四章(抜けた)

「いま、救急を、」
 医者は病室のドアを開けて叱り飛ばしたが、泣き声の張本人をちらっと見ると話が途切れた。そして前の口ぶりとはぜんぜん違って、憎しみにも苦しみにも満ちた目つきに相応しくない優しい言葉だ。
「武、おじいさんは泣き虫が好きじゃないそうだよ。いまおじいさんの具合はちょっと良くなくて、もし武が笑ってくれたら、おじいさんも早く元気になれるよ」


「長野君、ちょっと来てね」

 伊江武のところまで歩いてくる途中に、室内からの呼び声でやむを得ずに戻ってくるが、ドアを閉める前には、

「さあ、さあ、武、いい子、泣かないで笑って、笑って、」


「はい」伊江武が袖で涙の跡を拭って、眉を顰めた長野と呼ばれた医者にうなずいたりする。


 

 「さっき、母さんの悪い、おっちょこちょい母さんを許してくれないの」

 我に返る伊江奈々子が涙ながら伊江武のほっぺたを軽く揉んだり、歪んだ襟を捻ったりして、にっこり笑いだした。

 「もちろんだよ、だって、お父さんの代わりにお母さんを守ってあげるとお父さんと約束しているから、お母さんはもし何か悲しいことにあったら、きっと、武に話すよ」

 伊江武は誇らしげに両手を腰に当たって、仁王立ちのように凜々しく背筋を伸ばす。

「武もなかなか立派な男になっているね。えらい!さぞ、武もお父さんの意志まで引き継いで、伊江家を支えていくようになるだろう」李鳴が拍手しながら、欣快に笑った。

「それはもち…」

「その話はまだ早いのだと思います。李さんの言うことは、ちょっとね、」

 自信満々そうに李鳴の言葉を応じるところを、伊江奈々子が二人の会話に割り込んで承諾を遮った。

 「それもそうね、確かに、そういっても伊江さんは実に伊江家のために、複雑な局面のバランスを維持したり、伊江家の最大利益を得に知恵を絞ったり、いろいろ苦労して、入院する始末ですが。すみませんが、今の話はなかったことにしていただけませんか」李鳴が言いながら、時折に病室を垣間見たりする。


 「こちらこそ、助かりました」

 伊江奈々子が意思も合点して互いに軽くうなずいあった。話題もそのまま終わった。


 三人はこのままずっと黙っていて、深夜を迎えてきた。


「伊江さん、もう遅いでしょう、武がベンチで眠るっぱなしって、ちょっと、」

 口を切ったのは午後、伊江武を外に連れていった人こそだ。

 看護師の衣装をした女が廊下に立ちっぱなし二人のところにやってきて、眠りそうな顔をした伊江奈々子の背を軽く叩いた。


「あ、どうもすみません、でもお義父さんのほうは、」


「それなら、ご安心ください。救急の役を買っている医者陣が見守っていますから。今の状況では、武は第一位にすることはお母さんの伊江さんには一するべきことではないでしょうか」


「え、目覚めましたか。伊江さんがいつお目覚めになれますか。伊江さんが目覚めたっけ?」二人の会話に目を覚ました李鳴が切々と問題を投げた。

「いいえ、いつかわからないですが、とりあえず、安心してくださいです。それも長野さんのご意思でした」看護婦が二人の心の憂えを晴らすように言い含めた。


「あの、李さん。私が一応武を連れて帰るつもりです。李さんは?」

 伊江奈々子が伊江武を抱き上げながら、忍び声で、うつらうつらしている目つきに出た李鳴に言葉を投げた。

「うん、武の体の調子を第一位しないと、それもそうですね。もうずいぶん遅いですし、送りましょうか。このあたりでは多分タクシーもないだろう」

 李鳴が上着を引き締める。

「また一つことがありますが、この間、伊江奈々子さんと伊江武さんとお二人にしばらく旦那さんのお宅に泊まっていただけないでしょうか。それも伊江さんが来る前に旦那さんのご意思でした」看護婦がまた言う。


「伊江さんのドライバーがそのうち急用で、お忙しいですが、さっき連絡しておきました。十五分ぐらいお待ちなさい」

 看護婦が言い終わってから、伊江奈々子にお辞儀をして病室に入り込む。


「もう遅いです、そっちも雑務にされているそうですから、やっぱり、送らせてもらいましょうか。車、近くに止めておきましたし、帰り道も同じですし、どうですか」

 李鳴が眼鏡を外して、使い草臥れそうな縮れた灰白色のハンカチをポケットから引き出して、眼鏡を綺麗にした。


「いいですか。李さんがもともとうちのお義父さんを見舞ってくれて、半日もかかってずっと見守ってくれて、もう大変お疲れそうな様子デス画、お誘いはどうにも受け取りがたいと思いますが、」

「いいえ、お言葉は少々疎いのではないでしょうか、伊江さんから一方的に何十年の贔屓を受けてばかりいますから、それくらいのつまらないことなんて、感謝には及ばないです。もし信用してくれれば、伊江さんのお宅の前に送らさせてもらいましょうか。先ちょっと考え事で、こっちも少し眠気がしましたけど、まあ、運転には絶対支障がないんですよ」

「ご厚意に甘えて、ありがとうございます。では、一応看護婦さんに知らせてきます。少々待ちなさい」



 看護婦のところから戻った伊江奈々子が伊江武をそっと抱いて、李鳴に随ってコテージを出た。

 懐中電灯の光に頼って、鉄門を通った李鳴がニ、三本の方形ランプシェードの光が点滅している街灯を見たら、消した懐中電灯をもう一度つけた。

「壊れた街灯を避けたほうがいいですよ。もし漏電したら大変になりそうです。ちなみに、あと、バトラーに知らせましょう。それは何よりです」

「はい。」

 子供を抱いたままの伊江奈々子が後ろについて、駐車場についた。

 寒夜の街灯に照らされたしめやかな池袋への夜道を走行している銀色のY31が冷え冷えとした冬の夜の寒風をきって、和光市を離れた。


 「えーと、すみません、あの建物ですか」

 「はい、ちょっと暗くて、なんだかなじんでいなくなった気がしますが。示してくれて、ありがとうございます。ここでいいです、ありがとうございます。夜中故に、くれぐれもお体を気をおつけなさい、さよ、あっ、失礼ですが、また、明日お見舞いも?」


「はい、また明日」


 挨拶をしてから、車を背を向けにしたところ、また引き返した。

 「あの、今日のことは、とんだ失礼しました」

「いいえ、トラウマでしょう。わかっていますのに、そんなひどい言葉を口にしました。気にすまないです。申し訳無いです。もし、あの日、南谷の隣にいたら、武もお父さんを失わなかったはずなんでしょう。あくまでも私のせいだったって思っています」

「そんな言葉を言わないでほしい。それはただ南谷の宿命で、決して李さんと関係がありません。心は過去の沼にずっと陥ったら、時間も止むようになるでしょう。私もそろそろ抜けなくてはいけないと思います。では、お帰りに気をつけなさい」

 子供を抱いたまま茫然自失そうな顔をした伊江奈々子の姿が通りから引っ込んだ大きな家への路地裏の阿に消えた。ずっとその後ろ姿に目を凝らしていて、その言葉に耽っていた李鳴が解放されたように、ため息をついて、Y31のエンジンをかけて、夜闇に潜り込んでいく。



 グローランプの微光に包まれた部屋に消毒用アルコールの臭気が水仙の香気に混ぜて、変な匂いが立ち込めている。

「もう夜中になってしまったか、って、なんで看護師の服をしているの、長野さん、妙ね」伊江圭が窓外の夜景から看護師の服をしている男の人に視線を移した。

「え、事故でした。この間、自分の弟子が誤りをして、患者さんがそのため、命を落とす始末です。師匠の私がなんとなく、その責任を買わないと気が済まないですから、その様子を手術の定番服に決めてきました、あの日から」

 目遣いをして、目をぱちくりさせて、気が散ったように見えた長野弥助が手元の容器をそのまま握っている。

「長野さん、わがままね。一つ聞いて、この身体がどのぐらい持ちこたえられるかい。なんだか、薬を飲むごとに、効かなくなっているみたい。痛みは強くなるたびに、ここは現実だとはっきり感じされる。痛みから逃げるには、目の前の現実を一筋に否定し続けるなんて、今から見れば、これは惰弱でなくてなんであろうか」

「さあ、悲しい言葉はやめといてください。お残り時間は体内のウィルスの気持ち次第で、もっと正しく言えば、お気持にかかっていることです。どうか、お気持ちをコントロールしてください。大悲や大喜びなどは禁物で、念のため私は一応お付き添いに伝えときました。では、ごゆっくりです」

「待て、慰安の言葉は必要はない、言え、残った時間を、」伊江圭は炎が宿っているような目で、長野弥助をじっと見つめている。

「恐らく一ヶ月じゃくです」突然の問に身震いした長野弥助の手が滑って、握った容器を転がした。

「わかった」伊江圭淡々した口で言い返して、まるで自分の死を他人のことに扱うように、身じろぎをして、布団をかぶせて、目をつぶる。

 長野弥助が小心翼翼と素早く倒れた瓶を起こして、モルヒネ瓶や使い済みの注射器を鉄作りの皿に載せて、他の医者に頷いて一人で病室をそうっと後にした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?