シキ外れ
第二章
コンーコンーコン
「どうぞ」
「お邪魔します」
老人は背もたれとした枕に寄りかかっていて、男の子の顔を見ると、ぱっと顔に花が咲いたかのように笑って手を振ったりする。
「ほら、お爺さんがお呼びです」
看護婦が両手を軽く両肩に置いて、じわじわと伊江武の体を老人のそばに押していく。
「爺さん、久しぶりです。お元気ですか」
伊江武が俯いて含羞みそうに伊江圭を垣間見ている。
「ありがとう、けっこうよ」伊江圭が看護婦に軽く微笑んでこっくりした。
はいと言わんばかりに、指示を受けた看護婦が手を肩から引っ込めて、幽霊のように音も立てずに部屋を立ち去る。
「さあ、さあ、顔を上げよう。なんで俯いてばかりいるの。あら、もしかして、この傷を怖がるの。それはね、ちょっと困るなあ。実はアカシだよ。友情の証、昔の親友との印だぞ。ずっと前のことなんだって、」伊江圭が指で7センチメートルの傷痕をほやほや挫いて、大笑いをする。
「アカシ?」伊江武がゆるりと顔を上げて、疑惑の目で傷跡を見つめている。
「まあ、ずっと前のことだから、あんまり思い出せないんだね」
伊江圭が目を瞑って、思い出を語りだす。
「俺はもともとシャンハイというところに住んでいましたけど、いろいろなことあってやむをえず名もない田舎に引っ越しちゃった。あの時は一人ひとりには多くの農作業をしなきゃことになっていた、遅くまで家に帰るのは普通だった。ある日、一日分の農作業を足して、家に帰っている途中に見知らぬ男の人に出会った。そいつは髪ももじゃもじゃ、服もぼろぼろ汚くて、何という体たらくだった。聞くと李鳴なんだって。どうやら彼が言うべきではないことを言ってしまって同行者の機嫌を損なってしちゃって、危うく殺されるとことだった。腐れの縁かもしれない。その日はちょっと雑事のため、寄り道しまった。殴られて死にかけたその人を気の毒に思って、手を差し伸べて、喧嘩を買った。相手は三人、味方は二人、それにしてもぜんぜん相手にならなかった。それはその人を守っていた時に不意に槍に突かれた傷なんだ」
「これでも逃げきりましたか、爺さんが、」
「幸い、何より足のほうが彼らよりすばやくて、ちょうど日が暮れて真っ暗になったことも加わって、どうにかしてやつらを撒いた。本当に命からがら逃げたんだ」
「へ?そんな乱暴な人って本当にいますか、勝手に暴力を振る舞って、警察さんが?」伊江武が目も口も大きくなって、伊江圭の物語りの凶徒に託った。
「あのときにはそれは仕方ないことだったろうか。通報することはできなかったというより誰でもケイサツの時代だったよ。武、時代によって、いくら怪異のことにあっても、いくら不公平なことにあっても、それがそれなりの必然性が付いている。とある過去のことは違い形で未来に再び現れる可能性を誰も否定することができないぞ。まあ、今の話が今の武には早いけど、いつかわかってくれるようになるだろう」慈愛に満ちた目をした伊江圭が孫の頭を撫でたりする。
「誰でも警察?わかりません、じいさんの言葉がわかりにくいって思います」
「じいのことより、武がまだ自分のことについて何も言ってくれなかったよ。こっちの物語りを聞いたのに、何も聞かせてくれなかったら悲しくなるよ」浮かない顔を一変して、伊江圭が笑いつつ軽く孫の肩を叩く。
「え、違います、違います、ただ爺さんの物語りはあやしくて、言いたいことをさっぱり忘れてしまいました。ちょっと、ちょっとね。えっと、今日は病院でまた定期の健康診断を受けました。母さんと一緒でしたわ」
「昔は二週間おきに、今は確か毎年のことになっているだろうか」
「そうよ、そう、そう、あのさ、さっき爺さんのおかげで、母さんに叱られなくて済んです。本当によかったです」
「さっきの騒ぎの張本人がやっぱり武なの、誰かが思ったらね、お母さんにしっかり叱らせたほうがいいのかもしれないぞ」
「爺さん、やめて、やめて、許してくださいよ。その時、もうすぐ三年ぶりの爺さんに会えるんですから、思うと、つい、」
「じゃ、今度だけ許してあげる」
「はい、すみませんでした」
「じゃ、その代わりに、武、今日のことは母さんに内緒してね、男同士のお互いの秘密だから。絶対に内緒して、約束して、」
「はい、爺さんと二人の秘密、ママに内緒しますから、」
「えっと、あとは看護婦さんに案内をしてもらうから、彼女について周りの美味しい食べ物を楽しめに行こうか。アイスクリームとか飴とかいっぱいあるよ。そう言えば、今は体大丈夫なの」
「平気ですよ、平気なんだって、」
「それならいいなあ」
伊江圭は快活な笑いをしてから細めていた目で掛け時計を一瞥して、そして呼びボタンを押して、さっきの看護婦に伊江武を部屋の外に連れて行かせるように命じた。
「武、お爺さんは元気?」病室を出た伊江武を見ると、心配そうな顔をする伊江奈々子が聞き出した。
「はい、元気だよ。そう、看護婦さんと一緒に美味しい食べ物を食べに行くよ。母さんも一緒?」
「え、いきなり」
「爺さんとの約束だもん」
「それなら、まあ、母さんはダイエット中だし、もういいわ。ちやんと看護婦さんについてわ」伊江奈々子は心配そうな顔で、伊江武の誘いを断った。
「はい、わーかってば。心配しなくてもいいよ。もう大人になっているから」
言ったが早いか、しかめ面をした伊江武が看護婦を置きっぱなしで、独りで外へ逃げ去った。
二人がコテージを離れたばかりに、
丸いメガネをかけていて、よれよれの黒いシャツに太いズボンにぴかぴかしていた黒い革靴をしていた、白と黒の市松模様のマフラーをまいた男の人がゆっくり廊下の扉を押した。彼はすき間から中の様子を覗いて、こっそり体がちょうど行ける隙間をすり抜けて、徐ろに本を読みふけている伊江奈々子の近くのとこにすっと止まって、優しい声で呼びかけた。
「伊江さん、お久しぶりですね」
「え、リ、李鳴(りめい)、李さんではないでしょうか。あ、あの、お久しぶりです。李さんがいつか、ぜんぜん李さんのことに気づいていなくて、本当にすみませんでした」
伊江奈々子が男の人を見上げながら、本をベンチ端っこに置いて立ち上がって、そして目の前の五十歳ぐらいの男の人に何度も丁寧にお辞儀した。
「お久しぶりです。いや、さっき、伊江さんが本を読んでいるのを見ましたから、それでこっそりと入りました。読書を邪魔しましたから、こちらこそです」李鳴が謝って、礼を返した。
「あの、さっき、噴水のところに、目元の凜々しい少年を見かけました。もしかして、」
「隣に看護婦のような人が付き添っていますか」
「あ、そうですよ。そうです」
「それなら息子です、伊江武です」
「そうなんですか、伊江武もずいぶん大きくなりましたね。えらい、えらい、格好もいいし、性格も明るい、ずっと女の人をうろちょろ回って、『アイス食べたい』とか『ケーキ食べたい』とか大いに騒いでいました。随分陽気ですね、」
「その子、心配させないように大きくなるといいなあ」
「まあ、まあ、まだ子供ですから、心配するには及ばないんだと思いますよ。そういえば、西洋画、多いですね」李鳴が話題を飛ばして、大まかに廊下の景色を見回した。
「あっ、もしかして引っ越してきたあとに設えられたか。あの時の数よりずいぶん多くなったみたいだ」
「えっと、私の知っている限り、ないみたいです。初めからはこういうふうでした」
「そうなんですか。ううん、絵のことは一応置きましょう。気絶されたことってどういうことですか」
「え、実は一昨日、急に気を失って、会社ヘ内緒をしたままここに運ばれてきた。あの、李さんは上海のある大学に教鞭を執っているそうですが、こんなに早くお見舞いにいただいて、本当にすみません」
「まあ、教鞭か何か、ただの非常勤としてやっています。一昨日の夜中に学校国際連絡先方面の知人からの電話に出たおかげで、こっちのことを知りました。胃の調子が急に悪くなってしまって、入院する恐れがありますとか。それで、いろいろな手続きをまとめて、二日急いで台湾ヘいく飛行機に乗って、台湾を経由して日本に来たんです。今、お調子はどうですか」
「長野さんはまだ言い切れないって。とにかく安静したほうがいいって伝えてくれました」
「伊江さんのほうは、さっき途中にもう連絡しときました。体の具合を少し伺いに行ってきます。伊江さんがついてこないですか」李鳴が言い終わって、部屋へ向く。
「父さんなら」
「ごめんなさい、忘れてしまった。今でもその風ですか」
「はい、変わっていないです。勝手に入ると怒られるはずです」
「じゃ、お様子、ちょっと伺いてきます」
「はい、どうぞ」
伊江奈々子は軽くうなずいた。李鳴の姿がドアに隠れたのを見送ったら、そばに置いてある本を読み始める。
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