って夢から目覚めて窓外の流れ雲を見ているともなく、日が昇っているのに光に全く暖かくなる気がしなかった。なんだか、今日の光は一際弱いって感じられて、暖房がつけてある病室にいるのにって、意識した瞬間に、雪の深夜の底冷えが身にしみた」

「ただ寝ぼけになりましたでしょう。冬日ですから、暖かくないのも当たり前なんでしょう。きっと錯覚でした」李鳴が椅子を立ち上がって、カーテンを開けた。


「リメー!」伊江圭が急に声を大きくしたせいか、激しくひっきりなしに咳き込む。


「ダイ、大丈夫ですか」李鳴はわなわな身を震わせて、震えた声で伊江圭を問いかける。

「実は、お頼みがある、どうかお引き受けください」


「そんな言葉をおっしゃらないで、今まで伊江家に恵まれてばかりいて、この微力が望まればぜひ惜しくなく尽くさせていただきます。気をせずに、お願いいたします。」李鳴は真面目そうな顔をして、必死と伊江圭の願いに応えた。


「ならば、隠語はやめておく。やっぱ、武のことだ。」伊江圭が言いかけて、隣の医療機器が鳴り出した。

    すると音がした長野弥助を始めとして三人の医者が病室に集まってきて、続いて二人の看護婦も次から次へと詰まってきた、


「さっき、機器音がした。念のため一応用意しておいた薬も持ってきました。あの、お体は…」

 長野弥助が謹んで診察して、心電計などの医療機器の近くに歩み寄って、それらをじっくりとデバッグして、そして安心そうに嘆いた。


「どうやら医療機器のドラブルでした。大変申しわけございませんでした。」


「機器のため大勢押し寄せてきたなんて。まあまあ、今度のことは看過にした。そうだ、その機器を移せ、」

「そうおっしゃッテも、お体の診断結果次第ですが、一応機器の取り替えを用意させていただきます。機器のことならご安心ください。」
 伊江圭は怒り狂って、医者陣を見回って、李鳴に目を移して吐息をつく。 


「李さん、さっきのことについて、後にしてもいいの、ちょっと、気味悪」


「はい、わかりました。では、ごゆっくりしてください」李鳴が渋い顔で苦笑いしてドアに向く。



「あの、李さん、お忘れ物ですよ。」

 長野弥助が焦げ茶色の使い古しそうな革製のカバンを高く上げてみせる。

「あ、どうも。では、」李鳴が鞄を掴み取って、また懇切に伊江圭に礼をして病室を出た。


「あの、また何かありましたか。お義父さんの具合は、」
 李鳴の姿が現れると、伊江奈々子は小走りで近くに走ってきて、うろうろと伊江圭の体の調子を聞きただす。


「ご気色は心なしか優れなかったですが、長野さんに任せばいいと思います。どうにか二十年間くらい付き合っていた伊江さんの専用のお医者だけにどうすべきかただ掌を返すにすぎないでしょう。」李鳴がにっこりして、袖で額の汗を拭った。


「あの、カバンを持ちしましょうか。」

「それは助かりました。そういえば、暖房はちょっと強すぎないって思わないのですか。汗が流れてばかりいるんです。」

「李さんもお顔色はちょっと悪そうですが、大丈夫ですか。」

「大丈夫です。ただちょっと徹夜しました。いつもの血行悪ですから、持病、持病。わざと心配してもらって、すみません。そういえば、実はちょっと聞きたいことがあるんですが、よろしければ、」

「ええ、でも、お義父さんのほうは、」伊江奈々子が心配そうに病室に見たりしてとつとつと話した。

「少しだけでいいです。お願いします。ちょうどこの辺りによい喫茶店を知っています。車でせぜ五分ぐらいしますから、どうでしょうか」

 伊江奈々子の躊躇しているのを見破って、心配させないように、李鳴は言い足した。「いざ何があったら、必ず間にあえますから、」

「え、それは、それなら李さんの言うとおりに、」


 弱い冬日の日差しで、道路に止めてあるY31の映えた銀色の車ボーディをあるモテモテな喫茶店のガラスに映じている。



「ヘ?この近くにこんなに人気がある店がありましたっけ。ぜんぜん」

 

 車を降りた伊江奈々子が向かい側の由岐家という店の長い行列を目玉が飛び出るほどに驚いてしまった。


「実は愚息の店なんですぞ。さあ、渡りましょう。」

 怪訝そうな顔つきをした伊江奈々子が横断歩道を過ぎって、店の前ではまた足を止めてぼっとした。

 

 李鳴が微笑んで、店頭に立っている店長のような人に挨拶をしてから、伊江奈々子を連れて、ニ階に至った。

「下は賑やかなのに、ここ誰もいないって」伊江奈々子が一人の客もいなくてがらがらしている二階を見渡して、小さい声で呟く。


「一応ニ階を空けておきました。できるだけ人目を避けたいですから。さあ、どこでもいい、お気に入る席をどうぞ。」

「なら、壁についているところにしょう。」

 伊江奈々子が周りを四顧して、壁についている丸いテーブルに寄り付いた。


「こんな豪奢な店って、この前も言ってくれなかったですね。」

「実は最近、息子が一旦預けてくれたものですし。その子ったら、嫁さんの性格はなかなか手を焼くタイプです。相手は大手会社社長の一人娘の点から見ればありがたいですが、何より二人は気が合うことなんでしょう。今なら息子はなんか相手のことを、まあ、面倒くさいことだらけです。ごめん、息子のことばかり言って、ごめん、ジュースでもコーヒーでも注文しましょうか。おごりしますから、なんでもいいです。」

「ええ、この小型のタブレットで注文しますか。」

 伊江奈々子が興味深そうにテーブルの一角に固定されているタブレットを取り扱い始める。

「えーと、李さんは何がいいですか。」

 伊江奈々子が手の動きを止めて、何か考えている憂いに沈んだ顔つきをしていた李鳴を覚ました。

「あ、もう決めましたか。」李鳴が気まずくそうに見えて笑った。


「はい、李さんは何がいいですか。」


「スノーゼリーです。」


「え?スノーゼリーってなんですか。」


「あ、それは中華料理です。いや、料理というより、やはりお菓子のほうがいいですかな、確かに一年ぐらい前、息子が追加しましたっけですが。食感の点から言ったら、ゼリーより軟らかくて、たっぷりシロップを氷に浴びせるので、食べるものと呼ばれるというより飲み物のほうが適切だと思います。それに、その中によくレーゼンとか山査子みたいな干物もたっぷり入れられていますから、つまり直接と飲めば、ちょっと大変になるかもしれません。ちなみに、そのものは中国語でビンフェンーって呼ばれて、うちの故郷では夏になると大人気になります。なので屋台もあっちこっちにして、子供は見ると食べたがって、泣き叫んで親を強請ることも見ることもあります」

 李鳴が思い出を描いているうちに、小粒な涙が頬を伝って、こぼれ落ちた。

「李さん、これを使ってください。」


「あ、ごめん」李鳴が震え声で礼をして、ティッシュペーパーをもって涙を拭った。


「申し訳ございません、ただいまスノーゼリーが売り切れてしまいました。素材の不足なので、来週まで新しい食材が届くまで作ることが不可能になっております。実に申し訳ございません」

 注文をしたとたんに、店長がぱぱっと二人のところについて、ひたすらと二人に謝ってばかりいる。

「それなら、バニラって、いや、なんだっけ、」

「もしかしてバニラアイスクリームではないでしょうか」店長が李鳴の顔つきを覗いて、小さい声で尋ねる。

「いや、違う、違う、そんな冷たい食べ物は絶対だめだ。ごめん、伊江さん、メニューちょっと見せてください」

 伊江奈々子が聞くとタブレットを李鳴の側にまわした。



「あった、あった」突飛にテンションが高く叫んだ。

「バニラクリームフラペチーノ」


「は、はい、かしこまりました」

 大声にびっくりした店長が口の調子が崩れてしまったが、すぐに声を殺して真面目そうな顔に変えて、礼をしてから大急ぎで1階に向かっていく。


「え、李さんは甘いものが好きですか。ちょっと意外ですね。ちょっと失礼ですが、こんな場合ではジャーナリストみたいな仕事に携わっている李さんなら優雅にコーヒーを味う印象がもっとやすくつけられていますが、正直、ちょっと驚きました」


「そうなのですか。若いうちは、いろいろなことを覚えなければならなかったですけど、こっちは頭が悪かったですし、時々慌てて汗いっぱいになってしまって、涙が出たほどどうしても覚えられない場合が多かったです。ある日に、甘いものが物事を暗記することに役に立ったそうだって聞いて、それでだんだん甘いものを食べる習慣が付きました」

「そうなんですか」

 

 会話が一時に終わって、二人は別々のことに耽る。
 李鳴は目を細めて天井を見上げて、丸体がコンフォートのソファーに突っ込んで、両手を膝に広げて、ぶつぶつと独り言を呟いている。それに対して、伊江奈々子がはまだ室内のデコレーションを鑑賞している。

「お待たせいたしました。キャラメルマキアートとバニラクリームフラペチーノです。では、ごゆっくりです。」店長が上手くコップをトレーに並べてから離れた。

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