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『非往復書簡』#6(日每→寝袋男)


親愛なる寝袋男さま


国民的ヒーローである彼のアイデンティティはどこにあるのでしょう。ここ数日、ふとした拍子に私の脳髄を揺さぶるのは、彼の事でした。弱りきった彼を再びヒーローたる存在に返り咲かせるのは、顔の交換という何とも奇っ怪な術しかないのです。ならば、彼を彼たらしめるのは、その身体なのでしょうか。
いいえ、顔がなければ彼の身体は機能しません。やはり、顔に彼の本質は宿る。では、新しい顔となった彼は、それ以前の彼と同質の彼なのでしょうか。

私は、違うと思っています。
一見受け継がれているかに思える彼の記憶や信条や経験則からの感情は、その都度断絶を繰り返しているのです。情報は、身体である感覚器官に蓄積されているだけ。新しい顔を得た時、彼はその情報をインストールされるだけ。新たな局面で新たな体感を得、新たな感情や信条を抱くのです。

だって、古い顔と新しい顔は、それだけで全く別の『質』なのですから。寸分たがわず同じ“想い”を抱く事は、叶わない。

何より私が危惧しているのは、生きたまますげ替えられた古い方の顔の行方。いとも簡単に、乱雑に捨てられた顔の行方。これまで打ち捨てられた古い彼等は、今どうしているのでしょう。

相手を得る為に相手の肉を喰らう事と、性行為はとても良く似ていますね。食は、それだけで己の活力や栄養へと反映されます。性行為もそれと同じ。異性間に限らず、同性同士であっても、相手の一部を繋げ、体液なり細胞なりを交換し合う事で、あたかも“他者”が消えたように、一体感を味わう事が出来ます。
が、哀しいかな。
幾ら食しても消費という事実で己の一部である感覚は直ぐに希薄になります。同様に、どれだけ肌を合わせようとも、絶対的なヒトの孤独性から逃れる事は出来ません。

だからこそ、ヒトは食し、性行為に及ぶのでしょうか。何とか己の孤独性から脱却しようと。
繰り返し繰り返し、生きてる間中。繰り返す程、絶対的に孤独であると認識せざるを得ないのに。

蛸は、時折自分の足を食べるそうですね。食べる事が出来なかったり、負荷が掛かると食べてしまう。すぐに自生する故でしょうが、酷く合理的です。

蛸は、孤独を知っている。
きちんと、認識という形で知っている。

己の足を食す、という事を知った時、そう思いました。

ヒトも、とっととそうなれば良いのに、と思います。他者の肉を求める事なく、己で完結出来れば良いのに、と。
そういえば、オナニーは日本語表現だと”自慰“とも表します。言い得て妙です。自分を慰める。

結局、己の孤独は己で慰めるしかない。
言い換えれば、己のケツは己で拭くしかない。
いっそ潔く、オナニストになってしまえば。

ヒトはもっと、風通しよく生きられるのかもしれません。

彼は、餓えた人々に己の頭を分け与える事があります。彼の頭は、アンパンで出来ているからです。ヒーローたりうる彼の頭だからこそか、少しの量で分け与えられた人々はすぐさま回復します。

彼は、己の頭を食した事があるのでしょうか?

彼が、いつの日か己の頭を食した時。不連続の虜囚であった彼は、本当の解放を得るのかもしれません。

それでは、また。

日毎


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