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【最後まで読んで】人間の脳は誤作動を起こしやすいというのがリアルな性能なのかもしれない

 久々に書きます。5000文字ちょっとの投稿です。是非最後まで読んでください。今回のヘッダーをよく見てみてください。適当に並べたように見える9つの単語。中心に脳、それを囲むように8つの単語を配置しています。

 現実と理想の間に善悪、脳の左に言語、右に感性。脳の下に感情、その左右に憎悪と愛情を配置。どういうことか説明します。これは私の持論ですので賛否はあって当然であり、正しいとも間違いとも言い難い文面ですので、あとは、読者の皆さんで感じるままに、思うままに、自由に受け取っていただいて構いません。一つだけ確かなことは、今回のテーマは万人に共通するものであることだということです。

 長文読解が苦手な方、単に文章を読むのが苦手な方も、是非読み進めていただき、「あなたはどう思うのか」「あなたはどう考えるのか」を可能であればご自身で言語化してみてください。

◆なぜ人は生きていく中で失敗するのか

 最近、コンビニ強盗事件や宝飾品店強盗事件が相次いでいて、物騒な世の中になったものだなと感じる方々は多いかもしれません。本日のニュースで実質賃金12か月連続減少というヘッドラインが目に入りました。物価高騰により賃金引上げが騒がれ続けた結果、多くの企業で賃金ベースパップの報道が流れてきましたが、それでは追いつかないほどに物価が高騰し続けているため、まだまだ手元に残るお金が増える兆しは見られません。

 働いても生活が立ち行かなくなった人たちのうち、闇バイトの詐欺グループの受け子やかけ子などに加担してしまったりして、それだけでは済まない重罪を犯す人たちも増えつつある昨今、私は改めて善悪について考えさせられています。

 法治国家であるこの日本では、法の定めるところを逸脱する違反行為をした人は発覚次第逮捕起訴され、法の裁きを受けることになります。とかいう当たり前のことを、罪を犯してしまう人たちが本当に理解できていないのだとしたらそれはそれで問題があるでしょうが、罪を犯す人たちのほとんどは、その場の衝動によるものではなく、善悪の分別がある、元は善良な市民なのだということ。

 国民の生活を安全に守るために、正義を掲げて公務にあたる警察官が、たまたま同じ電車に乗り合わせた別の警察官に電車内で痴漢行為を目撃され現行犯逮捕されたというニュースがありましたね。どうしてこういうことが起きてしまうのでしょう。

 これぞまさに、理想と現実の狭間で揺れ動く善悪の分別が誤作動を起こした一例なのではないかと思うのです。人は、頭では悪いことだとわかっていても、その場の状況やその時の感情、または急に湧き起こる衝動によって、誰が見ても明らかに犯罪行為だとわかることでもやってしまうことがある。それが人間の本質であって、どんなに理想を掲げ、正義を掲げ、それまで真っ当に生きてきたとしてもそういうことが度々散見されるのは、罪を犯した本人だけの問題だと切って捨てることができるだろうか、という疑念を抱きます。

◆言語や思想で人々を操り金儲けをする〇〇ビジネス

 弱者ビジネス、貧困ビジネス、こうしたパワーワードが散見されるようになったことも謂わば必然の結果だったのではないかと思います。今やビジネス系オンラインサロンなんかも風前の灯火。巷で言われるようになったのは、無能な意識高い系の小金持ちから会費を集めて主催者だけが潤うだけの奴隷システム。月額いくらで課金してセミナーに参加し続けた結果、何も好転することなく、金銭だけ搾取されてしまい、むしろ悪化してしまった人たちはきっと少なくないでしょう。

 語弊がないように捕捉しておきますが、全てのサロンがそうであるとは限りません。問題は、流行りによって蔓延したあらゆる形態の群れにおいて、本来そのグループが目指していた方向から外れ、ある時から金銭搾取だけが主体となってしまったものがほとんどなのだということに近年多くの人たちが気付き始めたというのがリアルな実情です。

 最初は騙す気などなく、掲げた理想に則って運営していたのかもしれないですが、途中から暗雲が立ち込め迷走するようになり、徐々に目的を逸脱していく、おそらくはそういう経緯を辿っているサロンがほとんどなのでしょう。

 一般の個人からしたら少し規模の大きい話に聞こえるかもしれませんが、実際のところこうしたことは、普段の社会生活において普通に起きていることであり、知らず知らずのうちに自身も巻き込まれていることも大いにあることではないでしょうか。

 私からしたら非常にくだらないなと思えることですけれども、彼氏彼女の間で未だに物議を醸す会計時の歪んだ見方。「会計時に男が財布を見せるのは引く」「現金払いは引く」「おつりの小銭がいくらだろうとレジ横にある募金箱に入れずに財布に戻す男は引く」などということを平気で笑いながら話す二人の女性が動画をアップして大炎上していましたね。

 こんなものは鼻先で笑い飛ばしてスルーすればいいものを、騒ぎに騒ぎ立てて社会問題レベルにまで発展し、報道番組まで取り上げるような顛末に至っていましたが、本当に大丈夫かなと心配になるほどに、世の中はくだらないことにまで目くじらを立て、火に油を注いで騒ぎ立てることが常態化してしまっていますね。

 論争に参加している人たちの言いたいこともわからなくはありませんよ。キャッシュレス社会で現金使うなんてもう古いとか、男ならクレカで払えとか、QRコード支払いすらもしないのは遅れてるとか、コロナで現金払いは不潔だとかなんとか、まぁ大体そんなところでしょう。

 個人が何に対してどう感じ、何を言うかは自由なんですよ。みんなどうして論争に参加しようとするんでしょうね?その結果何を得ているのかと問うても、大方「自身が正義を振りかざして優越感を得たいだけ」だったりしませんか?

 どうして他人の言動や態度に対して石を投げるような真似を辞めないのでしょうね。そうしてずっと渦中の人物の周りに集まって石を投げたり、その人物とは関係ない人たちが外野で論争を繰り広げていたりするといった日常こそ、社会そのものを劣化に導いている気がするのですが、どうもその点が腑に落ちません。

 あなたの感性に問いかけてみてください。炎上騒動に参画して火に油を注ぐ行為、自分とは一切関係のない人物に対して石を投げる行為は、自分にとってどれほど重要ですか?と。その時に吐き出している言葉はどれほどの重要性を含んでいるのでしょうか。

◆憎悪や愛情などの感情は機能していますか?

 ここで改めて善悪の話をします。人が自身が信じる正義でもって吊し上げ行為や叩く行為をしているのだとして、それは善ですか?それとも悪ですか?私からすればどちらでもないと思います。誰かが炎上していることに対して、何が善で何が悪かをハッキリさせることには何の意味もないと思いませんか?

 例えば、タレントや有名人の不倫騒動なんてどうでしょう。ネット上で批判殺到していますなんて報道番組でTwitterのコメントを取り上げていたりするけれども、「それがどうした」と思いませんか?メディアが伝える情報の質も随分と劣化しているように見えます。不倫がどうだこうだ議論したところで、それは不倫した側とされた側の問題に尽きるわけで、有名であることとは関係ないし、無関係のネットユーザーが渦中の人たちの仕事を失うまで叩き伏せて踏みにじるまでする意味があるとは到底思えませんが。

 「不倫をするやつはけしからん!」という怒りなのか、「ファンの期待を裏切るなんて許せない!」という裏切られた思いからくる憎悪なのか、よくわかりませんね?

 おそらくはこういうことだと思うのです。不倫というものに対する個人のもつイメージが似通った人たちほど、こうした不倫騒動が起きた時の投石に加担しやすいのではないか、と。「不倫は悪だ」とするならば、なぜそう思うのかをかみ砕いてみるといいかもしれません。

 もちろん、家庭裁判所の離婚調停なんかでは不倫の詳細から賠償額が決まったり和解したりなどの結論に至りますが、無関係な第三者は無関係なのだから関係ないはずですよね。自分がそんなに不倫を許せないのであれば自分が不倫をしなければいいだけのことです。

◆イチローさんの言葉がすべてを物語っている

 「昨日までの結果は、何の意味もないもの。」

 どんなに素晴らしい過去の栄光に縋っても、今日、明日、人生の道を踏み外す可能性は誰にだってあるわけで、事、裁判の判決において、人が道を踏み外し罪を犯したその瞬間、過去のすべては、現在犯したあらゆる罪を減刑する理由にはならない、ということ。

 極論を言ってしまうと、どんな生き方をしたとしても最期には誰もが死を迎えるわけで、考えようによっては「他人がどう言おうが関係ない」と吐き捨ててなんでもできてしまうのも人間。それを昨今では「無敵の人」と呼んでいるようですが、そこまで行ってしまうと脳は正常に機能しているとは言い難く、掲げる理想も、見ている現実も、口から出る言葉も、あらゆるものから何かを感じ取るための感性も、他者に対する憎悪や愛情といった感情も、そのすべてが機能不全に陥っていると言っていいかもしれません。

 それで言うとですね、小さい頃から目標にしていたこと、抱いていた夢を叶えるために一本のレールの上を突き進む生き方というのは、一般の人たちが当たり前のように経験する思春期の恋愛や友人との遊びなどといった多くのことを犠牲にすることになるわけですが、未来にはなんの確証もありませんから、事件や事故、はたまた病に倒れるようなこともあるわけで、道半ばでもう目指すことのできなくなった夢や目標というのは、ベッタリと脳裏に刻まれます。

 もし、こんな残酷な生き方を自身の子に強いる親がいるのだとすれば、これほど罪深いことはないように思います。ところが、本人がそういう生き方を望んだとするならば、それに対しては誰も口を挟む余地はないでしょう。反対に、本人が望んだことをこれといった根拠も理由もなくダメの一点張りでさせないこともまた罪深いことだろうと思います。

 人が生きていく上で学ぶことのうち、そのほとんどは経験からではないでしょうか。人が培うもののうちほとんどは、自ら望んでやったことではないでしょうか。自分がやりたいと熱望してやり続けたこと、その過程で起こるあらゆる不運や不幸は許容できると思うのです。

 もし、本当にそういう生き方ができたのであれば、自分以外の誰かや環境を怨むこともないでしょう。私はいつも思うのです。現代社会において子を授かった全ての親は、こんな大変な時代だからこそ、自分の子供が心の底からやりたいことを見つけられるように導いてあげて欲しい、と。そして、見つけることができたなら全力で応援してあげてほしい、と。

 ここで、応援という言葉に振れておきます。親子間において、親が子を応援するとはどういうことか、私なりに大切だと思うことはこれに尽きます。

◆我が子を抱きしめてあげること

 「私はあなたの親として、あなたをずっと愛しています。」そのことを、体温を通じて伝えるのです。小さい頃に、何度も何度もそうして伝え続けることで、あなたの子供は生涯道を踏み外すことなく生きていくことができるでしょう。

 親が自分の子供に対して決してやってはならないことは、「自分が親から愛されているのかわからない、と思わせること」です。

 それをするくらいなら親の資格はないと思っていいでしょう。反対に、「自分は親からたくさんの愛情を注いでもらった」と思わせることができたなら、あなたの子供は将来、同じように人を愛するようになります。

 良い意味でも、悪い意味でも、蛙の子は蛙です。

 アメリカの文化で最も素晴らしいのは、家族関係でもハグするのが日常であるという文化です。

 人の愛し方がわからない人は現代では非常に多いのではないでしょうか。少子高齢化が招いたことだとも言えるかもしれませんが、家庭生活に愛情が溢れていれば、世間がどうであろうとそういう家庭で育った子供は将来必ず人を愛します。

 だからまず、子供に愛情を注ぐために、抱きしめてあげてください。特別な言葉など必要ありません。ただ黙って強く抱きしめてあげてください。あとは、親から抱きしめてもらっている子供が自分の感性で何かを感じるでしょう。そうして親から感じ取ったものを、いつか自分が愛する人に対して同じようにして抱きしめ伝えるようになり、産まれた子供もまた同じく抱きしめ愛情を注ぐようになります。

 愛情というのは、言葉で伝えようとしてもなかなか伝えられるものではありませんが、本当に自分の愛情を伝えたいと思うのなら、ただ黙って抱きしめればいいと思います。

 現代の人たちは、言葉の扱い方が雑な割に言葉だけでなんとかしようとし過ぎなんですよね。これももしかすると「慢性的な脳の誤作動」なのかもしれません。

 人が人らしくあるためには愛情が不可欠です。自分が大切にされて生きてこれたと思える人は、きっと自分が大切にしたいと思える人との出会いに恵まれ、その人を生涯愛し続けることができるでしょう。

 他人に対する憎悪や怒りばかりを吐き散らかすような日常であるならば、そんな日常から早く脱出してしまいましょうね。そんな生き方をしていても一向に幸せにはなれませんから。一日でも早く、このことに気付いてほしいものです。

 我ながらなんとくさい文章なんだろうと思いますが、今回の投稿は私の心の内から出た本心です。純粋に人を愛することのできる社会になれば、日本経済はもっと豊かになるはずです。少子高齢化も解消するでしょう。そうして人口増加を継続すればいいだけなのが今の日本社会が目指すべき未来です。これだけは断言できますね。

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