『非往復書簡』#4 (晦→寝袋男)
親愛なる寝袋男さま
昨日、最後の燻製鳩肉を頂きました。
大変美味しゅうございました。
お刺身、スープ、燻製、と。羽毛はどうしても口に残るので毟ってしまい、硬い骨の一部は残りましたが、それ以外は全て私の胃の腑に収まりました。羽根はちょっとしたものに使用し、一部の骨は洗浄処理し、無垢なカルシウムの構成として私の手元に残しています。
とても綺麗。
鳥葬、というお見送りの作法がございます。私は常日頃、この御弔いで送って頂きたいと考えておりました。
食物連鎖の輪から外れて久しいヒトとして、疎外感を覚えていた昨日まで、鳥葬は、私にとってある種の福音だったのです。
諸説ごさいますが、その起源は火を崇めたゾロアスター教にあるそうです。魂の離れた肉体は悪魔の容れ物となる故、焼くと炎は穢れを負います。持て余した遺体をどうするかといえば、野ざらしにするしかありません。それを屠りに来た大型の鳥を見た時、これ幸いと、御弔いの意味を持たせたのでしょう。
全く、ヒトのやる事ときたら。
どこまでも自分達に都合が良いのは、いつの世も変わりませんね。
ともあれ、ゾロアスター教の死の教えはチベット仏教へ伝わる際に、さらにその信仰を持つヒトの″救い″の為に解釈を加えられ、広く知られる鳥葬になったそうです。
チベットは高地です。火葬資材の樹木を満足に調達し難い上、その要因の一つである土も硬く、土葬にも向かない。
そんな現実問題も手伝い、鳥葬は、とても具合が良かった。
チベット仏教では、魂の抜けた肉体=単なる物体です。その物体すら天へ送る手段を鳥に委ねた事はとても理に叶い、残された者達の救いとして受け入れられたのでしょう。
全く、ヒトの(割愛)
ヒトは孤独です。
基本的に、産まれる時も一人。死ぬ時も一人。
圧倒的に一人。
それは、ヒトが生きる上で認識すべき事実ですが、他者との関わりを完全に断つ事は出来ない中で生き続けるうち、半ば強制的に寂しさという感情を覚えさせられます。
私はその感情を、ヒトの存在への“罰″或いは“踏み絵″と考えております。
私もやはり、こうして生きる中、寂しさを覚えました。
そんな時、食物連鎖を知り初めて、ヒトは死後に許されるのでは、と思い至りました。
食物連鎖の輪に組み込まれる死を迎えてこそ、孤独は消える。
が、次の瞬間、私の希望は打ち砕かれます。
ヒトはとうに、食物連鎖の和から離脱していたのですから。
だからこそ、鳥葬は私の福音でした。
鳥に屠られる事で、食物連鎖の輪に戻る事が出来る。許される術が、残っている。
でも、それも昨日までのお話。
今回、丸々一羽の鳩を捌き、その身のほとんどを私は喰い尽くしました。そうして、その一部である骨を手にしていると、奇妙な感覚に囚われるのです。
なんだか私、己の死後、遣わされた鳥の御弔いを既にしてしまったよう。
その生命を自ら断ったからでしょうか。
私にはわかりません。
ただ一つハッキリしているのは、私にはもう、鳥のお迎えは来ない。
私は、己の分不相応さに気づきましたよ。
青く明るい空に飛び立つ鳥に、私の死後を担わせるのはお門違いというもの。
寝袋男さんもご存知でしょう?
私は元来、お天道様の元を歩けるようなヒトではございません。
夜飛ぶ鳥は、少ない。
また、随分遠くまで参りましたね。
私は些かも絶望しておりませんから、御心配には及ばずですよ。
まだ、風葬がございます。
夜歩く獣に屠られたら、土に潜む虫や菌が、私を綺麗さっぱり喰い尽くすでしょう。
そんな風にじわじわと、食物連鎖に潜り込む事が、私には相応しいのです。
寝袋男さんは、どのような御弔いを望まれますか?
綺麗な鳩の羽根を使い、栞を作りました。
一枚同封致しますので、宜しかったらお使い下さいませ。
それでは、この辺で。
晦
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