シキ外れ
第十一章
長い往事への追憶の話は一旦収まりがづいた。二人が無言で掛け時計の針の音が聞こえるほど静かな部屋で長い時を送った。
「あの、李さん、寒くないの」
「私ならいいですが、お体は、えっと、ちょっと待って。なるほど、なるほど、エアコンが稼働していないですね。道理で全然音がしていないですね」
李鳴が手をセントラルエアコンの吹き出し口の方へ手を伸ばすと、
「たしかに、風が出ていないんです。標識の細いひもも揺れていないし、暖かくも感じなくて、壊れてしまいました。もしかして昨日街灯が漏電してたことの関係ですか」
李鳴が言いながら、またセントラルの風口の真下に歩いて、手をゆっくりと上げると宙を振ってから、伊江圭の方に振り向いた。
「お体、大丈夫ですか。あの、一応、修理屋を」
「結構、見に行ってきて」
「では、」
「まあ、戻らなくてもいいぞ。直せばいいんだけど、」
「まあ、そんなことをおっしゃらないでください。この後邪魔させていただきます」
李鳴がノートも万年筆も持たずに、テーブルに置いたままに、伊江圭に軽く頷いてから部屋を立った。
李鳴が部屋を出ると不意に伊江奈々子と鉢合わせるところだった。
「危ない!」
「あ、どうも」
「いや、いや、こっちこそ」
「もう終わったの」
「ええ、伊江さんがこんなに速く歩いてきて、どうしたの」
「部屋のエアコンの具合をちょっと確かめに行くつもり」
「いいところだね。稼働してないんだよ。こっちもそれこそ外に出て、聞くつもりなんだけど」
「どうやら電線に何か故障があったみたいだ。昨日李さんの言った例の街灯に何か、漏電したっけ。パナソニックの業者がいま外で調べているところだ」
「そうか、じゃ、そっちへ行ってくる」
「はい、ごゆっくり」
街灯のところで、
ちょうど今二人の業者が修理の仕事を進めている。
「オット、いくら老化しても程があるだろう。っていうか、それってずいぶんひねものじゃねの、今そのような電線でセントラルに給電するってあまり見ていないんだね。珍しいね。って、室外機の方はどう」
「埃がちょっと付いたけどっす、もうちゃんと払いました。部品も電線もちゃんと調べておきますから、大丈夫っす。どうやらさっきの雷に影響されていますって考えます。先輩はどう思われっているっすか」
「やっぱ一応店に電話しないと、型番の在庫を確かめなきゃ、セントラルの方より街灯のほうがずっと面倒くさそうに見えたけど、皆どれでも古いものだから、電線は言うまでもなく、電球も変えないと、とにかく今一番必要なのはセントラルの給電を直すこと。給電の仕組みから見れば、屋内の照明系統に障らないって思う。今明かりも悪くなさそうだけど、さっきは末日のような大雨に見舞われて、一時間くらい過ぎて、こうになちゃったってなんて、信じられね。とにかく暗くならないうちに早く済ませて、」
「はい」
二人は互いに仕事の情報を簡単に交わしてから、また仕事に没頭しなおす。
道端の通れなさそうな道路の果てに水たまりに落ち葉が漂っている。暴風雨上がりの陽光がいつもより柔らかくて、心も自然に弛む。驟雨が見舞う寸前その光に比べれば、ただ僅かな血の色が欠けているだが、そんな色には溺れたら、時間さえこの瞬間に止まるかのような錯覚に渦巻かれる恐れがある。そんな風景に立って、さながら日の終の時点が訪れてこないかのようだ。黄昏も迫ってくるのではないかという圧迫感も気づかないようになって、気楽なのに、いざ今の時刻を確かめると、現実に置かれている実感がますます湧いていくこと相応に想像から精神的にそれ上なき刺激を与えられて、ちくちくうずくするする痛みと相違がないことは、いわばある精神的な病に取り憑かれて、時間への認識が乱れて、錯乱になる。そのせいで一層目の前の光、その色その存在さえにも目を疑うようになる。
一吹きが過ぎて、何枚かの落ち葉を連れていった。冬らしい風だった。風が通り過ぎるやいなや、嚔の声が絶えずに響いた。
今日の景色は昨日のとあまり変わっていない。鴉が相変わらずにこのあたりの天空を飛んできて、空を滑って、そして風の向きに乗って、あまりの気力を出さずに例の枝にゆっくりと留まった。
鴉がゆっとりと木に留まるが早いか、一人の男が訪れてきた。
少なくない白髪が混じった黒い髪が生まれ付きカールに、茂った頬ひげに、血走った目をした重苦しそうな表情をした人が徐に鉄門を潜った。松柄の付いた烏羽色の着物に真っ黒い羽織を合わせて、袴なしに着流しのまま、白い足袋に下駄の出立ちをした、右手でしっかりと携帯を握った少々痩せた男の人は二人の修理屋を見ると徐々に寄ってくる。
すると、
「ハクっハクション、サム、やっぱスピードを上げねと、」
「うまく進んでいるの」
「すみませんが、ただいま必要な部品の在庫を確認させていただいて、時間が少々かかりかねないです、大変申し訳ございません」
「お時間いただいて、お迷惑かけまして、申し訳ございません」
一人の業者は電話をして、もう一人は屈んで箱の道具を整えいるところだ。蒼色をした古びた作業服をした二人の後ろに現れた、今柔らかな日差しの中で極めて目立つ鴉色の着物をした男の人だ。彼がしゃがんでいる業者に問をかけた。声を聞くと、もう一人の業者が携帯を置いてから、振り向いてきて、まず彼に礼をした。山兵大野(ヤマベオオノ)は軽く頷いて、視線がすぐにドアを引いて、左半身を外にしていた人にひかれた。二人の目が合った瞬間に互いに近寄るために踏み出した。
「李さん、お久しぶり」
「山兵さん、お久しぶり」
「いいところに来たね、山兵さんが」
「なんで」
「見たとおりなんだよ」
「それは、それは」
「今日はこんな洒落な服で、なんで、宴とか、それとも記者会見?」
「いろいろあって、一言説明できない。伊江さんはいかが」
「ちょっと話し合った。いろいろね。なんか一夜でずいぶん良くなったって、特に前のことでも大分思い出せるようになった。本当にびっくりした」
「へっ、思い出したってどういうこと、」
「いや、こっちの台詞なんだろう。山兵さんが一番近くいるのに、俺に聞くなよ。自分で確かめれば分かるよ。って、伊江さんが武のことをどう思っているの、」
「まあ、そんなことは李さんには、どうでもいいだろう、いまさら、」山兵大野は口振りが硬くなった。
「心配しているから、なんとかしてやらないと、」
「まあ、実は何度も聞いてくれた。しかし最後に自問自答ぶりをしたあげくに、話を濁して、誤魔化されたみたいだな」
「そうか」
望ましい答えをもらわなかった李鳴がポケットを弄ったりして、しわを寄せた顔で後ろの建物に振り向こうとするところを、
「李さん、伊江さんが何かを思い出したの、さっきのことを教えてほしい」
「いや、それは、」
「なんと言っても、自分で確かめるのは、やっぱ、」
「大したことではないよ、ただ武には余計なストレスをかけようとしないって。子供には子供だけのやりたがることなんて意味不明な言葉ばかりだった。どうせ山兵さんの言った新しい局面を切り開くこととちっとね」
「伊江さんが本当に武のことをそう言ったの」
「間違いないよ」
「伊江さんが今目覚めているんだから、私も迷わなく行ける気がした」
「どういう意味」
「そのままだ」
「そう言っても、山兵さん!」
山兵大野がその疑惑を満たした目を無視して、相手をほっておいたまま、ひたすらにコテージに向いていった。
それに対して、だんだん遠くなっている姿に一気に縋ることではなく、ちょうどいい距離を置いた曇りかかった陰った顔をした李鳴は。
「伊江さん、こんにちは」
「山兵さん、こんにちは」
「急いでどうしましたか」
「あ、新しい医療機器がもうすぐ届きますが、ぼんやりして金を持っていませんでした、これから運賃の金を送りに行きます」
「お義父さんは今元気良さそうですわ。何か話したいならば、では、」
「ありがとう。では、」
伊江奈々子が山兵大野と李鳴との二人に一言の挨拶を交わしてから、急いで行った。
「山兵さん、ちょっと、」
「どうしたの、」
「同行させてほしい、ですが。よろしいでしょうか。」
伊江奈々子が既に廊下を離れた。李鳴が相変わらずに距離を置いたまま、前の烏羽色の着物に真っ黒い袴をした者を見つめる。今の状況では、おそらくどんな言葉にしろ二人の距離も埋められない。
「それは僕が決められないことですから、伊江さんがいつもそのとおりですよ」
「伊江さん、いいえ、お社長さんのお気持ちって、それは、」
「なら、どうぞ」
山兵大野が身を前にして廊下の奥に一歩して、ぐるりとして腕を組んで、向こうから近づいてきている者をみつめている。
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