雨風鈴(1602字)

風鈴屋さんの呼ぶ声が聞こえた。たくさんの風鈴が風で鳴る騒がしい音も聞こえる。わたしのうちわをあおぐ手が止まった。あぐらからばね仕掛けのように立ち上がる。縁側から庭に降り草履をつっかけた。クラスの女子の中では走るのは早い方だ。そのまま声のする方に庭を突っ切る。小さな門の名ばかりの格子戸を開けるのがもどかしい。
道路に出ると風鈴屋さんの屋台は次の角を曲がるところだった。わたしは大慌てで叫んだ。
「ふ、風鈴屋さん!待って!」
息が上がっていた。
幸運にも聞こえたようだ。風鈴屋さんは足を止めると屋台ごとこちらへ向きを変えた。

赤、黄、緑、紫、橙色。鮮やかな色たちがわたしの目に飛び込んでくる。
リヤカーを改造して屋根をつけたような屋台だ。屋根の下には色とりどりの風鈴が掛けられている。わたしはたくさんの風鈴の中から自分だけのひとつを見つけようと必死になった。選びながら勝手に口から言葉が出た。
「去年は来なかったね。わたし、楽しみにしてたのに」
声に恨みがましさが混じってしまったかもしれない。
風鈴屋のおじいちゃんは、まぶかにかぶった大きな麦わら帽を左手の人差し指の甲でほんの少し押し上げた。
「お嬢ちゃん、わりいな。ちょっとな。体を悪くしてな」
一言ずつ区切るように答える。
目尻を下げ、口はへの字のまま声を出して笑った。
悪いことを言ってしまったようだ。
「へえ、それで良くはなったの?」
ごまかすように顔も見ずに訊いた。
おじいちゃんは首にかけたタオルで額の汗を拭いた。
「ま、なんとか足は付いてるよ」
また声を出して笑った。

翌日は運良く雨だった。
おじいちゃんの風鈴は特別製だ。晴れ風鈴なのだ。今年は梅雨どきに間に合った。わたしは昨日買ったその風鈴を縁側に掛けた。赤い吹きガラスでできた風鈴は風で乾いた音を立てた。
風鈴が鳴って2、3秒経ったろうか。急に雨音が小さくなった。庭を見る。雨は完全にやんでいた。縁側から庭に降りた。 伸びをして空を見上げる。太陽が輝いていた。日差しが顔に当たる。雨上がりの匂いがした。
雨音は小さくはなったがまだ聞こえてくる。こちらは晴れていたが庭の向こうはまだ雨が降っていた。
晴れ風鈴は吊るした家だけを晴れにしてくれるのだ。雨と太陽の間に虹がかかっていた。「雨の境い目」をわたしはいつでも見ることができる。
雨が降ってもいいと思えば風鈴を外しておく。その場合、庭の水撒きは省略できる。
効力はひと月。梅雨の間でもこの晴れ風鈴さえあれば洗濯物の心配はない。

わたしは縁側で寝転びながら風鈴屋さんの顔を思い出していた。風鈴屋さんの口は思い出の中でもへの字だった。
「去年は悪かったな。お詫びにこれをやろう」
ひとつの箱をわたしの方に差し出した。黄ばんだ箱には油性マジックで「雨」と書いてあった。箱を開けると深い藍色の風鈴が出てきた。そういえば風鈴屋さんの風鈴で藍色は見たことがない。いったい晴れ風鈴とどう違うのだろう。口の重い風鈴屋さんからは聞き出すことはできなかった。
「雨風鈴かあ」
きっと晴れていても雨が降るのだろう。口に出してはみたが雨が降って欲しいシチュエーションは想像できない。遠足や運動会、みんなが嫌いなマラソン大会も中止になるのは惜しい。わたしは起き上がるとその風鈴を押入れの奥にしまい込んだ。
翌年、その翌年も待っていたが風鈴屋さんの姿を見ることはできなかった。

母の呼ぶ声で目が覚めた。雨の音も聞こえる。母は開いたドアの向こうに立っていた。
「あんた、今日はデートじゃなかったの?」
わたしは布団の上に寝転んだまま顔も向けずに呟いた。
「昨日、振られた」
母が息を飲む音が聞こえた気がした。わたしは掛け布団を頭の上まで上げた。ドアが閉まる音が聞こえた。続いて階段を降りる音がする。
布団を通してもかすかに雨の音が聞こえてきた。雨音と湿度がわたしを柔らかく包み込んでくれる。
薄く開いた窓から、風鈴の澄んだ音色が聞こえてきた。
(キャプロア出版刊週刊キャプロア出版第5号「水編」収録作に加筆)

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