やさしい嘘

視界が歪んでいる。わたしは水の中から天井を見ていた。手足を折り曲げ、無理矢理全身を浸したバスタブで目を開けている。離れて暮らす妻は、今頃なにをしているだろう。朝ご飯でも食べているのだろうか。鼻から空気が漏れ出した。自分の心臓の鼓動だけが聞こえてくる。口が空気を探し勝手に開いた。大きな泡が出るとともに口に水が流れ込む。わたしはバスタブから上半身を出し肩で息をした。全身で荒い呼吸を感じる。こうすることで、わたしはやっと自分が生きていると実感することができた。

濡れた頭にバスタオルを巻いたまま、わたしはパソコンの前に座った。パソコンから呼び出し音が鳴った。マウスをワンクリックするとテレビ電話が立ち上がる。いつもの長い髪、変わらない妻の柔らかい笑顔が画面に表示された。 「あなた、元気?」 画面に向かって、わたしは無理に笑顔を作った。 「今日もなんとか生きてるよ」 少し嫌味っぽくなってしまったか。画面の先の妻の表情が曇ったような気がした。 妻との近況報告と雑談は、いつも通り30分ほどで終わった。ふたりともそれぞれの部屋に閉じこもっているのだ。惰性で毎日やりとりしているが、近頃は話題もほとんどない。
毎日決まった時間にこの画面越しに会話するようになって、どのくらい経つだろう。前触れもなく伝染病の蔓延で隔離されてからだから、2年くらいだろうか。ここはわたしの仕事用に借りたワンルームマンションだ。税理士という仕事がら、来客が多いので自宅から離れた都市部に借りている。この部屋にいるときに緊急放送のサイレンが鳴り、わたしはそのまま自宅に帰れなくなったままだ。
伝染病の原因は、ウィルスだった。空気感染し、感染すれば2、3秒で体中に黒い斑点ができる。その後3日以内に100%死亡するという強力なものだ。
発生後、一時期、テロではないかとの噂が広がったが、その後も犯行声明はなく、結局この前例のない災厄の理由は分かっていなかった。
わたしはパソコンの右横に視線をずらした。そこに立ててある妻の写真を手で撫でる。せめて、妻と一緒にいられたら、この孤独感も少しはマシになるのだろうに。
わたしの妻は人工知能専門のシステムエンジニアだ。すでに彼女の研究自体は完了していた。人と会話することでだんだんと学習していく人工知能のデータ採りのため、彼女は在宅勤務だった。 伝染病以来、自宅に居る彼女と会うことができるのは、この小さなパソコンの画面越しだった。
報道によれば、その空気感染するウィルスによって、わたしたちの人口は1/10に減ったそうだ。残った人間は、すぐに政府の指導で住居を消毒された。移動は感染を防ぐため、近距離でも許されていない。ほとんどの人間は、完全滅菌の部屋で食料の配給を受けて暮らしている。 水道と電気などのインフラには問題はないが、まだウィルス自体には効果的な対策がなかった。部屋から出ることは死を意味した。我慢できずに外に出た知人はそれ以降連絡がつかない。考えると、妻とわたしがこうやって夫婦揃って生きていられるのが奇跡のように思える。

わたしはパソコンの電源を落とそうと電源ボタンに手を伸ばした。指先がそのボタンを押す前にパソコンからメールが届いた音がした。災厄以降、政府広報と妻以外から連絡が入ることはなかった。 メールの件名は『ウィルスはもう解決した』と有った。宛先は見覚えのない数字とアルファベットの羅列だった。だれかのイタズラだろうか。タイトルをクリックしメールを開けたが、メールには内容も署名もなかった。宛先のメールアドレスをコピーしてネットで検索するがなにも引っかかっては来ない。わたしはそれ以上考えるのを諦め、パソコンの電源を落とした。立ち上がり、デスクの右横にある本棚の前に立って8割ほど埋まった本棚を眺める。どの本も、隔離されてからもう何十回も読んだ。その中から一冊を取り出しす。わたしはパソコンの前のイスに座り本の表紙を開いた。さっきのメールが頭に残っている。読み始めたが、本の内容は頭に入って来なかった。

翌日はまだ暗いうちに目が覚めた。あまりにも変化のない毎日を送っているせいか、昨日のメールがまだ気になっていた。メールの通りウィルスが解決したのだとしたら、妻の待つ自宅に帰れるということか。 あのメールはわたしの妄想が生み出した幻想なのだろうか。メールの着信音とタイトルは、わたしの頭から離れなかった。パソコンを立ち上げる。メールはまだ確かにそこに有った。これが妄想なら、わたしはこの停滞した毎日をただ変えたいだけなのかもしれない。 わたしは玄関まで行き、その手前で座り込みドアを見つめた。この状況はいつまで続くのだろう。ネットの情報では交通機関はマヒしているらしい。自宅までは時間さえかければ歩けない距離ではない。早朝の今、ここを出れば午前中の妻とのテレビ電話の時間までになんとか辿り着くことができるだろう。
わたしは立ち上がり、力を込めてドアを開けた。2年ぶりの新鮮な空気が部屋に流れ込んできた。おそるおそる外の空気を吸った。そのまま頭の中で10数えた。体に変化はないようだ。ウィルスは本当になくなったのか。わたしは目をつぶり、今度は思い切り深呼吸した。

わたしは自宅に向かって歩き始めた。生活道路から少し大きめの道路、そして国道へと出る。迷わないようにわかりやすい道を通ることにした。道には、車はもちろん人っ子ひとり歩いていない。商店もコンビニも、もちろん開いているお店は一軒もない。さながらゴーストタウンだ。自宅までは電車とバスを乗り継いで30分ほど掛かる。歩いて帰ったらどのくらい掛かるだろう。わたしは歩くのはそんなに早い方ではない。
「2年ぶりの再会か。あいつ驚くだろうな」
口を突いて出た。背中を押されている気がして、わたしは足を早めた。

マンションの階段を上がる膝が笑っている。結局、自宅までは休み休み3時間掛かった。汗で背中に張り付いたシャツが気持ち悪かった。いきなりドアを開けて驚かせてやろう。わたしはインターホンを押さなかった。
階段を登り終え、2階の自宅へ着いた。鍵を開け家に入る。家の中は暗くやけにカビ臭かった。どつしてだろう。人が住んでいる匂いを感じない。
リビングから順番に部屋のドアを開けた。最後に妻の部屋を開ける。2年間毎日、ちょうどこのくらいの時間にこの部屋からテレビ電話で会話していたはずだ。
妻の姿はどこにもなかった。デスクの上では妻のパソコンが立ち上がり、テレビ電話が起動していた。画面にわたしの事務所が映っている。パソコンの前には誰も居ないのに、パソコンからは妻の声が聞こえてきた。
「あれ?今日はどうしたの?あなた、いないの?」
どうやらわたしの事務所のパソコンに呼びかけているようだ。妻の声は諦めなかった。繰り返し向こうにいるはずのわたしを呼んだ。
わたしの全身から力が抜けた。 耐えきれず膝が勝手に折れた。わたしは悟った。妻の声は人工知能の声だった。これまでの2年間、わたしが妻だと思って話ししていたのはこのパソコンだったのだ。妻の作った人工知能のプログラムは完璧だった。
わたしは画面から目を外し、震える手でパソコンのキーボードに触れた。妻の体温は伝わってこなかった。

さっきまでと違う調子で妻の声が聞こえてきた。わたしがキーボードに触れたせいだろうか。わたしは膝立ちのまま周りを見回した。
妻の声は、やはり立ち上がったままのパソコンから聞こえてきていた。
さっきまでわたしの事務所が映っていた画面に、今度は妻の顔がアップになっていた。妻の顔は変わり果てていた。顔中に、感染を示す黒い斑点ができていた。画面の中の妻は腫れた目で微笑んでいる、涙の跡が見てとれた。彼女はわたしに語りかけた。
「無理だと思うけど、今から病院に行ってみる。あなたに、もう一度会いたかった」
わたしの頭が妻の言葉の意味を理解する前に、パソコンの電源は落ちた。わたしは電源ボタンを何回も押したが、そのパソコンは2度と起動することはなかった。

わたしはカビ臭い風呂場でバスタブに水を溜めはじめていた。服を脱ぎ、水を出しながらバスタブに足を下ろす。バスタブの中で座り、足と手を折りたたんだ。頭までバスタブに入れる。水が次第に全身を浸す。顔まで上がってきた。息を止める。水が溢れ、バスタブの淵からこぼれ落ちた。体全体が酸素を欲しがっているのが分かる。心臓の鼓動が早くなってきた。
わたしはいったい妻のなにを知っていたのだろう。何度も自分に問い掛けたが、答えは出なかった。                               

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