こじらせた男(1282字)

ぼくは目的の本屋の手前の角でいったん立ち止まった。斜め掛けしたカバンから取り出したマスクを掛ける。念のためにサングラスも掛けた方がいいだろう。サングラスの向こうの風景が暗い。現実感が薄れ、怖いものがなくなった気分だ。
本屋の自動ドアをくぐり、新刊のコーナーに向かう。
有った。レジから少し離れた新刊コーナーには、誰かスタッフが手書きしたのだろう村上春樹を紹介するPOPがあった。その横に今日発売の彼の本が大量に平積みされている。
「相変わらずセンスのない表紙だ」
苦笑いとともにうっかり声が出た。あわててサングラスの下の目を左右に動かす。人は居たが一番近くても2mは離れている。立ち読みに夢中でだれもこちらには注意を向けていないようだ。発売日が平日で良かった。
ここからが本番だ。ぼくは深呼吸した。改めて春樹の新作を手に取り表紙をめくる。あの村上春樹の象徴とも言える、クールだが回りくどい文体。ぼくは陶然となった。この文体が鼻につくという意見があることは知っている。ぼくが思うに半分はやっかみなんだろう。彼がノーベル文学賞を取れないのも、きっと審査員の嫉妬が原因だとぼくは見ている。
ぼくは冒頭をきっかり3行読みゆっくり本を閉じた。その20冊はある春樹の新作本を、すべてタイトルが見えなくなるように手早く裏返した。
おっと、POPを忘れるところだ。改めてPOPを読む。日本を代表する作家か。ふん、世界を代表する、の間違いだろう。
さすがにこれはひとりでは難しい。ぼくはポケットに入れたままのケータイから、妻にワンコールした。これで、いま同じ本屋にいるはずの妻が店員の注意を反らせてくれるはずだ。レジに向かう妻の姿が横目で確認できた。ぼくは様子をうかがいながら吊り下げられていたPOPを外した。畳んだPOPは裏返した新作の下に素早く滑り込ませる。
次だ。ぼくは作者別の棚に移動した。
作者別の棚の通路には運良く誰もいなかった。この本屋の村上春樹のコーナーは充実している。デビュー作から今度の新作までほとんどが揃っていた。
ぼくはその著作を、左端から順に背表紙が見えないようにひっくり返した。もちろん著者名のプレートもだ。
すべてを終えると急ぎ足で出口に向かった。自動ドアか開くのがもどかしい。

出口から出て角を曲がる。妻が待っていた。立ち止まらないまま合流して歩き続ける。右側を歩く妻が眉根を寄せ、困ったような視線をこちらに向けた。
「もう、やめたら?」
ぼくは聞こえないふりをした。同じことをするのは朝から何件目だろう。ぼくは新作が出るたびに読む時間も合わせて1週間の休暇を取る。明日からは新作を心ゆくまで読むのだ。妻はそんなぼくにあきれているようだ。ぼくは歩きながらカバンに手を入れた。村上春樹の新作を取り出し、自分の胸に当てる。先にほかの本屋で手に入れておいたのだ。本からは、新しい本の匂いとともに、春樹のオーラが伝わってくるようだ。うっとりして目が勝手に閉じる。危ない。すぐに目を開け速足で歩き続ける。
さあ次の本屋に向かおう。この町では、春樹の新作は、ぼくがほかのだれよりも先に読むのだ。

(キャプロア出版刊週刊キャプロア出版第7号「村上春樹編」収録)

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