彼女の温度(1325字)

エンドロールが始まった。となりの席の彼女が立ち上がる。
「混むから出よ」
手を握られた。彼女の温度が伝わって来る。自分の鼓動が速くなるのを感じる。そのまま腕を組まれた。引っ張られるようにして出口へ向かった。
力を込めて重い扉を引く。ロビーに出て扉を閉める。扉を閉めてもまだ、小さくテーマ曲が漏れ出てきていた。映画館の中は暗かったがロビーは照明が照らしていた。さっきまで見えなかった彼女のタレ目が、さらに目尻を下げていた。ぼくは彼女のその笑顔を見て幸せな気分だ。
映画館の階段に足を乗せるときしむ音が鳴った。降りて狭い廊下を出口へと向かう。

ぼくが先に出、次に彼女の順番で表に出た。
映画館は先ほどの回でレイトショーを終える。看板の灯はすでに落ちていた。
冷たい空気が顔に当たる。ぼくは小さく伸びをした。寒いが館内が暑かったせいか気持ちがいい。 見上げた暗い空には月が出ていた。
娯楽作を見たことも手伝ってか、さっきまでの憂鬱な気分はどこかに行ってしまった。誘ってくれた彼女に感謝したかった。

頭の中に声が聞こえてきた。
「振り返る」
ぼくは振り返った。
「ありがとうと告げる」
ぼくは彼女に「誘ってくれてありがとう」と告げた
「彼女ははにかんだ笑顔を向ける」
彼女はぼくに少し恥ずかしそうに微笑みかけた。
「彼女のことが好きになる」
ぼくは彼女のことを好きになったようだ。

なぜだろう。頭がすべてを先読みした。
おかしい。なにかがおかしい。
わたしは違和感の原因に気がついた。
いつからだろう。ぼくはもうひとりのぼくを俯瞰して見ていたのだ。目の前にいるもうひとりのぼくは、自分の記憶をなぞるように動いていた。
なにが起きている?ぼくは混乱した。

目が覚めた。電子音声が寝かされているドームの中に響く。
「記憶体験コースヲ終了シマス」
寝かされているベッドの上面の透明なドームが開いた。わたしはゆっくりと上半身を起こし頭を振る。
彼女の笑顔が頭に残っている。自然と自分の顔が笑顔になるのを感じる。
この装置に入っている間、わたしは過去の時間を追体験していた。
わたしは、妻をはじめて好きになったときの自分に戻っていたのだ。

駄目元でこの施設に来た。友人の勧めだ。
くだらない衝突から別居に至ったわたしに、彼は笑顔で言った。
「ま、騙されたと思って」
その言葉に乗せられた格好だった。
施設に来る前には、このまま結婚生活を続けていくことは不可能だと思っていた。
そのわたしが、今はまったく離婚する気が無くなっているのに気がついた。それどころか、前よりも深く彼女のことを愛してさえいた。頭にこびりついた小さな衝突も、薄れて今にも消えそうだ。妻と別れる気はわたしにはまったくなくなっていた。
記憶の追体験。それは、記憶だけでなく、顔を見るだけで胸が高鳴った頃の感情すらよみがえらせたのだ。

わたしは最寄りの駅に向かって歩いていた。
頭によぎる。体験自体は有ったことに間違いはない。断言できる。この記憶の追体験はどうなるのだろう。これは現実と言える?それとも虚構なのだろうか。
数度自分に問いかけてやめた。答えなんて出ないだろう。それにそんなこと、どうだっていい。
わたしは妻のもとへと足を速めた。彼女の温度が、まだわたしの手に残っていた。

(キャプロア出版刊週刊キャプロア出版第3号「フィクション編」掲載)

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