見出し画像

「復興」という言葉の危うさ


 大学院で「復興デザインスタジオ」という授業のTAをしていて、また自分の研究の中で、「復興」という言葉に基づいて、それがどうあるべきか議論する機会が多くあります。その中でふと、「復興」という言葉が、経済成長主義・資本主義と強く結びついているように感じました。

 というのも、そもそも「興」という状態が前提とされた文字的な意味があり、また私たちが議論するときのトピックとなる20世紀の災害(関東大震災〜阪神・淡路大震災)はその社会背景として、人口が増え、社会が大きくなり、経済もより豊かになるフェーズと重なり、災害から立ち直ることはすなわち社会が「興」じている状態(経済成長)に戻ることであったということが言えます。

 しかし、21世紀の日本の人口減少・都市への一極集中を見ていると、日本において「興」じている状態を前提とした議論に違和感を覚えざるを得ません。東日本大震災においても、「興」を前提とした復興公営住宅などがその後空き家につながったり、一度遠隔地避難した方々が被災地へ帰還しない例が多く存在し被災地のコミュニティやシステムの維持が難しくなっているという現状が報告されている。
 とりわけ今年度の復興デザインスタジオの対象地である宇和島周辺の集落などでは、「興」ではなく、いかにリスクなく長期的でなだらかな衰退を実現するのかという問いの方とがクリティカルだと思われます。

 そのような視点に立つと経済成長主義的イデオロギーを帯びた「復興」という言葉に基づき、この抽象的な言葉に基づいてそれを定義するためのような議論・計画を行うことの危うさを感じます。自分は、災害時に真に求められる取り組みとは、経済や成長主義に依存せず、当事者が真に求められる状態とはどのようなものかということに基づき計画・実行されるべきものだと思うので、「復興」という言葉を常に疑いながら、災害に対して知見を深めていきたいなと感じました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?