流行りの歌
ため息をつき僕はコーヒーカップを口に運んだ。この店もBGMはこの曲か。この女性歌手の自作曲は、今大ヒットしている。街中どこにいても聞こえてくるような気がする。街がこの曲に侵食されてしまっているようだ。
もっともそんな風に考えるの少数派なのかもしれない。そうでなければこの曲がこんなに流行ってはいないだろう。
作曲家の僕だから、この曲が神がかっていることは分かる。
今までにない曲だった。聞くと体が浮遊するように感じるメロディーに、意味が有るのか無いのか羅列のような歌詞が乗る。こんなにも中毒性があるのはなぜだろう。悔しい。自分の曲にもこの曲のエッセンスのひとかけらでもあれば。
僕は曲から遠ざかりたくて、残ったコーヒーをひと息に飲み干して店を出た。作曲の気分転換に来たのだが、まったく気分転換にならなかった。うちに帰ろう。ポケットに手を入れ歩き始めた。目線が自然に足元に向く。
どんな人間があんな曲を作ることができるのだろう。
ネット主導でヒットした曲だった。作者は謎に包まれている。僕も作者を調べてみたのだが結局何も分からなかった。意図的に隠されているようだ。謎が神秘性を生み、そのせいで更に売れる。うまいやり方だ。
左の角にコンビニがあった。コンビニの向こうの道を渡ればそこが僕のアパートだ。うつむいたまま足を早めて道路を横切ろうとした。
左目の端にトラックが見えたような気がした。クラクションの音が聞こえた。顔を起こす。信号は赤だった。
僕はポケットに手を入れたまま宙を舞った。何もできず背中から歩道の柵の上に落ちる。頭がついていっていないのか痛さは感じなかった。体を見ようと力を入れたが体のどの部分も動かない。血が目に入り景色が赤く見える。目は次第にかすみ赤い景色すら見えなくなった。暗闇の中で意識が遠のいていった。
誰かが他の誰かに話している声で目が覚めた。
「脳は損傷がない。神経に問題があるのだろう。体は完全に動かないようだ。無理もない。腕と腹から下はもうないんだ」
変わり果てた自分の姿を想像して吐き気がした。叫ぼうとしたが、口は動かず声も出ない。首も顔の一部ですら動かすことができない。目が開かず体を失った痛みも感じなかった。
唯一、耳だけが聞こえるようだ。彼らはそれに気付いていないのだろうか。
事故にあった記憶はあるが、僕の体は一体どうなってしまったんだろう。
声が聞こえなくなった。僕はまた声が聞こえるのを期待した。どれくらい待っただろう。僕は眠ってしまった。
声が聞こえて目が覚めた。
「回復は見込めないな」
どのくらい時間が経ったのだろう。3日?それとも1週間?昼か晩かも分からない。さっきの声はどういう意味だ。このまま回復しないってことだろうか?
別の声が返事をした。
「この患者には身寄りはありません。生かしておくのも費用がかかりますよ」
なんだって?僕をどうするって言うんだ?
「例の装置を取り付けてみましょう」
装置?装置ってなんだ?
「ああ、脳の信号をダイレクトに歌に変えるってヤツか。あれは副作用があるぜ。前の実験体は結局1曲作って死んじまった」
実験体?まさか!僕を実験に使おうとしているのか?
「あんなに流行ったんだし、あの娘も本望でしょう。」
声が鼻歌を歌った。
頭の中にあの大ヒット曲が浮かんだ。
あの謎の作者が作った曲のことを言ってるのか。
僕はあの曲の作者が謎な理由を理解した。
「どっちみち死んでるようなもんだしな」
人のことだと思いやがって!
「役立たずのまま生きるよりもずっといいだろう。急ごう。麻酔を取ってくれ」
やめろ!
僕は心の中で叫んだが伝わることはなかった。
「こいつは音楽をやってたみたいだし、きっとこないだの娘よりももっと素晴らしい曲を作ってくれますよ」
眠気が襲ってきた。麻酔が効いてきたのだろう。
なにもできずに生きていくか、それとも名作を残して死ぬか、どちらが正解だろう。ぼんやりしてきた頭で考えたが、それは無意味なことだった。僕に選択権はないのだ。
自分で作る曲を自分で聞けないなんて。僕は、なんとか意識を保とうと頑張ったが、もう、なにも考えられなかった。
(キャプロア出版刊週刊キャプロア出版第17号「シンガーソングライター」編収録作品を改稿)
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