カエルのいる森

背中から声を掛けられ振り返った。
うちの家の裏にある庭の先は、森とつながっている。声はそこから聞こえたようだ。僕は土遊びの手を止めた。目をこらして見たが森にも庭にも何も見えない。あきらめて家に入ろうとした。
「ここだよ」
はっきり聞こえた。声を探して目を動かす。庭の先でアマガエルが跳んだのが目の端に見えた。まさか。
僕はアマガエルを見た。カエルはこっちに跳びはねて近づいてきた。
「そうさ、やっと気付いた?」
声の主は、鮮やかな黄緑色をした小指の先ほどのアマガエルだった。僕は1歩後ろに下がった。
「カエルが喋った!」
その場跳びしていたカエルが、僕に向かって跳んだ。3度の跳躍でちょうど僕の足元にたどり着き僕を見上げた。
「知らないだろうけど、たいていの生きものは喋れる。その気になんないだけさ」
カエルはまた僕に向かって跳んだ。僕はあわてて手で顔を隠した。半ズボンの下のヒザ、顔を隠した手に彼の感触を感じた。
「そんなことはどうでもいい。おもしろいところがあるんだ。連れていってやろうか」
僕はカエルを手のひらの上に乗せた。顔を近づけて眺める。その辺のカエルと違いはなさそうだ。
「おもしろいとこって?」
カエルがウインクした。
「そんなの来たら分かるさ」
僕は振り返って家の方を見た。母さんがお昼ご飯を作るまでなら時間はある。何よりカエルからの誘いなんて、もう無いだろう。僕はうなずいた。
「すぐ帰って来られるなら」
「もちろん」
カエルはうけあった。

森の中に入っていくカエルを追いかけて歩く。下を向いて歩くと、何度も歩いたはずの道が初めてのように感じる。感じるだけじゃなかった。10分ほど曲がることなく歩いたはずなのに、僕は見たことのない池の前にいた。母さんの声が頭の中に響いた。母さんは森の中の池には近づいてはいけないと言っていた。母さんの弟が今の僕と同じ年で池で溺れて亡くなったそうだ。そう言われて反対に探してみたこともあったけど見つからなかった。その池が今は目の前にある。
池は5分も歩けば1周できそうだ。ハスの葉が数え切れないほど浮いている。その中心に僕の体が入りそうな大きなハスの花が咲いていた。
カエルが足元からハスの葉に跳んでこちらを振り返った。
「頼みがあるんだ。」
僕はハスの花とカエルを交互に見た。
「頼みって?」
カエルはまたウインクした。
「あのハスの花を取ってきて欲しいんだ。あれで空が飛べるんだぜ」
僕は目を閉じて飛んでいる自分を想像したあと、目を開けてハスの花までの距離を測った。泳ぎは得意じゃない。
「どうやって?」
カエルはふんぞり返ったように見えた。
「この池のハスの葉は魔法の葉だ。オマエくらい簡単に乗れるんだ」
僕は足元のハスの葉を見下ろした。右足からつま先をおそるおそる葉に乗せる。少しずつ体重をかけていく。ハスの葉は沈む気配はなかった。2歩、3歩。進むにつれはずみがついて来た。
5歩目を踏み出した。ハスの葉が沈んだ。もう片方の足で6歩目を出した。葉はもう僕を支えてくれなかった。焦って足を動かした。池の水は粘りが出たように足にまとわりついた。体が沈む。僕は水の中に引きずりこまれた。お腹の空気が口から出ていった。水越しにカエルの笑い声が聞こえた。
「子どもは簡単だな」

夢の中で僕を呼ぶ母の声が聞こえた気がして目を開けた。日に焼けた天井と丸い照明が見えた。見慣れた景色、いつもの僕の部屋だった。緑の壁紙が目に入った。そう言えば、壁紙は母さんの弟が選んだと聞いたっけ。
あれは夢だったのだろうか。顔の横に母さんが突っ伏していた。寝ているようだ。手を伸ばして髪を触る。芯が濡れていた。
僕は体を起こした。母さんが目を覚ました。顔だけ向けて僕を見た。目を丸くして立ち上がった。僕は笑おうとしたが口角は上がらなかった。
「母さん、池に行ってごめんなさい」
母さんの顔が僕の顔に近づいて来た。
母さんの赤い目は、笑いの形に変わった。

(キャプロア出版刊週刊キャプロア出版第16号「家」編収録作品)

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