どん底でも人の幸せを想う人にチャンスは訪れる|東京下町のおばちゃんあっこ社長の社長奮戦記☆リストラしても存続してきた会社経営25年の人生自叙伝
こんにちは。あっこ社長(@hika_love2)です。
東京都下町足立区出身の58歳。
父の急逝から0歳と3歳子育て真っ最中、一夜にして事業を引き継いで社長となりました。以来25年家業のクリーニング、私の代で始めたアロマセラピーエステ、小売業とリストラを続けカラフルに様々に色を変えながら事業経営しています。
また、コーチングを通して身に着けた思考で、目標を持って前進する人を応援しています。
このnoteでお伝えしたいこと
私自身ずっと人生に迷い彷徨っていました。
高度経済成長の中、両親は爆発的に毎日忙しくしていました。経済的には何不自由なく、お手伝いさんがいるような生活。ある意味お嬢様気質で世間知らずでした。
そして世間知らずだからこそやってこれたのは、心の底にある【人生の目的】に人を喜ばせることや、自分だけの為だけじゃない周りみんなで幸せになりたいということを思い描いてきたから。
そんな想いが大きく太い軸となり『今がどんなにどん底であったとしても必ずチャンスは訪れる』という事をお伝えしたいのです。
特に私は自分がなりたくてなりたい時期に社長になったわけではありません。そんな私でも当時いた従業員さんたちを解雇するという選択が出来ずに、その人たちと共になんとか事業をやり続けてゆきたいという想いで引き継いだのでした。
そんな本当に素人的、事業計画など何もない所から始まった私の社長人生も、従業員さんをはじめたくさんの人の応援があったからこそ今日までこぎつけました。
気づかぬうちに持って生まれた、使命からくる魂のゴールが誰にもあります。ですから、今苦しくどん底であってもあきらめないで誰かの役に立つ道を生き抜いて欲しいと願い応援しています。
誰でも本当は輝きたいと思っています。
そして、方法さえ知っていれば本当の人生のゴールを明確にする可能性があります。
それには必要な4つのことがあります。
ゴールを手に入れるための必要なコト
「承認」自他ともにあるがままを認め受け入れること
「思考」感情に左右されず自分の軸として立ち返れる考え方
「目的」なりたい未来の言語化
「行動」目的に沿った宣言から始まる挑戦
この4つを社長思考で向上させて行くための方法や在り方を発信してます。
こちらはまた別のnoteで発信してゆきますね。
挑戦・失敗・成功の履歴書
私は1回目の東京オリンピックの前の年、こち亀で有名東京は葛飾の亀有で生まれました。
『こんにちは赤ちゃん』という大ヒット曲が流行ったころ、私は毎日その曲を聞いて育ったそうです。産まれてからずっと下町暮らしです。
とにかく人間形成の基礎となる幼少期は世界中から愛されて育ったような幼少期。(笑)
お陰様で世間知らずのプチお嬢様気質の基盤は充分蓄えてしまったようです。
【時系列でみるあっこ社長の人生】
小学校ピアノ、中学校吹奏楽、高校合唱部、音楽専門学校、現在カラオケ、音楽は人生の友
屈折した学生時代
卒業後、自由m主党さんでお勤め
仕事の傍ら結婚式の司会業に
30代を前にコーチングを学び、コーチングトレーナーとなる
結婚、出産
父の急逝により一夜で社長に
クリーニング屋さんとして日夜洗いから荷物配送まで休みなく働く日々
過労から肺炎を発症~2週間の入院
入院を機にクリーニングの工場を閉鎖(取次業にシフト)
0~人材育成しアロマエステ事業開始
他社様アロマ事業プロデュース
小売業開始
マーケティングを学ぶ
目標設定コンサルタント業スタート
コンサル初年売上は100万円に
一周廻って本業(店舗経営)に専念
この1年は。。。
経営者仲間と地域ビジネス相互応援コミュニティ立ち上げ
0~twitter運用開始120日でフォロワー1000人超え、500日で4200人。
有料note販売
スタンドFMスタート
YouTube、ブログ本格始動
上記、時系列です。事業経営者として25年。
25年ってあっという間でした。
とにかく一夜にして経営者となって初めの3年間くらいは本当に辛く苦しかった。時には涙を流したことも1度や2度ではありません。その後もちょっと良い感じだなと思う間もなく様々な困難が私を打ちのめします。
ちょっと長くなりますが、わたしの人生を少し覗いてみてあなたの方がましだと、少しでも力になったら嬉しいです。
「心を軽く自由に生きたい人」「ビジネスを前進させたい人」「人のために役に立つ何かをしてみたい人」は参考になると思います。
怖いものなしの幼少期からコンプレックスを知る学生時代
鼻っ柱が高くって世間知らず。ただ親はもちろん、親戚や商店街の関わる大人たちみんなに可愛がられて育った幼少期。そんな私が育ったのは東京下町です。
高度経済成長の中、大型の団地が乱立した移住者の街でクリーニング店を始めた両親の元、商売屋の家庭に育ちました。
事業はうなぎのぼり直営やフランチャイズの店舗も出店し、両親は夫婦で朝早くから夜遅くまで働いていました。
経済的には全く不自由はありませんでした。
躾には厳しく、大勢の従業員さんや商店街の人々など子供の頃から大人と関わることの多い子供でした。
父母親戚中の初孫。
いつもニコニコ、お目目クリクリのあっこちゃんはみんなに可愛がられました。世間知らずのプチお嬢様思考の芽生えだったと思います。
世間の壁、社会の闇を知り絶望した初社会人
両親は家業を手伝うことを切望していましたが、私自身は広い世界で社会に貢献していたいというような考えがありました。
専門学校の卒業後は親のつてで自由m主党に勤めました。世の中の光と影をたくさん見たように思います。
アルバイト~職員の登用はありましたが、その道は選びませんでした。それでよかったと今も思っています。あの頃大学を出て職員になっていた方々はとても意識が高く民主主義を率いている政党に従事していることを誇りに思っている方々が多かったように思います。
私はそれではありませんでした。成り行きで入ってしまって、バブル期にあってその象徴のようなバブルな場には私は合いませんでした。
上司や、職場の方々にも恵まれて待遇的には賞与などもあり、責任のない立場も楽だったので安住のアルバイトではありましたが、お金の集まる所に権力も集まる。若いながらにそんなことを悟る出来事も少なくありませんでした。
私のお金にたいしてあまりポジティブでない概念を植え付けたかもしれない時期です。もちろんアルバイトという立場でもありましたので、早く辞めたいといつも次の道を見ていました。
そんな日々の中で婚礼の司会の講座を受けて司会者の事務所に所属しました。
何シーズンか過ぎ司会の仕事をしたころ、司会者仲間の誘いで自己啓発型のコーチングセミナーに参加してからは、私の本当の人生がスタートしました。
コーチングとの出会い
心のどこかで、『このままでは終わらない』といつも言っていた20代。コーチングは自分の可能性を捨てたくなくて彷徨い続けた先に見えた光明です。
今思えば、私の「潜在意識」は生き甲斐を求めていたんだと気づきました。
セミナーでは魂が揺さぶられました。
私の一面【高慢ちきで生意気】を知ってしまいます。
そこでの体験は何にも知らないくせに、何でも知っているように振舞い生きてきた自分の浅ましさ、頭でかっちな側面に気づくワークなどに絶望しました。
『そんなはずはない。
私なりに一生懸命やってきた。』
必死で現実を打ち消す、そんな想いが溢れました。
そして自分自身の本質に触れ絶望の淵から見えてきたのは、たくさんの人に愛され生かされてきた感謝でした。愛されてきた自分を自覚し、『今度はたくさんの人を愛して生きよう!』
そんな思いがあふれてきて心がとても満足だったのを覚えています。
自分自身と向き合い、他者からの客観性から導かれる本質を知る体験は私の人生の思考を徹底的に変えることになりました。
それからは自分の体験と学びを軸にコーチングトレーナーとしてセミナーをリードしたリ、個人コンサルに明け暮れました。
いつも人の可能性に触れていたこのころ。達成からの会話に力づけられていた日々。私の『人生の満足』とする原点がここにありました。
借金、婿舅問題で波乱万丈な結婚生活。
生きることの満足を知った後は現実の修行とでも言いましょうか。
コーチングの会社で出会った旦那さんは結婚後、私の実家の家業を継承すべく家業を始めたのですが、経営者にあこがれた旦那さんも家族経営に従業員さんという小規模の事業の現実は日々作業に明け暮れる毎日。父や母もまだまだ現役だった中でうまくやれずに1年ほどで退職。
その後は新規で事業を立ち上げましたがに失敗して借金を残して軌道修正みたいな流れ。普通に幸せになるはずだったのに、婿舅問題やら、借金やら。。。のんきにはしていられません。
試練
そしてその日はあまりにも突然やってきました。
下の娘が生まれて数か月、父が急逝。あまりにもあっけなく逝ってしまいました。
そして翌日から私は社長になりました。
長男3歳、長女0歳の晩夏。
「なんで私ばかりこんな目に?」
「私一人でやって行けるのか?」
「もうこんな人生嫌だ・・・」
これから先、どうして行ったら良いのか答えはありませんでした。けれども不思議と店をたたむ選択肢が浮かばなかったのです。
こんなに泣けるんだなってくらい泣きました。泣けるだけ泣いて、とにかく前進し始めます。
あっこ、社長となる
私の社長としての初仕事は3つあった直営店舗2つをたたみパートさんを解雇すること。父の生前から決まっていたことを私が実行したのです。
補償してくれやって来るパートさんと話をつけたり、毎日どんな風に過ごしていたか。。。それほどは思い出せません。
そこからはとにかく働きました。身体を動かすことでしか先を見いだせなかったのです。
この時は未来を描くほどの余裕もなかった。
「キラキラした魂」の影はどこへやら、ちょっとバランスが悪くて、心が頑なだっ時期です。
緊張や責任を毎日感じていたのかも知れません。
父が亡くなる前に夫が就職してくれていたのは幸いでした。店は年中無休で私自身は土日も祝日もなく働いていたので週末は夫に子供を任せることが出来ました。
父が亡くなって2年位たった頃でしょうか。
ある朝『あー、なまけたいんだ、わたし。』って感じたんです。
起きようとしましたがどうしても身体が起こせないのです。疲れがたまったのか本当にしんどくて。エレベーターのない団地の5階に住んでいて、このまま降りたら上がってこれないと思いました。
それでも、ようやく病院に行くと重症の肺炎で即入院の診断。
幼い子供たちを置いて入院している場合じゃないと一度は病院から店に引き上げてきましたが、それこそ、そんな場合じゃないだろと母と妹に促され、仕方なく入院。
夫や妹や仲間に子供たちを託して病院で2週間安静となりました。
この時悟ったことは、『休みは取らないと後で払いたくないツケが来る』これです。今は、休みます。休めなくても休みます。(笑)
人生は長期戦なんだと身を以て学びました。^^
すべてうまくいく
最近見たインド映画のタイトル『きっと、うまくいく』。良い映画でした。そして、もう30年近く前からこの概念が私の中にあったことを思い出しました。
携わったコーチングのチームの中でいつも真ん中に合った概念です。
みんなが上手くいく世界。今でいうwin to win。フラットな世界です。
この実現には自己承認、未来思考、目的、挑戦(宣言からの行動)、が大切。社長思考はこの4つの融合の様な思考です。
なりたい未来から現状(事実)を知って直近の挑戦が明確になるからそれをなすための行動できる。
この思考を持っていると、会話の質が変わってきて共に平等な土台に立つことができます。
病気で一年分位まとめて自分だけに集中する時間を得ることが出来ました。それを境に私の中に置き去りにしてきたこのみんながうまくいくという概念が一気に目覚めました。
コーチングチームの社長は美容の会社を運営していて、アロマセラピーというツールで社会貢献して行く道を創作していたころ。
父が亡くなったのを心配して、一緒にみんながうまくいくためのビジネスをしようと誘ってくれました。
『前田!お前も人を育てて地元でアロマセラピーで社会に貢献しろ!』
と、かつての上司が私を可能性の思考のステージに呼び戻してくれました。
0~始める私自身の事業
アロマセラピーの事業は女性が『夫と子供だけのための人生を、自分自身が社会貢献できる人として生きる機会を提供』することに決めました。
友達や仲間の主婦に声を掛けました。
私はチームを作りマインドセットを担当し、元コーチングチームの先輩がアロマセラピストとなってアロマ教育の学校を立ち上げ、毎週のように勉強会を行って応援してくれました。
地元でアロマのミニセミナーを1から始めて2年の歳月をかけて彼女たちは一人前のアロマセラピストに育ったのです。
今にして思えばなんと有難いことでしょう。
私の経営者としての本当のスタートだったと思っています。
人が可能性に目覚め覚醒してゆく様を見ているのはとても幸せでした。彼女たちもまた、自分の本質に目覚めどんどんキラキラしていくのがわかりました。
始めは団地の一室で月に1回の限定オープン。
次に店舗の一部を改装して、ドアを開くとワイシャツのプレス機が稼働している中で。次第に紹介が始まりました。
家業の業態変更の大決断
その取り組みは小さな団地の月一サロンから始め、とうとう店舗改装をして店舗としてサロンを展開することになりました。
ちょうどクリーニングのメインの機械が老朽化でしょっちゅうメンテナンスが入るようになっていました。
私の力で機会を買い換えてこの先やってい行けるのか。考えました。
『あー、私のできる仕事じゃない』そう感じました。
そしていよいよ、クリーニングは取り次ぎに業態を変更し店舗の大部分をアロマセラピーと岩盤浴などのスペースへと全面改装することに決めました。
あの時、何もかもなくなりガランとした店内を見た時の気持ちは今も忘れません。
何か父や母に申し訳ないような、この決断で本当に良かったのかなど、様々な思いがよぎりました。
そしてその後はアロマ事業は物販なしで最高売上400万を超えて行くまでに成長したのでした。
ハッピーエンドとはまだゆきません。
最高を作って、それを保ってゆくのはまた大変でした。時代もどんどん変わったり、スタッフにも様々なアクシデントが起こってきました。
スタッフはみんな主婦でしたので、一心不乱に頑張ってきた分のひずみは家族に出始めました。本当に様々なことがあちこちで起こり始めたのです。
私自身は初めからセラピストになる意図はなかったので、施術はしませんでした。給料は歩合制にして固定費は出来るだけ抑えていましたがそもそもテナントでしたので固定費の割合は髙かった。集客にも行き詰まっていました。
生活雑貨販売業をメインに
そんな中で、「良い場所なのだからお店で小売りをしてみたら。」と言ってくれる方が現れました。
近所の雑貨屋のおじさんがお店を閉めるのでうちで業務を引き継がないかと。少し先の通りだったのでお客さんは場所が変わっても引き継げるからというのです。
物販は経験がありませんでしたが、やってみることにしました。始めは既存客から始まって、徐々に通りがかりのお客さんがつくようになってきました
とにかく好立地だったのと、まだ景気も今よりは良かったのとで風向きは良好でした。
結婚した妹が地元に戻ってきたので手伝ってくれて、もと服飾販売をしていた彼女の感覚も味方になり安定して売り上げが立ってきたころ、サロンのベットを減らして小売りをメインの店へと更なる舵を切ったのです。
運命のいたずら
ようやく完成にこぎつけた年末。よし、これから頑張っていこう!
絶対お客さんが喜ぶはず。
って思っていました。
開けた年の3月11日。
東日本大震災。
誰にも文句は言えない。
あの日からどれくらいの日々を不安でモヤモヤとしながら過ごしただろう。
改装したての店舗は計画停電の地域に指定され、真っ暗な店から一人家に戻る真っ暗な路の思い出は忘れられない。
一体なんだというの?
私は何を試されているんだろう?
この苦しい思いから解放されたい。
そんな日々だっとように思います。
けれどもこれがまたまた大きな転機の種となります。
震災でも幸い私達は東京。おかげ様で身体は元気でした。
何としてでも立ち直らなければ。
資金面、メンタル面でも苦しい日々が続きました。
広告しなければ。知ってもらわねば。焦る気持ちが日ごとに募ります。
試練がバネに
そんな想いが胸いっぱいになってきたころ、ある出会いがあってマーケティング学ぶことになるのです。
苦しんでいる時が、一番「成長」する時。後ろへ下がりたくても下がれない。そんな中で、もうひと頑張りの力を振り絞っていました。
商売は集客
いったい今まで誰のための何を売るために商売をしてきたのか。その原点を問われる毎日が始まりました。
ほとんどが30代前後の仲間たちの中にあって、パソコンが出来なくって泣いてるようなおばちゃんは私位しかいませんでした。(笑)それでも課題に必死に着いて行っていました。
売上を上げるためだけを考えたシンプルな1年でした。
SNSもブログ、Facebook、インスタグラム、LINE公式、LP作成。
とにかくやってみました。たくさんのコンサルにもつけました。最近ようやく支払いが終わったくらいたくさん学びました。
集中して体験する中で学びを進めてゆきました。出来ない事ばかりでしたが体験しているので身に付きました。
この私の様なお店の経営者さんがいるとしたら力になりたいという思いとなって、主宰している地域ビジネス相互応援コミュニティの種となっています。
私が何年もかけてやってきた非合理的なところをを咀嚼して、シンプルに効率よく運べるように伝えてあげたいと思っているのです。
SNSは何から始めたら良いのかという質問について、明確に答えをくれた人はいませんでした。今にして思えば当然かもしれません。
だってお店やニーズ、お客様のターゲットそれらを全て考えて使わなければ意味がないのです。今なら軽々しく「これが良いよって」言わないでくれた先輩方に心から感謝しています。学び経験してきた今だからわかることです。
誰のための
どんなサービスで喜ばせる店なのか!
それをしっかり見定めて、それが自分自身の喜びとなるのか?やっとたどり着いた土台に立てたことが今は大きな財産のようになりました。
そしてお金があれば今ある99%の問題は解決する。後は必要な金額を知ってどれだけ稼ぎたいのか。という原点に立ち返えれた日々でもありました。
Twitterとの出会い
コロナで腐った心に光をともしてくれたのがTwitterです。
先にあげたように今まで様々なSNSやYouTube、ブログなどで発信をしてきました。
その中でも避けてきたのがTwitterでした。仲間の励ましがあってもう1年続いています。
フォロワーさんも4100名超。
なかなかの成果があります。この成果やTwitterの魅力については別のnoteに書いていますのでご覧ください。
ここでは、ここからの可能性だけ少しお話しします。
私も初めからTwitterが大好きで始めたわけではありません。ですがきっかけがあって始めた中で思いもよらなかった成果がたくさんあった。
私の人生と同じだなと思っているのです。
◇父が亡くなって事業を受け継いだ
◇前職の上司が新事業の流れをサポートしてくれた
◇同じ商店街のおじさんが自分の事業を受け渡してくれた
◇仲間がTwitterの良さを体験させてくれた
いろんな苦労もあったけれども、差し出してくれたきっかけに対してそれまで作ってきた信頼を軸にしてチャレンジしてきた。
人生の後半はまさにこの連続。
そして、私は体験してみてそのどれもを自分の言葉で語れるようになってきた。その経験値の積み重ねで今があると感じるのです。
Twitterも単なる広告ツールでは無い人と人との繋がりと信頼をつくれるツールだとわかったのです。
この先の可能性は計り知れません。きっかけをくれたすべての人に今は感謝の気持ちでいっぱいです。
終わりに
私の人生のテーマは「共感」と「自由」かなと思ってます。
私にとって自由とは「平等な世界」であり「依存せず自分も人もコントロールなしの生き方」なんだと確信しています。
共感する仲間と自分軸を大事に自由な関りを持って社長思考で進化して来ました。そして普通の主婦から素人社長となり、経験の中からでこぼこ道を歩いてきました。
素人社長もいつの間にか社長思考で何とか55年も会社を存続することができています。
あなたも様々な事情で事業経営をされているのだと思います。きっと私よりは上手くやれている。これは絶対です。^^
経営を学んだり、様々な人間関係を築いてきたはずです。
もし少しだけスランプや上手くいかない時には私を思い出して欲しいのです。こんなおばちゃんだって55年続く会社をやってきたのだ、自分が出来ないわけがないと。そう思ってくれたら良いのです。
その為に、お恥ずかしくも拙い人生を少しお話しした次第です。
あなたは自由です。才能に溢れ高いスキルもお持ちでしょう。ちょっとのスイッチの入れ替えで必ず成功します。
一度しかない人生自分を信じ、周りにいる方々を愛して共に前進してゆきましょう。
共感してくださる方と深いご縁がいただけると嬉しいです。
日常のつぶやきはTwitter(@hika_love2)で更新していますので、良かったらフォローしてくださいね!
大変長い文章にお付き合いくださいましてありがとうございました。
あっこ社長が発信しているSNS
◇Twitter
1日3回以上は呟いてます!
【55年続く会社の社長思考】【50歳からのTwitter】シリーズツイート。
@hika_love2
https://note.com/5050akkosan/n/n9fef01a2bc5c
50歳からのTwitterに関してのnoteはこちら
◇スタンドエフエム
あっこ☆しゃちょーのあなたの人生株式会社放送局
>>https://stand.fm/channels/5f882acf37dc4cc7e1868750
◇LINE
https://lin.ee/A7s1wxr
総まとめをお送りしてます。
先行情報や表立って言えない話などお伝え中!
お仕事の依頼やセミナーについての問い合わせは下記フォームよりお願いいたします。
◇地域ビジネス相互応援コミュニティ
https://taketiya.com/local-business-mutual-support-community/
地域ビジネス相互応援コミュニティを主宰して社長思考を分かち合いながら、それぞれの強みでつながった全国の経営者の仲間と現実に様々な違いをつくり地域の活性化に貢献しています。