シキ外れ

   第一章

 和光市中、人家は稀で静寂な一角に、往日と変わらず何日おきにそれらがいつも同じ木の枝に留まってくると煩い声を立てる。

 遠くもなさそうな高くもなさそうな茜色の空にかかった雲で霞んだ落日の大半に、被さった黒ずくめの肥大な鴉ならではの甲高い鳴き声が嘘寒い夕方の静謐を破った。


 錆色の斑のついた鉄柵に囲まれた庭園に1メートルごとに設けてある踏み石の通路に分断された両側に3本ずつ立ち並んでいる、もともと唯一の生気の彩りを添ったと言える木までもそのざらざらとした樹皮が言うまでもなく煤けたせいで、枝という枝もくすんだように見える。芝生の剪定は久々されていないか、萎んだ草むらが疎らにあっちこっちに点在している。通路の真ん中にかねて涸れた噴水のてっぺんに大理石で彫刻された天使が佇んでいて、薄暗い埃を覆った翼に少しひびが入った。

 噴水の前方に暗紅色の扉にぼけた『療養用』という札は掛けてある3階建ての壁が些少と白けた西洋風の色に染まった建築がある。


 その建物の中に長い廊下の床に茶褐色の絨毯が敷いてある。いくつ精巧なショーケースの上に据え置かれた金色の縁取りをされた精緻な純白な細瓶は壁にかけられた大型のタブローが相まって、まさにアーティスティックな雰囲気に包まれた個人的なギャラリーのようだ。


 今、白い建物の前に二人がいる。女の人がドアがノックすることもなく、前に一歩進んで手を出した。

 厚そうなドアが開けられたなり、屋根に群がった鴉が的もなしに逃げ回っていく。


 ちょうどいま外の灰色の生き物との鳴き声とは違って、内の一頃の病苛まれた掠れた唸り声とは違って、活力つけられた弾けそうな元気にあふれる子供らしい子供の声だ。

 廊下の静かさが六歳くらいの男の子の声で破れた。

 その子が左に跳ねたり、右に跳ねたりしていている。とんとんした規律の足音にはしゃい呟きの声が強く廊下に反響している。

「たけし、やめて!」

 灰色のパーカーにブルージーパンをした、栗色のブーツを履いたショートカットの街に一般女性の転がるにもすぎないかもしれない出で立ちをしたのは伊江奈々子(イエナナコ)だ。余りにも複雑な表情で、前の子を引き摺って、止めようとするという焦った気持もいい、このところに来るたびに、過去のことのため、一層心にも精神にも重苦しくさせられるのもいい彼女は長年に渡って、一言だけでは言い切れない悲痛な想いの縄に括られている。


 青いぶかぶかしたダウンコートを身につけて、翠色の太い芋虫のようによちよちと前ヘひたすらぬたくっていくのは伊江武(イエタケシ)だ。


 溢れた笑みはそれだけで充分で、それなりの歳に似合っている仕草もよい。まだ子供だし、エレガントな匂いを発散している芸術品に包まれた空間の醍醐味を無視して、その歳なりに、自分らしく思いに相応しいことを遣り尽くしたがる激情といった男の子は世間的な多くの目から見られてもごく普通の存在だ。


 窶れた顔をした女が苦しそうに片手で窓から射し込んだ暮れ残った光を遮ぎながら、男の子を追いすがっている。


 間もなく、男の子がさんざん引き止められた。その瞬間に、頑是無い笑顔が強張って、活気付く笑い声も急にやみになった。しばらくして、伊江奈々子が大人しくなった伊江武を放して、すっとして真っ向に歩いて冷たい目で泣きそうな伊江武を睨んでいて、そして叱り飛ばしようとしたところへ、廊下の突き当たりの部屋から白ずくめの服装をした看護婦めいた老婆が言いながら、二人のとこにそろそろ寄ってくる。


「あの、伊江さんですか、失礼ですが、旦那様が武に会いたいっておっしゃってくれときました、タケシだけですよ、伊江さんがなにとぞ暫く外でお待ちなさい」


「そっ、あ、はっはい、わかりました。では、ここで待ちます」伊江奈々子が急いで横に転身して、気まずい素振りを整えてから、看護婦に軽く礼をした。

「じゃ、今度だけ許してあげた。さあ、武、お爺さんだわ。来る途中にはたくさんの楽しいことをお爺さんに分け合おうって騒いでいたの、速く行ってきて、」


「はい、じゃ、ママ待ってね」


 伊江奈々子の言葉に鼓舞されて、陽気な笑みが再び顔に咲いた伊江武が看護婦とともに、伊江圭(イエケイ)と書いてある部屋に入った。



 遠くから、横顔に笑いを浮かべた看護婦と伊江武を見送って、不安そうに口をと尖らせて首をがっくりと垂れてた伊江奈々子がふらついてベンチについた。


 騒いでいた廊下はただ何分のうちに静かな景色に戻った。


 外の廊下とは変わって、うちの広い部屋は病院のルームのようなデコレーションだ。ベッドや茶色のケースや茶色の円卓などの家具があるだけだ。冬日の日差しが薄青色のカーテンを通して、ジャスミンを花瓶ごとの影を壁に長く伸ばして映し出す。花瓶に挿してあるナルシスは茎の半分くらいがカーテンの隙間を抜けた夕暮れの余光の黄昏色に染まって、芯の淡い黄色を殺した。残った僅かな白色と黄昏色に混じり合ったのに染まった目に染みたほどの花びらがエアコンの微風に乗って、静に輝いて揺れ動いている。


 部屋の老人は廊下の異様に気がついてから、袖を捲った。露にした黄ばんだ肌に強く粘って、血を貪る拗けた漆黒の蛭のような10センチメートルくらいの傷跡にとどまる目をドアに移して、体も後ろに少し寄せ掛けて、息を大きく吸い込んで、皺を伸ばした。

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