シキ外れ

第八章

「伊江さんはどうやら変なことを聞かれてしまったみたいですね」


「そっちこそ、また変なことを頼んだろう」

「いーや、それは、」

 唖然として青ざめた顔になった李鳴が凍りついて止まってしまった。


「まあまあ、悪くはないけど、李さんが会社のことをそこまでおもんばかってくれて、ありがたいな」


 言葉を聞いてから、李鳴がのっしのっしと歩みを運んで、車椅子の近くに止まった。


「さっき、奈々子に聞いた。夢のことって」


「夢って?」

 眉間に皺を寄せた李鳴がまた車椅子の真後ろに近づいて、何かを見切りたがるかのように、じっと窓のガラスに映ったぼんやりした顔を直視する。


「素敵な夢だった。泡になったとしても、それなりの価値も輝きさも経験者には世に生きた大切なシルシだろう。一度でも経験したいんだなあ。って、李さんなら夢も持っているの」


「面白いですね、李さんの言葉は。もういい年ですから、夢を語ることなんて、苦手です。無茶苦茶です、強いて言わせたら、戻してくれれば、一番のユメです」

 横顔をこっそり覗いていた李鳴が汗に濡れた襟をぎゅっと引っ張った。

「ね、武には自分の夢を持つ権利があるの。ちなみに、それは朝の続きだ」

「それは、もしかして、いや、本気なんですか」

 どっと血相を変えた李鳴が青筋を立てて、オーバコートをぐんと引っ掴んだ。


コンーコンーコンー


「すみませんが、布団の取り替えですが、入ってもいいですか」


「いい」


 遮音性が良すぎるか伊江圭の嗄れ声が小さすぎるか、返事が聞こえていない看護婦がまた何度も同じ言葉を言い繰り返している。

 とうとう、

「あの、失礼させていただきます」ドアを開けた看護婦がぺこりお辞儀をして、部屋に入った。

「え、あの、すみません、」

「あ、すみません。こっちちょっと話し込んで、つい、すみません」

 ばつが悪そうな微笑みを強張らせた李鳴が辞儀をした。


「はい、お取り替えいたしました。御用がなければ、では」暫くして、きびきび仕事を終わらせた看護婦が部屋を出る。



「ちょっと、言い過ぎたか。まあ、怒らないで、」ドアが閉められた音が立って、ずっと黙っていた伊江圭が口を開いた。

「一時の気まぐれで、夢の放談で朝のことを誤魔化すつもりなんですか。もしかして寝ぼけなんでしょう、」

「いいえ、気まぐれなんでもねよ。もし会社の社長をやりたいのなら、譲ってもいいよ。お前は本当に変わらないね、いざ会社のことになったら、」

「そんな馬鹿なことをするわけがないでしょう。ただ、ただ、」

 何か曰くがあるか、満面に朱を注いだ李鳴が先を言いよどむ。


「李さん、過去とさよならをあげさせた以上、復帰させる可能性があるの。よく考えて、昔の幻想に生まれた名誉に耽ったら、お孫の夢はどうすればいいの。そのまま放っていけばいいよ。もういい年だから、やめよう。闇のことは過去の霧に呑み込まればよい。会社の善後策を山兵さんに任せたらいい」

「よく喋りますね。やっぱ伊江さんの口に敵わなかったです。全然思わなかったんです、今まで言ってくれたことは、」李鳴が苦笑いをした。

「いいえ、前の李さんと比べたら、半人前にすぎない」

「前って、またきましたか」

「いや、決してその意味ではないよ。ただ口を滑らせちゃった。ほら、今、窓に向かっているんだから。映った像なんだよ。まあ、どうせ、もう決めた。その代わりに、一つの小さな望みを満足させてあげようか。一つだけ、なんでも聞いてもいいよ。李さんにはきっとまだ何かに迷っているだろう。多くの名人記事を創った李さんには一番のヒットをこのまま逃して、いいの」

 伊江圭が李鳴を見向いて、笑いらしくない笑いを口元に浮かべる。


「よく知ってくれていますね。やっぱ相手になれないですね。なら、伊江奈々子には名字を変えさせなくていけなかったってそのことの原因が知りたい。知りたくてたまらないです」

「ほい、耳は早いね。まさかそこまで気がついたなんて、ずいぶん長い話だから、本当に聞きたいの」

「いや、こっちよりお頭のほうは大丈夫ですか。朝のことが起こったら参りますね」

 李鳴は言いながら、のんびりとオーバコートを洋服掛けにして、ベッドの隣の椅子に座って足を組む。



「いや、その程度で大丈夫だ。え、名字のことなら、伊江信川(いえしんがわ)って人に関わっているんだ」


「確か、お亡妻のお父さんでしょうか」


「そう、もっと正しく言えば二番目の亡妻だった。その方の助けがなければ、今の‘お菓子エブリデイ’もならなかったんだ。それに最も重要なのは幸子と結婚そういう先決条件の一つだった」


「いや、なんか大した事に突き当たりました。ありがたいですね」李鳴のテンションは一段と高まりそうになる。


「私は生まれたばかりで、母さんを亡くした。何年にも渡って、父さんと一緒にずっと母さんを探していたけど、でも手がかりは少しもできていなかった。もともと諦めてしまったことなんだけど、まさか日本ではそのことの続きを知った。偶然だったけど。うちのことはさぞ李さんも大分知っているだろう。貧乏とも言えないけど、確か父は日本に留学の事情を経験したみたいな人で、具体的なことはもう覚えていないんだ。多分そんな経験を持たない者はその時代の母さんみたいな人と結べないはずだった。まあ、それは後話だ」

 伊江圭は李鳴がペンで速く書いているのを見ていて、ペンを止めたのを見たあとに、また言い続けていく。

「あの日、金への欲望に駆られたか、気まぐれの心にとらえられたか、とにかく妻の宋巧巧(そうチャオチャオ)と息子を実家にとめて、いろいろ手間がかかって日本に来た。正直、大阪に来たばかりの時に日本の繁華に驚いた。それは書籍より人々の口よりずっとずっと不思議なセカイだった。面白そうなことがあっちこっちばかりだけど、もともと貧乏な外人だったし、いろいろなものに距離を置くべきだった。例えば、賭博とか、まあ、李さんならよくわかってくれるだろう」


「お気持ち十分です」


「思わなかった一つのことは家を離れたら家を偲ばれた。一日ごとに二人のことに思いを馳せた気持が重苦しくなっていく。ほとんどの時間は建築現場にいた。って、まさかそんなところで母親についての事が触ってしまった。ある日に、うちのチームの頭が飲み会で自分の過去を漫談して、李梅(リメイ)って名前を言及した」

 

「ヘ、ちょ、ちょっと待って、待って、李梅(リメイ)ってば、お母親でしょう」

 伊江圭が動転している李鳴に笑みをして、話し続けて、


「え、そうだよ。最初信じてなかったから、続きを急がした。お父さん宋明義が元々蘇州辺の商人で、解放戦争の時に台湾に移るための船に乗りにいく途中で餓死しかけた李梅という女の人を助けた。そして、どうにかして、二人が一緒に台湾に辿り着いた」
「お母さんの胸に目立つ三日月のような痣があるって言った覚えがある。それは父さんが話してくれた母さんの一番の特徴にぴったりしていた。もっともしっかりした証拠は伊江圭というお兄さんがいるって何度も言われたことがあるって言ってくれたということだ。そう、実は同じ人なんだよ」

「それはそれはありがたいですね。お母さんと再会しましたか」


「もう79年に腸癌でなくなった。それだけではなく、その商人も風邪を引いて、肺炎を併発して、確か80年になくなったらしい」



「大変残念極まりないですね」


「もう亡くなった人の思い出に耽っても、亡くなった人が蘇られないものだ。そもそもその人が母さんという実感がなかったんだ。そのきっかけとして、彼と微妙な関係を築いてしまった。いつもの運の悪い私が建築現場の仕事も思いどおりにやっていかなかった。ある日の夜に、彼と必須な一部の建材を確認に行く途中で、伊江信川に出くわした」

「って、ちょっと喉が乾いた。お茶でも入れてくれないの」


「え、こんな時急に?なかなかの悪趣味ですね」

 渋々承知した李鳴が重い腰を上げて、のこのことティーバッグをコップに投げた。


「はい、どうぞ」李鳴が聞かずに、勝手に湯気が立っているコップを窓台に突きつける。


「オット、はやいね。不作法なやつ。って、さっきどこまで言ったっけ」

「建材確認の途中で伊江信川と出会いましたって」

「あ、そうか。信川さんはその工事の請け負いの一人で、その二人は仲良さそうな知り合いだった。弟さんのおかげで、ただ一言の挨拶を交わしてから、私のことを信川さんに紹介してくれた。どうせ散策してるとか言われた末に、同行させられた。雑談で信川さんが私たちの種変わりの関係に驚いたのに思いあたって、まさか帰ろうとしたとき居酒屋まで引きずって行かされたとは。やれやれ、二次会、三次会ってもう思い出せなかった、とにかくきつくてたまらなかった。本当に泥酔になってしまった。私の目から見ればお前と信川さんとは随分気が合いそうだよ、特に好事家らしかったという点、」

「え?生きている本人を一度も見たことがありませんが、生前の写真からして、随分人と親しみ見える。多くの写真ではいつもニコニコして、右か左の人を抱えたり、腕で人を自分の方に無理やりと側に引き摺ったりしていましたっけ。そんな状況が想像できますね。でも、好事家というより好奇心旺盛の言い方はもっと相応しくないのではないでしょうか」

「迎え酒を飲んでもだめだった。それにしても仕事をやり続けなければならない。二日酔いの頭痛を我慢して働くことなんて最悪だった。あいにく、その日に建築現場の視察団がやってきた」

「ちょっと当てさせてください。罰金、叱られたそれとも首になりましたか」

「事態はそれ以上何倍も厳しかった。視察団にも入っている、伊江信川が。当時彼は一人で建物の入り口に近寄っているうちに、兆しもなく、何本の鉄筋が落ちてきた。信川さんを守るように、弟が驀進して、ぐいと信川さんを押しやった。我に返った時、目に映ったのは血溜まりにうつ伏せにして、頭が鉄筋に刺し貫かれた死体だった。今はもうあまり実感が湧いてこられないけど。建築の事故が出てしまった。大変な事故だった。シャットダウンされて、請け負いから現場の責任まで何人が捕まったに至ったらしいのに、何日の鋭意調査の末に、風のせいにされたこととなったけど」

 伊江圭がお茶に浮かんでいた沫を吹きかけて、小口で啜って、まずいと言わんばかりにちぇっと舌打ちした。


「それは、ちょっと現実に外れっぽい話ですね。すべてのことは風にして済みましたか、お弟さんの葬儀はどうされましたか」


「葬儀に参列した人は私を含めて、ただ五人まとまった。葬られる前に、信川さんがよく調書の協力で警察署に往復していた。葬られた日に警察署から出たばかりの信川さんが急いで私を引っ張って、もう一度居酒屋に連れてしまった。居酒屋で信川さんがたくさんのことを話してくれたけど、ほとんど聞き取れなかった。どうやら私と無関係の義父、つまり宋明義が信川さんの沖縄の魚屋に何か絡んでいる事情だった。別れた時に信川さんが弟に売った一戸建ての鍵を渡してくれた。まあ、その家の主はもともと弟なんだけど、」


「え、なんで信川さんがその鍵を持っていますか、お弟さんの形見なんかではないでしょうか。また、勝手に亡者の形見を譲ることなんて、まさか信川さんはその、」容疑者と扱われたような伊江圭は言葉の疑点を問いただす探偵のような李鳴にしつこく付きまとわれる。


「いや、実際、その宅の契約はただ信川さんとの口約の取り引きにすぎない。理解しがたいけど、まあ、永遠のレンタルのような関係とされてもいいよ、多分そういう感じって。そう、家の定期掃除のことも買われていたよ、信川さんに。信頼されていたからこそ、信川さんがその家の鍵を持っていたんだ。ちなみに、弟が死んだときまでも彼女なんてできていなかったらしい。葬式の時にも親類みたいな人さえ一人もいなかった。そうすれば、形見としての空けた家の鍵をくれたのも分かりやすいだろう。一応、李さんはどう思うの」


「あ、そう、ですか、いや、そうすれば弟の全ての家族も、」

「いや、全てじゃなかったと言うまでもないけど。それから、あの夜で心の準備をちゃんとして、次の日から仮屋を引き払って、その家に引っ越した。その家のインテリアは華奢とまではいかないが、前のより何倍ましだった。言うなれば、引っ越した夜に不思議な夢を見た。目が覚めると、説明できないほど変な声が頭に響いて、その声に操られたままに思わずに動き出した。何か探さないといけない意欲をそそられた。そのものを探し出せないと。うとうと部屋の本棚を移すと目立つ不ぞろいの木目を見かけた。その板を取ると、隠されたものを確認した。宋明義と書かれた運転免許証、またメビズ銀行のお届け印だった」

「メビズ銀行って、私の知る限りでは、もう十年ぐらい前に倒産したものでしょう」

「そう、その銀行こそだった。えっと、板を嵌めなおしてから、腰を伸ばすと頭が本棚にぶつかって、ひょいと本棚に宋明義の死亡診断書を見た。なんだかあの朝全てのことも催眠暗示されたままにやったのだ。何かに憑かれたみたいだ。二度と気がついた時、もうメビズ銀行の受付のカウンタに立った。『パスワードを確認させていただきます。』と聞かれたから、すっかり呆れてしまった」

「まさかパスワードを知らないまま銀行の金庫に行くきましたなんて。催眠暗示されたというより、やはり夢遊病をされたでしょう」李鳴が爆笑しながら、コップを揺らして一気に冷めた茶を飲み干した。

「寝ぼけ、いや、だから憑かれたって言っただろう。まあ、いろいろな手続きを済ませて、パスワードを聞かれると、ぼんやりした。何度も聞かれて、もやもやして、つい宋巧巧の誕生日の日付を言い漏らしたとは。想像だに思わなかったのはパスしました」

「えー?」話が終わると、驚嘆を引っ張っていた李鳴がにょっと立ち上がって、滑るように真向かいの窓に衝突した。


「じゃ、宋巧巧は彼と、その宋明義と、まさか!冗談にも、」


 その反応に伊江圭は口元に微笑みを浮かべているが、余計なことも何も、ただひたすら続きを紡いでいく。


「700万円一枚、200万円一枚、400万円一枚、600万円一枚、50万円十枚、合わせて2400百万円の借金証文や債券証書などたくさんの書類を見つけた、セーフティーボックスの中に。債務人は伊江信川で、貸し手は宋明義だった」

 すー
 李鳴が息を呑んだ。

「なんか鳥肌が立ちました。え、でも、それは……伊江さんには紙屑と同じものではないでしょう」

「そう、随分厄介なことに絡まれてしまった。手に焼く金だった。それらを見ると強い不安感が湧き出した。いっそう妻と息子のことにも不安でたまらなかった。どうせ何もできなくて、一応こっそり帰ることにした。どうにか家に戻ったあとで、なんとかして、家に入ったところを、家の門口で女の人に声をかけられた」

「お掃除さんですか」

「まさか、お嬢様だよ。サチコ、伊江幸子だよ」

「え、もしかして尾行されて、銀行のことがばれてしまいましたか。そういえば、お二人はあの時もう知り合いでしたか」

「さあ、尾行されたかどうかは知らなかったけど、初対面は事実だった。彼女がお父さん信川さんの代わりに居酒屋へ誘ってくれた。居酒屋で信川さんが弟さんのことに後ろめたくて、どうしても何か償うことをやらないと気が済まないって理由をして、ご馳走をしてくれた。ただ思いもよらなかったのは建築現場が再開されるまで、一ヶ月というもの、昼ご飯も晩ご飯もその二人が付き合ってくれて、あっちこっちの料理をご馳走してくれていたなんて、」

「やはりばれましたでしょう。てっきり何か聞かれたでしょう」

「いや、『伊さんが弟さんの代わりにチームの頭をやろう。答えてくれないと、首だ。』って言われた。そして、最後の日…」

「理由は?償いの続きですか」李鳴が急に口を挟んで、話題の風向を変えた。

「一応口を挟まないでくれよ。前の癖が発作したか」

「すみません、すみません、ついなってしまいました」

 李鳴が謝りの言葉を繰り返しながら、不快の顔つきから目を逸らして、また新しいページをさらさらと捲って、筆を滑らせはじめる。

「たぶん賠償と見られてもいいだろう、その場でいいの、いや、やっぱ問うまじきことなんだろうって。それは鍵のこととも同じ考えだったら、いかにもそうだった。そろそろ本題に入りたいけど、また言わないと筋が通らなさそうな点あって、不快されるから、せっかくだから、言ってあげよう」

「むしろこっちこそよろしくお願いします」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?