第10章(中)


「すみませんでした」
 李尋玲がなにかに気づいたように謝る。

「どうしましたか、李さん、きゅうに」その反応に驚いた井上が身震いをした。

「はじめてなのに、こっちのことばかり話して、またしょうきょくてきなことですし、」

「李さんって、日本人の立場からいえば、えっと、前のであえた子たちとくらべればなんといえばよいか、れいぎくるしいみたいです。」

「レイギ?あの、すみません、れいぎって、ちょっとレイギのいみをわすれてしまいました。」

「えっと、李さんはさほうのいみしってますか」

「さほう?あ、わかりました、おもいだしました。でも、ふつう私もこのふうに、あの、井上先生のことをきかせてもよろしいですか」

「もちろんいいですよ、」

「井上先生がなぜうちのがっこうをえらびましたか」

「よいしつもんですね。こんど貴校の非常勤に応募するのはちょっとぐうぜんですね。」

「ぐうぜん?」

「はずかしながら、こんどは重慶や成都へいくつもりなんでしたけど、そちらの知らせを待っていたその時こそ、貴校の教員またはれんらくいんの何越泽(へユェゼ)、何さんが大使館をかいして私のことをみつけました。考えを変えるまでなかなかせっとくしてくれて、ほんとうに苦労させてしまいました。何さんはほんとうに根性強いかたです。」

「そうですか」李尋玲の声が少ししょんぼりするように聞こえる。

「そういういみではありませんよ、そっちへ行かないことにしたのも私でしたから。それに蘇州にもずっときょうみをもっていますよ。そうです!李さんが《長き旅、此処にて止むまじ》というざっしをしってますか、中国旅行案内としてアマチュアむきの大人気ざっし、しってますか」

「ナガキタビ、ジキ?あの、すみませんが、もう一度言ってもらえませんか」

「長き旅、止むまじって、あの、李さんは日本語の古語を学んだことがありますか」

「コゴ(古語)?!あの、もしかして何百年前使っていた昔の言葉ですか、井上先生すごいです」

「いいえ、いいえ、私には難しすぎです、古語のやくって、まえがきにかいてありますね。」

「そのざっしならどういういみですか」

「えっと、たびじは長いですから、いまとまっているところだけにまんぞくしないほうがいい。そのざっしの編集者も『人生の道は長いですから、いまのところにとどまらないで、もっと広がった景色にであえるほうがいい』という訳(やく)もあります。」

「では、まじのいみをしないほうがいいとりかいしてもいいですか」

「えっと、それはたしか『まじ』はそれよりややふくざつでしたっけ、えっと、私の記憶かぎりに、やはりなかなか説明できにくいですね。あっ、あの!『なに、てはいけない』といういみもふくまれていますよ。たとえば、日本では自転車は人をのせてはいけませんといういけないですね、そういえば、李さんの立場からいったら、文法なのでしょう。まじ、まじき、たしかN1の文法でしたっけ、そういえば李さんならもうN1の認定証をとっています、でしょう」

「井上先生がいいすぎます。まだとっていないです、いまN2だけとっています。ふつうまなんんでいたこととほとんどちがっています、日本語能力試験の問題って、はじめてN2をじゅけんする前、試験には筆記試験が先に、そして聞き取りの問題という順番も先輩たちも先生たちもよく聞かされてもいざ試験となるとその時の感じって、ぜんぜんちがいます。中国高校では大学に進学するには一つの外国語をまなばなければなりませんということ、井上先生もしってるのではないでしょうか。」

「はい、しっています。」

「外国語のテストが日本語能力試験とのもんだいはほぼまぎゃくになっているそうです。」

「そういったら、それもそうですね」

李尋玲の言うことを真剣そうに考えに溺れそうな井上が抜けないうちに「あの、《長き旅、止むまじ》でしょう」不意に聞かれたため、井上が吃ってしまう。

「あ、っあ、はい、どうしましたか」

「もしかしてそれは井上先生が蘇州にくることとなんのかんけいがありますか」

「それはね、そのざっしですね。たしかにたしょうかんけいがあります。それは編集者としての松本健一郎(まつもとけんいちろう)が自費で中国のあっちこっちをあそんだけいれきを連続観光雑誌にへんさんされたというものです。さくしゃ本人はもちろん、中国人の自国の旅行見聞さえものっているらしいことってほんとうにしんじられなかった詳しさです。いまも連載中ですよ、もう六、七年もっているみたいです」

「そうなのですか、では、そのなかに蘇州はどんなところですか」

「一言だけではなかなかいいきれないですね。蘇州なら、なんか松本さんもそこに執念深いようです。特に最近は多かれ少なかれ蘇州のふうこうをえがいてあるページがおおすぎるようです。そのなかにいちばん力のはいった部分は蘇州の虎丘(こきゅう)に違いないです。」

「コキュウ?え、井上先生がいった(言った)のは呉王夫差(ふさ)、その春秋時代の人の墓なのでしょうか」

「そう、そう、そう、理解できてくれてほんとうによっかたです。友達にいうたびに、自信満々『コキュウ?え、わかっています、北京ですね。』ってこたえてくれて、やや気まずかったですね。」

「同じ読み方ですね、わかります、わかります。仕方がないですね、ほんとうに反論できまいですね。」

二人が互いに見合って、笑い出した。

「李さん、」

「はい、」

「李さんも旅行のタイプそうに見えますね」

「井上先生もそう思っていますか、」

「日本語がこんなにペラペラしゃべれて、日本にいったことがあるでしょう」

「えっと、北海道とか、」

「北海道いがいは?」

「えっ、小学校時代は京都、中学校の修学旅行は九州の熊本、高3の夏休みは沖縄、東京ならもう何度もあそびにいきました。ちょっとあきっぽいです。」

「やはり李さんは見物にこのんでいますね」

「それは両親のえいきょうかもしれないです」

女の二人が話し合っている途中にとなりの係りたちが二人のところに寄ってお客に設置されたソファーに誘おうとしないわけではないが。それは女の二人が疲れも知らずに立ち話しを続けているのに気の毒に思うほどではなく、掛かりたるやるべきことの一環なのに、実は丸眼鏡をした男の人がカウンターの近くによってきたや早いが、美男子の頭とした三人が出迎えに行った。中国語の共通語で予約を確認したその後、「まだ人が揃っていない、」、「立ち話しをしている二人を邪魔しないこと」という指示を受けて、それで彼の意思どおりに招こうとする念頭をやめてしまう。

ドアの二人は声が大きくないが、さすががらがらした空間だし、カウンターの人さえもほのかに聞こえるくらいの距離だから。それにしても、意味ばかりか発音にも怪しく聞こえて、それは異国の言葉なのかれもしれないという考えを抱いて好奇心にそそられて、二人のところに目移りをしてものカウンターの係りたちの行為も想像にかたくない。
 二人のドアボーイが荷物をカウンターを一旦カウンターに置いて、二人のとこへ折り返したところへ、美男子に呼び戻された。と、このまま美男子に含まれた三人が何も言わずに案山子かのように女の二人のとこに鬱気を含んだ眼差しで見守るようになる。

「そういえば、井上先生が九寨溝(キュウサイコウ)というスポットをしってますか」

「耳にしたことがありますけど、たしか四川の景勝の一つでしょう」

「そうです、そうですよ、」李尋玲がわくわくして拍手する。

「あっ、思い出しました。たしか五彩池(ウツアィツ)というところがそこに、でしょう」

「井上先生がほんとうに詳しくしっていますね。いったことがありませんか」

「あの、実はね」

「ア! 井上先生がさっきいいましたのに、すみませんでした、わすれてしまいました」

「いいえ、そういうつもりではありませんでした。といっても、個人的な決めでしたから、それ以上、ね、」井上が真剣そうな口で責任を全部買う。

「あの、井上先生、先生はパンダがすきですか」

「パンっ、もちろんですよ。すきじゃないわけがないですよ。李さんも同じなのでしょう。あの、李さんがしってますか、リーリとシンシンのこと」

「リーリというと、もしかして上野公園のパンダでしょう」

「そう、そうです。日本を立つ前に何度も足を運んでいました。うちの孫娘ならほんとうにむちゅうしていました。両親は仕事に忙しくて、普通私がつれていってきていますから、まあ、そのおかげでもうなん十年ぶりの娘と連絡することも多くなってきました。ほんとうに不思議ですね。」

「え!?まごむすめ?あの、」李尋玲が驚く。

「実は二人も非婚主義者です。たぶんわたしの影響をうけたかもしれないです。李さんがわかっていますか、ヒコンシュギって」

「えっと、ちょっと頭がくらくらしています。あ、そうですか、非婚主義って、抽象っぽい言葉ですね、日本語の‘不婚主义’(ブフンズウイ)あまりきいていないみたいです。普通ならば、」

「というと、」

「少子化、銀髪族とか」

「李さんがほんとうにいろいろしっていますね、こわい、こわい」

「井上先生がいいすぎます、社会的な話題がほんとうに苦手なのです、教科書といったところです。」
「そう、そう、井上先生がこの時に来たら、予定もうできていませんか」

「予定って、どういう意味ですか」

「もしよかったら、一緒に四川へ遊びにいきましょうか。祝日のときや、」

「え!?本当ですか、まだきめていないですけど、正直いえばまよっています、中国語が自由につかえる程度ではないですけど、四川や重慶辺りの訛りと共通語との発音は別々らしいですね。昔北京にいた時、重慶出身の子に少しきかせてもらっても、少しもききとれませんでした。李さんがどうおもっていますか」

「一言ではいいきれないとおもいます。地元の人々は共通語ができないわけではないですが、高齢者にはちょっと無理すぎるんでしょう。たしかに井上先生はそのような考えが必要性も高いです。それはしみじみ経験しなければ言葉にならないことです。例えば、ヨーロッパのある国では高齢者とはなしあうのは難しいです。ほとんどききとれないということです。でもたとえ共通語だとしても簡単なことではないっておもいます、屋台でもラーメンをまっている間おじいさんにはなしかけてみたら、ほんとうに恥ずかしかったです。その一瞬、日本語能力はまだまだですって強くかんじられました。」

「そうですか。学生たちがそのことに文句をつけたことがあります。それより、李さんがヨーロッパへいったことがありますか」

「そうです。もう中学校のことでしたから、写真はよくとりましたが、細かいことならあまり覚えがないですが、それは修学旅行の一環でした。Isola di capri とか、Vatnajokull などいろいろなところにいきました。そう、そう、特に Vatnajokullでは氷が青くひかるようにみえた絶景って今でもちゃんとおぼえています。」

「capriって、もしかして南イタリアのそのカプリなのでしょうか。李さんはイタリア語もできていますか」

「いや、ちがいます。できるのはそれくらいだけです、ガイドさんがおしえてくれたことはさっぱりわすれてしまいました。井上先生がカプリもしっていますなら、では井上先生も?」

「結婚旅行のことでした。もう、」

「それは、それは偶然すぎるんでしょう。まさか井上先生と同じところへいったことがあります。しんじられないです」

「こちらこそです。ほんとうにびっくりしました。」

「それはきっと縁(えん)ですよ、縁です!」

「わたしもそうおもいます」

二人が互いに見合って、笑った。

「冬休みなら、井上先生の都合はどうでしょうか、」李尋玲がいい終わって急に空笑いをする。

話題がもとに戻った。

「そうですね、冬休みなら、こちらは、実は予定がはいっていますけど、旅行のことはちょっと、」井上が微笑みらしくない微笑みをあらわした。

「あの、井上先生がQQをもっていますか」
 李尋玲がまだあきらめていない。

「QQなら、もっていますけど、しばらくつかっていないですから、いまはログインできますかどうか、」

「じゃ、ツイッターは?」

「え!?李さんがツイッターをもっていますか」

「はい、えっと、兄さんがオランダに留学していますので、それがないとこまります。父も仕事のため一年大半は海外にいますから。」

「そうですか、交換ですね、えっと、ちょっとまって」

二人が互いのIDを確かめて、交換を済ませた。

「あの、井上先生、」

「はい、」

「電話がはいってきました。文成羽と瑜覃文がどうやらつきます。ちょっと電話をとってきます」

「どうぞ、」

「え?そんなことに遭ったの、お二人は運が悪くてもほるがあるでしょう。先生のことって、私たちなら早く着いているわ、それもね、カフェのブースなの、じゃそこで待っておるわ、」

「井上先生、長くおまたせしまいました。すみませんでした。井上先生よろしければひとまずあっちできゅうけいしましょうか」李尋玲が周英超のところを指す。

「いいですよ。文さんと瑜さんのことが大丈夫ですか、雨足が強くなりそうですけど、」

「まあ、その二人は運がよくなさそうでいろいろみまわれてしまいました。仕方がないです。一月に何度もひどい目にあっています。にげようにもにげられないですもん、」

「ちょっと哲学っぽい言葉ですね、」

「それが実は瑜さんの口癖です。彼はなかなか面白いやつですよ。あえばかんじられる人みたいです。あと5分こないとこっちがブースにいきます。いいですか、井上先生」

「じゃ、李さんの言葉のままでいいです」

井上の話のごとく、雨足がだんだん強くなりつつある。三人のそときの雨を切れ切れな糸にたとえば、長細い銀色の編み針がこのときこそだ、いわば篠をつくという態勢で何かするどいものが地面にぶつかってばしっと折れたように聞こえる。

「あの、」
 李尋玲が美男子をはじめとした三人のところに向いて一声をする。

「はい、どうされるの」
 美男子が直ちに応える。

「あの、友達がちょっと事情で遅くなるから、先に私たちをそっちに連れてもらえないの」

「はい、畏まる。私がお案内いたす。お友達のほうはうちの二人に任せてもよろしいでしょうか」

「よい、ありがとう」

「周英超(ゾンインチャオ)!立て!」李尋玲が無愛想にソファーに深く凹んだ丸眼鏡をした男の人に命令をくだす。

「あ、もう終わったの、ごめんごめん」李尋玲の命令を受けたに至って、目をつぶって気楽に休んでいた周英超がやっとよたよたと立ち上がった。

「いま行くの、ちょっと早いじゃないの」
 李尋玲の近くに止まった周英超が欠伸をした。

「その件ってこのままで、まさか見過ごされるようになるって思っているの、隣のクラスメイトがいなければ喧嘩になるでしょう。相当に悪かったでしょう、」

「え、まだ考えてくれているの、俺のことって」

「なんと言っても私の範囲で、仕方がない。平日カウンセラーに言い含められて、初めて、ではないでしょう。」

「そう言われても、もう去年のことなんだろう、最近はもう、」

「大勢いたよ、やりすぎた。最近、校規で学生の動きに厳しいことが知らないわけでもないのに、おしてこんな時期に」

「だって、」
 変わりの速さに咄嗟に吃って、周英超ははやく切り替えた一喜一憂をした色がとうとう愁いに留まるようになる。

「言ったでしょう。大勢いたし。口喧嘩の原因であろうと、謝らないとすまない状況になってしまったと思うよ。カウンセラーさんの性格も知らないのではいないわ。この時なら恐らく彼女の耳に入ったはずだ。そんなことだったら、たとえ、たとえその授業担任の先生が話しなくても、大一の野次馬の本領がわからないわけではないでしょう。お前がそのなかに入っていたでしょう。隠すより現れるよ!口喧嘩を見下ろすな、どうやら日本語担任の何先生と仲していたそうだとしても、つまらないことで面倒をかけるのはつまらないことでしょう。」

「じゃ、どうすればいいよ、」周英超が泣きそうになる声で、いらいらして、完全に主張を失った。

「慌てないで、今すぐカウンセラーに電話して、経由を詳しく説明して、そうすればなんか希望があるかもれしない。はやいほどいいよ、向こうが先になると遅い!私が井上先生と先に行くから、はやく済んで、」

「わかった」
 周英超が苦渋なる顔ながら渋々受け付けた。

「はい、はい、今回のことはほんとうにすみませんでした、はい、はい、ほとほと懲りした。ありがとう、カウンセラーさん」
 十分間もの通話が終わったところ、周英超が高ぶって勢いよく一人でカフェへ急いで走っていく。



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