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ゆるしながら生きていたい

祖母が亡くなった6月。その前の3月くらいから良くなかった自分の体調は、現状良くなりつつある。もう、ずっと長いこと、身体のあちこちが何をしてても痛かったが、その痛みも消えてきた。これからまた不調がやってきたときに上手く対処するため、回復までの過程を文章として残しておこうと思う。


7月9日
マッサージに行った。身体を預けながら、お店の人に自分の気持ちを吐露をしてしまった。「最近なんで生きてるのかホント分かんなくなっちゃって」と言ってしまったのだ。直後に「あっヤベ」と思ったが、お店の人は嫌な顔せず答えてくれた。話をまとめると、自分を心地よくするための手段をいくつか持っておくと、生きていたいと思えるようになる とのことだった。

①SNSを避ける時間を意識的に持つ
②心地よいと思える手法を持つ。
 ・早起きして散歩して2度寝。
 ・阿吽の呼吸の友と過ごす。
 ・マッサージいく
 ・温泉いく
③ストレスになっていることを止める
④止められないなら他のことに意識を移す

家に帰った後に話の内容をメモりながら何をするか考え、翌日ドライブと温泉にでかけることにした。


7月10日
気の向くままにドライブした。海を見て、古民家を改修したカフェで美味しいものを食べて、温泉にいって、、、、多少は気が晴れたが、なんか違う気がした。


7月11日
熱い風呂に入った後、冷たいシャワーを浴びたら、調子が良くなることを発見する。


7月13日
マッサージ屋よりも、シャワー健康法を継続したほうが、健やかになれると判明。


7月14日
自分を心地よくするための手法を追加。
・昔好きだった漫画を読む
・車で大熱唱する
  >> コネクト(まどマギOP)
  >> 君の知らない物語(化物語)


7月18日
長野県岡谷市までロングドライブ。岡谷市民御用達みたいな商業施設があって、中学生男子と女子が歩道の端にいた。きっとデートで来たんだろうなと思ってたら、男子の方が女子の頬にチューして、女子がやめなよ〜みたいなそぶりしてて、女子が「車から人見てるよ」的な感じで僕を指差した。男子は真顔になった。今でもたまに思い出す面白い光景。






ここらへんで気づいた。対処療法みたいなことしかしてないじゃん。もっと生きたいと思えるようになって、身体が痛くならないようにするには、どうしたらいいんだろう。

考えた結果「絶対に幸せになる」という意気込みが必要なのでは?という発想に至った。それからは、鍵のついたTwitterアカウントで「絶対に幸せになるぞ」と毎日ツイートすることにした。



「絶対に幸せになるぞ」というツイートを1週間くらい続けた。でも、意気込まないと幸せになれないのか?と冷静になってしまって、やめた。もっと、根本の問題な気がした。自分で自分をゆるせないことが問題な気がした。自分の存在が罪だという意識がずっとあって、救われてはいけないというおかしな認知をしてしまっている。

死ぬ程考えて、次のような結論を出した。

悪いことが起きたとして、その原因が100パー自分の責任であったり自分のやることなすことが起因ではないはずだ。真の悪人ではない限り自身が100悪い場面なんかない。心の持ちようとして「自分だけが悪いんじゃない」を持つことは大事。

導き出した結論をもとに自分を保とうとした。それでも上手くいかず、寝て起きたら涙が出ているし、ふとした時に涙が出るし、体調を崩している間にできなかったことをやろうとすると涙が止まらなくなった。身体の調子は戻りつつあっても、心の調子はまだ完全に戻ってはいないようだった。





7月29日
団体の納涼会に参加。今まで自分が楽しいと感じてやりたいと思ってきたことが、いまは楽しいと感じられなくなったことにハッキリと気づいてしまい、寂しくなった。また楽しいと感じられるようになるまで、ゆっくりしたいと思った。


7月30日
心につかえていたものが少しとれた感覚があった。それがなぜなのか考えると、所属している団体でやるべきことができていない自分に対して罪の意識があったが、それを納涼会前に終わらせることができたことと、久々に会うのに変わらず接してくれた人がいてれたことで、罪の意識が和らいだことが要因としてあるのだと思う。

そして、とある本に出会った。お笑いコンビオードリーの若林 正恭さん著、「ナナメの夕暮れ」というエッセイ集だ。エッセイのひとつ「ナナメの殺し方」に僕は感銘を受けた。そこに書かれているのは「ゆるし」と「肯定」についてだった。若林さんの文章に救われた。今まで試してきたことの全てより、この文章が自分を救ってくれた。これを噛み砕いて伝えるスキルが僕にはないので、買って読んで欲しい。




いろんなことを経て「ゆるさない」を減らすことが、生きやすさに繋がるのだと今は考えるようになった。あとは、とにかく「あせらず」ということだ。

体調を崩している間、物事をテキパキ進めることができなくなってしまった自分は「ゆるされない」と思っていたし、自分のことを「ゆるす」こともできなかった。結局この罪悪感を消すために「無理をしてでも終わらせ罪の意識を和らげる」という方法をとったのだけど、こうすればよかったなと思うのは「誰かに相談すればよかった」だし、でもそれは自分自身が「ゆるされない」存在だと思っていたから、できなかった。だから、まず自分をゆるすことが先なんだと思った。

悪いことが起きたとして、その原因が100パー自分の責任であったり自分のやることなすことが起因ではないはずだ。真の悪人ではない限り自身が100悪い場面なんかない。心の持ちようとして「自分だけが悪いんじゃない」を持つことは大事。

手当たり次第、気の向くままにドライブしたり、美味しいものを食べたり、温泉いったり、自分を労わることも試した。これが頑張っている自分をゆるすということに繋がる、、、というわけでもなくて、これらは対処療法でしかなく、根本の解決にはならなかった。

自分をゆるすということは、僕にとっては、難しいことだった。

もう結局は「ゆるしあう」ほかにないのだ。これは全部をゆるしましょうということではなくて、自身の心の深いところまで傷つけてきた人のことまではゆるさなくていい。深いところでなくとも人を意図的に傷つける人とは関わらなくても良い。人や物事、自分の感情の動きの大小を考えて、これだったらゆるせるな というところから「あせらず」ゆるしていく。小さいところから。それを続けることで、それをお互いにやることで、「ゆるさない」が減っていき、人は自分をゆるして生きていけるんじゃないだろうか。

僕は他人からの目が基本的には怖いのだけど、他人のことを考えているときは「他人を考える自分」にフォーカスしすぎているのかもしれないとも考えた。◯◯の中にいる自分、XXの中にいる自分 という立場や役割のことを考えすぎる傾向がある。そうすると、自分が何をしたいのか、何をしていると幸せなのか、考える余裕がなくなってしまう。だからこそ「ゆるしあえる」関係性の中で、目の前の人と自分を大切に考えていけたらいいなと思う。



ゆるすということについて考えるのは難しいし、僕にとっては自分をゆるすことも難しい。同じような苦しみを抱えている人には「僕も同じだよ」と言いたい。その苦しみを抱えていることも、あなたの存在も、自分の存在も、ゆるしながら生きていたいと思うのだ。


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