記憶~錯覚。
10年前の怒りを昨日の事のように、怒っている人間がいる。ずっと何年も何年も歳月が経っても怒り続けているわけだ。
そんなに怒るとは
どうしてそんなに?
それは、他人には理解出来る訳がない。
例えばその人の肉親が殺されたのだとしたら、それは一生忘れないであろうが。
私も、それだったら決して忘れない。
10年前にあった嬉しい出来事。
それを昨日の事のように思い出す。
それは、とても幸せな事だ。
誰もやはり介入出来ない世界。
どちらも、実は時と共に薄れるどころか
鮮明になったり、内容が微妙にor 大きく相違矛盾したりという事もある。
記憶は固定しない。
或いは誰かの一言でがらりと違う記憶にだってなりかねない。
だが、違和感は蓄積するだろう。
見えない違和感の蓄積。
それが誰かに迷惑がかからないものなら良いとは、思う。
寺山修司は、自分の子供時代の記憶を元にして戯曲や台本を幾つか書いた。
肉親への愛と憎。
故郷の風景。
大人たちの滑稽さ、哀れ、可笑しさ。
それらの戯曲は、とても素晴らしい舞台や映画になった。
だが、それは現実には存在しない。
それゆえか、見た人々の心に響き
懐かしい思い出にすらしてしまう。
もう1つの現実があったような錯覚。
他人の錯覚と自分の錯覚。
人間は、錯覚の中で人生を終えるのかもしれない。
美しい錯覚を夢見たい。
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