第六章

 鐘明景のオフィスには黒い字できっちり埋まった書類がライティングデスクに散らばっている。そのほかによく高く畳んである書類も見える。
 空気にインクの匂いが満ちていて、またコーヒー豆の苦い香りが混んでいる。

「コーヒーでもいいの」
「はい、お願い」

 カフェマシンが豆を磨い始めた。鋭い音が立っている。鐘明景がのんびりと紙コップをノズルにおいてから、任遠帆に向かった。

「例のことなんて、」

「え、なに?」
 大量の豆がぶつかり合った音で気が散った任遠帆の視線がまだ蒼く光っているそのマシンのランプに留まっていた。

「外国人向けの一時滞在許可申し込みのことなんだけど」

「えっと、あっ、ごめん、ちょっとうっかりしまった。申し込みっていうと、もしかして、」任遠帆が疑っている口で言葉をとぎらした。

「あの、前のことは知らないはずがないだろう.外国人向けのフロントが再開されることになるので、廃棄されていた部門も再建されされることになるぞ。一応そっちにいくって考えた」

「え?それはあまりにも、敢えて聞かせてもらって、上の意思なら?」

「そっちに行くってことは一方的な決まりだ。実はね、最近ちょっと厄介なことに遭ってばかりいて、ちょっと疲れ気味だ」

「そう言われたら、こっちも責任を買わないといけないって思っている。鐘部長の代わりに上に一応意思を聞かせてもらったらどうだろうか」

「いいえ、とんでもない話だろう。もし任さんの指導がなかったら、もう想像できなかったよ。だから、今回こそどうしても、もっと下の作業場で自分の判断力を鍛える必要があるんだって考える。もちろん転任することって上に伝えなければならないけど。父さんに言っておきたい。父さんにちょっと言ってもらったら、本当に助かる」

「お父さんのほうは一応任せてくれ。しかし、下からといっても、あっちのシステムはぜんぜん違うってことだ。外国人旅客が喜んで来てくれる原因の一つはお得な価格と快適な環境があるんだ。それだけではない、いろんな外国人を応接できる人材が必要だ。日本語はさておき、といっても英語ができる人を漁ることも決して容易なことではない。こっちが上海まで近いのは近いけど、さすが外国人とうまく交流できる人を招くには用人のコストがたいへんかかるよ。耳が痛いけど、今の給料なら、ぜんぜん話にもならないって考えている」

「なんとかしてくれないの、例えばインターンシップの学生から、」

「そうするなら、分かった。後に休講のころ一応部下に言いつける」
 鐘明景の話を聞いたやいなや、不安そうな色が浮かんだ。

「そういえば、いまのフロントでは昔そっちで働いた人がいるよ。そっちに転任させていったらどう、何と言っても私を除いたら、彼が唯一の経験者だよ」

「経験者、唯一か」鐘明景が何かに心配しそうに任遠帆を背にしてから、コーヒーマシンに歩く。

「経験者とはいえ、残念ながら、彼はニ、三ヶ月の人にすぎ」任遠帆が言い足した。

「ならば、彼の有無も当然なん、だろう」鐘明景が笑いながら、できたコーヒーを渡す。

「その人が絶対に役に立てるよ。絶対に、能力の方から言えばもちろん、適性の方から言えば、彼の右に出る人はあるはずがないって思う」任遠帆がコーヒーを置いて、切と願っている。

「それほど評判されているの、日本語の達人ではないだろうか」

「それはちょっと、彼の英語ならいいんだけど、日本語は駄目だ」

「あっ、それもいいんじゃん。その人の名前は?」

「陳欣明という人だ。少し覚えがあるの」

「えっと、ちょっとね」鐘明景が微苦笑を浮かべた。

「あっ、余計な話だけど、システムのことは上に教えてもらったらほうが、」

「山本奈々子と結構話し合った」

「へ!?お日本語がもうそれほどに上達するようになっているの、」
 目玉が飛び出るほどに驚いた任遠帆が思わずに叫んだ。

「そんなことはありえないよ。天才ではないし、」

「え?山本さんは中国語がよくなさそうだっけ、」

「えっと、一応日本語で交流していたけど。うまくやっていない。ホテルにやってくる前は日本語の家庭教師に教えてもらったら、すごくつまらなかった。一ヶ月くらい首させた。その後、QQでもう一人の日本語教師と出会った。話し方からしてめっちゃ面白い人とって思われた。初めてなのに、彼が丁寧にいろいろと日本語のことを教えてくれてた。彼は日本語学部のニ年生で来年に入ると三年生になる。ちょうど留学の準備をしているらしい」

「へー留学なの、すごい」

「日本語学部のランキングから言えば、十番以内の人みたいだ。それは彼の家族の事情に緊密な関係があるんだ。彼の家族はみんな日本のことと関係がある仕事に携わっている。お爺さんが東京大学文学部から卒業したっけ、今は大連理工大学で日本語を教えていたっけ」

「すごい、すごい」

「この間彼が留学の準備を整えているところだから、仕方なく日本語を独学していたぞ。本当に難しすぎるんだった。多分現段階のピークを乗り越えないと、次へ進んでいけない」

「まあ、それもそうね。ところで、ただで授業を受けていたの」

 鐘明景が笑ってから、「まさか、一時間で300元の授業だよ。学生の彼には少なくない金らしい」

「え、なかなかいい腕だね」

「彼のおかげで、なんとか山本さんと簡単な会話ができるようになった。っていうか、一番面白いのはホテルにやってくる前ね、ずっと彼と会おうとしていた」

「えっ、それなら授業はどうやって受けていたの」

「QQのビデオチャットだよ」

「そうか」

「彼が蘇州にいるって知った時に本当に嬉しかった。いくら偶然にしてもね。その後、彼のアドバイスにも賛成、対面授業になってきた。普通毎週の金曜日と土曜日になっている。山本さんと話しているうちに日本人向けのフロントのシステムは大抵知るようになった」

「そういえば、昨日のお客様が、」

「彼以外、前紹介してもらった彼の友達だ」

「昨日はちょうど彼、瑜覃文(ユチエンウン)の誕生日で、彼らをホテルに連れてきてご馳走した。もちろん、自分の金で。ちなみに日本語を教えてくれていたのは瑜覃文だけど、その中に一番すごいのは文成羽(ウェンツェンユ)という人みたいだ」

「文、ウェンツェンユって、なんか耳にした覚えがある」
 「えっ、そうなの、その人って、」
「コン、コン」
 鐘明景がまた何を聞こうとしているところを、ノックの音が聞こえた。


「あら、もうこんな時間なの、この話は今回にしよう。失礼させていただいて」

「では、今度にしよう」

 ドアを叩いたのは食堂で任遠帆と話し合った新人育成の講師だ。彼がこれから学生を連れてホテルのあっちこっちに見学しにいくって考えている。それで、任遠帆のうなずきを求めに来た。

「今回学生たちを二度とホテルのあっちこっちに見学するって鐘部長のアドバイスは確かに素晴らしい。では、よろしくね、あさってはまたもう一度頼むよ」

「分かった、安心してください。見学のことを終わらせると電話するから、いいの」

「え、そうしよう」
 認めをもらった男の人がすたすたと教室に戻っていった。



 今時、講師に言われたとおりに、何十名の学生が並んで長い列ができてホテルのあっちこっちを回って、説明している所に着いたたびに学生たちを呼び止めて、悉く説明した。

「このホテルには洋食はもちろん、伝統的な日本料理のレストランもある。それに同時に二十五人も同時に食事をすることは可能だよ、では次は客室に行こう」

 学生が講師に従って、ある客室の前に足を止めた。

「この部屋のインテリアデザインなら、一番蘇州らしい風に似合っている。今見ているルームは全部四つだけある。見に行きたければ、靴を脱いでから入ろう」

 男の人は実務に習熟しているに違いない。なぜならば、次の所へ令する前はなるべく好奇心に強く引っ張られた学生の心を満たしていた。歩いたり止まったり、ニ、三、まして十分間までかかっても、呑気に笑顔で景色には嵌った学生を待っている。
 

「袁章、あまり元気なさそうだね」

 ルームのデコレーションを見ているグループから離れた何人が通路の入り口で立ち話をしている。袁章も穎毅然もその中に入っている。


「別に、入らなくてももともとだ。穎毅然こそ、本当に入らないの、らしくないね」

「人がいっぱい詰まって、入れるかどうかはさておき、今の状況だったら向こうの突き当りに行こうにもできないだろう。おとなしく待てばいいんじゃん」
 穎毅然に言われたように、通路の向こうのドアの輪郭までもすでに人込みに遮られている。穎毅然が冷笑をして、携帯を弄り続ける。
「それも、それもそうね」相槌をして、袁章は何もせずにぼんやりする。

 間もなく、ルームの見学が終わった。一人ひとりの学生がルームを出て、ざわめきもだんだん聞こえなくなってきた。

「では皆さん、教室に戻ろう」

 通路は多くの人で埋まっていて、一番の人が前に歩みを踏まないと列も進めない。
 講師が列を客用のエレベーターに行かせずに、来た道に沿って戻れという指示を下した。今、穎毅然が前一番の人の異常に気がづいた。
 今、田んぼに挿してある案山子のような袁章がじっと立ち止まっている。

「おい、大丈夫なの、どうしたの、進まないと踏まれるよ」

「あっあっ、ごめん、気が散ってしまった」

「やっぱ、何かあったね」穎毅然が袁章の顔を垣間見ってから、すぐにさっきの質問を再び投げ出した。

「まあ、大したことではない、かもね。午後彼女と口喧嘩しちゃった」袁章が言い終わってから、ため息を吐いた。

「彼女と付き合っていることって、もう三年になっているね」

「三年どころか、四年になっているんだよ。高校二年に入ると文系か理系か選ばなければならないことになっているだろう。新しいクラスに編入された契機として彼女と出会った。本当に懐かしいなあ」

「へっ、まさか高校時代からの恋人なんて、では、なんのため?」

「午後は仕事のことで、携帯をバイブにしておいているため、彼女からの電話が受けなかった、それにメッセージが届いたことさえも見落としちゃった。いくら説明しても納得してもらえなかったのも理解できないわけではいないけど、最近なんとなく彼女との距離がくんと伸びているみたいだ」

「気のせいだよ、きっと。いろいろ考えすぎるんだよ。御両親の方にも、彼女の方にも、ここの天気がちょっと崩れたらすぐに電話することって、疲れないの。私は平日あまり家に電話をしないけど。天気が崩れそうになったとか言うと、『体に気をつけて』っていう話は大抵両親からの決まり文句にすぎないんだ。想像できたことだから、無意味」

「もう慣れているから、それぐらいの挨拶はもともと時間も精力も損耗しないけど。多分穎毅然の言ったように、気のせいにすぎないんだ」


「え、皆さん、ちょっと静かにしてください。夕食までまだ一時間くらいだ。一応ホテルの歴史についてのことを簡単に喋りたいと思おう。その前に、聞きたいことがある。皆さんは今このホテルの基本構造を分かっていないの」

 その質問に対した人々の答えは例外もなく、無声だ。

「ハハ、大丈夫、大丈夫。明後日また皆さんを連れてもう一度見学するから、楽しんでください。えっと、一応歴史の紹介の部分に入ろう」

 男の人が新たな劇の幕を開いた。ホテルの歴史を巡った話はホテルの由来、イベント、支配人の移ろいから、授与されたいろいろな賞までのことも言及されたが、近年の出来事は少しも言及されていなかった。
 そんな述べ方にはまっている聞き手には滑らかな筋に育んだ真実性に疑心を生むはずがないのは来る前にホテルとはなんの縁もないのは一つ、もう一つは今までここに繋がっていなかった彼には、たとえここの過去を掘り出すのはなんの利益も出ないはずだだって思われている。

 陳欣明によって語られた『食あたりの噂』も例の近年の出来事に含まれているが、疑いもなく、そのような怪しさも恐ろしさも兼ね備えた事に興味を持つと言える奇癖に染み付いた人は多くはないが、面白さから見ればそれが実に一層遥かに講師に述べられた歴史を超えている。

「短いながら、今日はここにしようか。この時間は食堂が開くようになるはずだ。ご自由に、おっと、もう一度言わなければならいね。寮の管理者も言っておいただろう。一応もう一度忠告しよう。皆さんの人身安全を確保するためには毎晩は寮の人数を確かめさせていただくことになっているからだ。いざいなかった場合だったら、もし事前に学校の方とこっちの説明をしておかないとすぐに学校に届け出ることになる。自分にでもいい、どっちにでもいい、できるだけ迷惑をかけないでほしい。休暇願いの仕方は先に説明しておいたから、やや面倒だけどなにとぞ守ってください」
 男の人が腕時計を確かめて、身近の書類を片付けはじめる。暫く男の人が素早くできて教室を出た。


「コン、コン、コンコンコン」
「ちょっと待ってくれないの」
「はい、」

 任遠帆のオフィスは鐘明景のよりずっと地味だ。少し色の褪せた黒いプリンタ機、コンピューター、エアコン、電話だけだ。

 任遠帆が目の前一枚の資料を一気に読み切って、大きく欠伸をして、真顔で外国人フロントの話題を広げた。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?