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◆競争社会が生み出したものと失ったもの(成り行き超長文投稿)

※この投稿は、あくまでも私の個人的な視点から述べる感想であることをはじめに記しておきます。賛否あるテーマが含まれるかと思いますが、読んでくださった皆さんには、ぜひ遠慮なく、皆さんが思うままのご意見をコメントに寄せていただけると幸いです。

◆鳥籠と外の世界

【1】「勉強しなさい」が奪った子供たちの“〇〇〇”

 まずはじめに結論から言うと、現在60歳以上の世代の人たちは、家庭では「我が子のため」、学校では「生徒のため」、そういう大義名分の下に教育や躾(しつけ)を“正しい”と信じていたことは間違いないだろうけれども、「本質的な意味を知っているわけではなかった」ということを提言したい。

 私は、小さい頃から親から度々言われる「勉強しなさい」、学校の担任から言われる「いついつまでに宿題を提出してください」といった言葉の意味がわからないまま、小学校6年間、中学校3年間、高校3年間、計12年間を徹底的に怠惰に過ごした。

 今でも座学は心底嫌いだと思っている。一つの部屋に20~30人の生徒が座らされて、50分の授業を1日に5~6セット、国語、算数、歴史などについて担任の話を延々聴かされる日々にはうんざりしていたものだ。毎日のように宿題の提出を要求され、挙句の果てには定期的にテストをするというじゃないか。

 小学校の頃の宿題と言えば、漢字の書き取りをノートに何十回と書かされたり、掛け算九九を延々と書かされたりしたものだ。無論、右手は鉛筆で真っ黒になり、一体これは何なんだと考えた末に至った気付きは「手の運動」でしかないということ。

 よくもまあ偉そうに宿題を出せと言う割には無駄なことをさせてくれたものだと、今でも憎悪に近い感覚を覚える。なんでも、昨今の高等学校教育課程では「探究」をテーマにした要項が構成されたようで、非常にうらやましく思う。教科書の名前には「現代文探究」「世界史探究」など、必ず「探究」の文字が記載され、「自ら思考することを促す教育方針」へと転換したことが見て取れる。

 如何に「暗記学習」が応用の利かない学習方法であるかについてようやく文科省が動き出したことは、現代の子供たちの未来に良い意味で絶大な影響を及ぼすことだろうと思う。グローバル化は決して良いことばかりではないにしても、事、教育については海外から多くを学んだに違いない日本の教育は、これからも継続的に影響を受け続けるだろう。

 日本は、国全体が海に囲まれた国であるため、ブロードバンドが普及し、世界各国の情報がインターネットによって往来するようになり、日本に膨大な気付きを与える機会になったことは言うに及ばない。しかしそれでも、どの分野においても「発展の遅れ」や「産業の開拓」という点において諸外国に大差を付けられている。

 昨今では、大学そのものの存在意義も危ぶまれているほど。「東大卒ニート」というワードが今では珍しくはなくなってしまったのはなぜなのかを真剣に考えなければならない。おそらく、寝る間も惜しんで死ぬほど勉強して合格したに違いないのに、卒業し、一歩社会に足を踏み入れた途端、そこには「学歴不問」という壁が立ちはだかっていた。

 もちろん、そうは言っても、未だに学歴優位性は根強く残っていて、一概に学歴が無駄になったわけではないにしても、昭和や平成の時代に比べればその価値は大きく目減りしてきたと言える。今更学歴マウントなんかしてしまうと逆に恥をかいてしまう、今はそういう時代。

 よく「時代のせいにするな」「社会のせいにするな」と意気揚々と言いたがる人がいるけれども、私から言わせればこれは古い考え方から抜け出せない昭和の人間たちによる体のいい正当化から出る言葉でしかない。今の20代~40代の人たちは、この30年間で劇的に変化してきた社会の変化、時代の潮流による影響をことごとく受けている世代だ。

 私たちが小さい頃に、皆さんの両親や学校の教師は、20年後や30年後の未来を想定して躾や教育をしてきたと断言できるだろうか。果たしてそれが正しかったと断言できるだろうか。こうまで変化してきたには理由があり、方針転換を迫られたり、常識のアップデートが繰り返されてきた結果であることを、現在60歳以上の高齢者たちは認めなければならない。

 ところがだ、老い先短い人々は、もはやそんなことはどうでもいいくらいに、自分たちの余生のことばかりを考えている。年金支給額が減額されて騒いでる人もいるだろうけれども、人口比率が最も高い高齢者には痛みが伴ってしかるべきだろうと私は考える。

 ハッキリ言って、一生懸命勉強して現代を生きるために、就職を有利にするために資格を取得した20代30代の人たちは、業務負担や社会保険料や諸々の税金は増え、挙句の果てには消費税まで増税し、今となっては物価高騰の荒波が迫っている始末。旨味はどんどん目減りしていると言っていい。

 もちろん、一概に何者かによる悪意によって今に至っているとは言い難く、様々な要因が重なっていることは自明の理ではあるにせよ、人が80年~100年という人生を生きる上で、昭和と令和ではその難易度が桁違いに跳ね上がっている。

 では、この困難に直面した皆さんが、「お前の努力が足りなかったんだと思え。」と言われたとして、その言葉に心底納得できる人たちが一体どれだけいるのだろうか。私は到底納得なんかできない。

 高度経済成長期の終焉は1995年頃とされている。そこに至るまでの20年間で資産を貯め込んだ人、仕事で成功した人、子宝に恵まれた人、家や車をさも当然のように私有した人、それが今の高齢者たちだ。彼らはそれを「努力をした結果」だと言う。本当にそうか?

 すごく失礼な言い方をするけれども、ただ単に、令和時代と比較して「景気が良かっただけでは?」というのが答えではなかろうか。

 暗記学習を頑張れば良い点数が取れて、社会的にもそれが「有能な人間」としての証となり、当時一流企業と言われていた会社への入社が「将来安泰」の代名詞にもなっていた。今は、一流企業に入社したとしても、結局のところは会社を存続させるための駒として、人口減少する中、業務負担は急増しているといった環境で、想定外の責任を背負わされる管理職はゴロゴロしているに違いない。

 勉強すれば将来は拓ける、そういう時代は当の昔に終わっている。では、勉強をしないで何をする?という話だが、やはり勉強は大切なのである。何を言っているかわからない人にわかりやすく言い換えると、「勉強しなさいと言われてする勉強ではなく、〇〇〇に従ってやる勉強をすること」がこれからより重要になっていく。

 “〇〇〇”とはなんだろう?

【2】旧態依然とした学校教育が子供たちの“〇〇〇”を縛り付けた「優秀の呪い」

 皆さん、「十人十色」という言葉の意味はご存じだろうと思う。十人いれば人それぞれ色が違うというそのままの意味。物心ついてから、人がどんなことに興味や関心を持ち、誰に意識が向かい、どんなことをやりたいと思うのかは実に様々だろうということを意味している。

 それ故に、わずか10人でさえも、全員を一つの思想や常識で縛り付けることは本来理に適わないバイアスでしかないということを気付かなければならなかったのではないかということは、ようやく社会が気付き始めている。

 人間は、いじめ、人種差別、障がい者差別、男女差別などの、今となっては国際的に問題視されているような差別問題について擁護することは憚られるべきものだとしているものの、「何かに突出して優秀な人間は富や名声だけではなく、99%の人々の何倍もの機会を与えられるのは当然のことだ」とする思想に支配されている。私はこれを「優秀の呪い」と表する。

 学校でも会社でもスポーツでも、もっと大きな規模で言うと国家単位でもランキング化したりヒエラルキー化したりすることがこれまでの人間社会では当たり前とされてきた。学業において劣る者、業務実績で劣る者、スポーツで敗北した者たちは、“優秀な人間たち”とは別の次元で生きることを強いられる。

 中には、幼少期から親にあれこれと習い事を強いられ、そのうち花を咲かせるのはほんの一握りで、多くは貴重な思春期を犠牲にして社会へと出ていく。優秀でなければ富も地位も名声も得られない社会というのは、まさに勝ち組と負け組の論理で展開されているため、強い者、勝った者が多くを手にするのは当然だという思想がまかり通る。

 「人間は優秀でなければならない、そうなるための努力を惜しむな」みたいな思想は、この世界に競争というフィールドがあることを前提としているからにほかならない。

 しかしながら、その思想は、人口平均年齢が高く、少子化の続く、経済力を失いつつある日本ではほぼ意味を成さなくなっていく。つまり、競争しているつもりでいても、加速的に諸外国に取り残されていきつつある日本では、国内でトップに立ったとしても世界基準には遠く及ばなくなるという現実を突きつけられることになる、ということ。

 社会的ステータスでマウント取り合っている場合ではない中で、これからの日本でやるべきことは、少子化対策ではなく、少子化基準策定が急務ではなかろうかということ。

 少子高齢化に下手に抗うから多くの歪を生むのであって、元より少子社会を基準にした枠組みや社会インフラを整備していくことが、これまでの古い仕来りや慣習をアップデートするには一番の最短距離となると私は考えている。この景気の長期低迷は、政策一つで改善するレベルではないことはわかっているし、それ故に少子化が進んでいることも素直に認めなければならない。

 早く、全ての世代において自分の人生を「自らの好奇心」に従って生きられる社会にしていかなければならない。これはどういうことかというと、「社会的ステータスのフラット化」であるとも言えると私は考えている。

 収入がいくらで、社内ではどのポジションで、何々で有名なあの人と人脈があって、今度誰々を誘ってどこどこに行くだとかいうマウントトークは、聴いていてゾッとする。“オレたちは勝ち組だぜ(どやっ)”といったこういう人種の撲滅が必要で、これまで高すぎた敷居みたいなものを全撤廃し、人々の生活にまつわるあらゆる機会という機会にリンクさせることができれば、“人との出会い”一つ取っても、自分の人生には絶対にないと思っていたことが起きたりする。

 どうも人って一定以上の地位に立つと、自分という存在が特別だと誤認するようになり、間違いを犯す人が後を絶たないが、これは人間としての本質でもあるような気はする。そこから、人を見下す表現が止まらなくなるんだろう。

 好奇心のままに生きることが許されない世界にはびこる目に見えない敷居は、可能な限り撤廃しなければならない。既得権益を貪る人間がいればいるほど、その国の民は豊かにはならない。

 おそらく、既得権益やそれを貪るための地位みたいなものを手に入れるために何十年とかけて頑張ったのかもしれないけれども、腐った金で豪遊するに至った人間たちは、一方では悪さもたくさんしているもの。無論、金だけではない。地位や権力を利用した悪さ全てを含む。

 旧態依然とした学校教育が子供たちの“好奇心”を縛り付けても、私欲を満たすためだけの期間でしかないのだとしたらこれほど無意味なことはない。

 子供が心からやりたいと思ったことは、小さいうちから自身の好奇心に従って頑張ろうとする機会となるはずで、親の都合や社会的常識から出る古いバイアスで不意にしてはならない。子供たちに「心を燃やす機会」を与えられる社会にしていく必要がある。

 たとえそれがゲームでも、スポーツでも、魚釣りでも、山登りでも、料理でも、気が済むまでやらせてあげれば、必ず社会に出てからも、そうした心を燃やしたという経験が、その後の人生を支える力強い記憶となってくれる。

 高校の学費無償化に異論はないが、私の見識では根本的な解決には至らないと思っている。どうせなら、12歳を迎えるまでに子供たちが何をやりたいのかを決められるスキームを展開し、その年になって「あなたは今、何がやりたいですか?」と聞かれて、「これ!」と即答できるようにすること。

 そして、これと決めた子供たちのやりたいことにかかる一切の費用を国や自治体が支援するようにすれば、きっと全力で彼らは心を燃やすに違いないし、日本の貴重な人材を多く生み出すことに成功するだろうと思う。

 もう、子供たちがやりたくないことを無理やり強要するような社会システムは辞めて、夢実現までの最短距離を歩ませてやってほしい。人の心のうちから湧き出したものというのは、競争論理では語れない彼ら一人一人の世界で活かされるもので、それがまっすぐ、ストレートに、彼らの幸せの形となっていくと思う。

 世の中に無駄なことは一つもないみたいな綺麗ごとを言って納得させようとすることもやめてもらいたいね。他人事とは思えないよね、銀行員については。昔はメガバンクの行員になれたら一生安泰と言われていたのに、今はAIの台頭で不要な人材として切り捨てられるんだから。その瞬間から、「自分の人生って一体何だったんだろう」って失望するしかない。

 人生はギャンブルだって信じられる人ってすごいよね。ただ社会の枠組みに従って選択したに過ぎないってのが現実であり、事実なのに、どうしてそれで納得できるんだろうかって私は不思議でならない。感性が鋭い人は、どんなに若くても早い時期にそのことには気付いている。

 だから、昔の学校教育が自分の未来においては役に立たないということも自分で気付けるんだよね。勉強で優秀になりたい人はやればいいと思うけれども、それ以外の人たちがその道を外れて社会的に劣等感を感じながら生きていかなければならないような社会は不完全であると言わざるを得ない。

 なんで社会的ステータスのフラット化が重要なのか。それは、経済的に裕福な高齢者がこれからもどんどん特殊詐欺のターゲットにされるからでもある。むしろ、見た目裕福そうに見える人や家は、狙ってくださいとアピールすることになる。ところが、持たざる者は狙われにくい。

 仮に、身に着けているものが偽物だろうと裕福マウントしたがる人はカモにされに行っているようなもので、どっちにしろ、裕福であろうとなかろうと、港区女子の皆さんは要注意。セレブともてはやされてサクッと持っていかれないように。

 こうして見てみると、アップデートしなければならない常識や誤認があまりに多いよね。どれもこれも昭和平成で形成され普及したであろう思想ばかり。「昔はこうだった」と必死に正当化するのももう辞めたほうがいい。「いつの話だよ????」切り捨てられるのが落ち。

【3】数字や統計の分析で未来は測れない

 偏差値信者を生み出したのも昭和だろう。これから高校受験、大学受験しようというところで、学校側が提示している必要偏差値は過去の数値。普通は前年度の偏差値を掲示するんだろうけれども、中には、どうかな、一番良かった時期の偏差値を示している学校もあったりなかったり?そこに自分は含まれていないのだから、実質的には当てにならない。

 その偏差値が、これから受験するであろう学生たちの未来を左右することになるとはね。見方を変えればこれも一つのクエストであり、クリアするために必要なレベルを要求されているということなんだろうけれども、そういうことをやってるから諸外国からどんどん追い抜かれているんだろうね。

 似た話で言うと“傾向”がある。よく「こういう人はこういう傾向にある」みたいな話あるでしょ。そういう記事とか読んで、「あ、当たってるわ」とか言ってる人たちって自分のことをちゃんと客観視する気があるんだろうかと思ってしまう。まぁ、占いが好きな人もいるから一概に否定はできないんだけれども、そんなものを頼りに人生を生きようとするのはちょっと、いや、だいぶ人生捨ててるなって思う。

 すごく失礼なことを言うと、この世界に神は存在しないし、サンタクロースも作られたもので存在しているとは言い難いし、願掛けとか初詣に行って勝利や成功を祈る信仰心はあまりに自己都合感が際立つ慣習でしかないなって思う。すごくつまらない見方しかできない私の人格にも問題はあるのかもしれないけれども、いや、あるんだろうね。

 人々を幸福に導く神が存在するなら、自然災害で何万人も命を落としてないって話。こういう話をすると「祈るということに意味があるんだ!祈りたいから祈るんだ!祈って何が悪い!」と言い出す人たちがいるけれども、それは至極もっともな話で否定する気はないんだよ。

 祈るという行為が人間らしさでもあるというのはわかる、なんとなくね。でも、祈ることで世界平和が訪れるなら戦争はなぜ起こるのかという話に至る。こういう理屈をこねると嫌われるんだよね、どうも、私のいけないところだとはわかっているんだが。

 十人十色の話に関係するけれども、時代が変われば、人々が体験することも、遭遇する幸不幸も、考え方も、いろんな影響を受けて変わっていく。学説はあくまでも参考文献であり、絶対ではないことがまず大前提に立っていて、それを如何にかみ砕いて現在と照らし合わせながら理解するかが論文の解釈方法だと思う。

 未来が過去の延長であるならば、想定外のことは起こらないだろうというのが論理として成立するはずだけれども、統計も分析も傾向も、すべて過去のデータを基にしているわけで、未来予測を確証するものではない。そこを勘違いすると、国や企業も読み間違える。

 メンタリストDaiGoさんの活動を批判するつもりはない。ただ、彼が収益源としているDラボや書籍が億単位の月収になっていることは称賛に値しつつも、彼が様々な海外大学教授の論文を参考に彼が展開する見識を鵜呑みにするのはどうかなと疑問に思うところがある。

 さっきの偏差値の話にも通ずるけれども、海外で行われた数千人を対象にした大規模な実証実験の分析結果はこうでこうでこうで・・・と語ったあとに彼の見識を展開するわけだけれども、その実証実験に日本人は果たして何割含まれていたのか、と考えるとゼロなんだよね、大抵の場合(詳しくは知らないけれども)。

 その上で、年齢や性別ごとの分析結果を割り出したところで、それが日本人向けの発信内容となっている時点で、「人ってこういう時はこういう傾向にあるんですよね~」的な話を聴いていて「ふーん、そうなんだー」と納得してしまうのは、やっぱりなんか疑問。

 ほら、キャッシュレス決済が一時期日本で話題沸騰したけれども、今はどうかな。今もキャッシュレス事業者はあれこれと還元策を打ってるけれども、正直日本国内では厳しい結果に終わることが元々わかってるんだよね。高齢者が多い日本での普及も、加盟店の継続利用も有償化で減少しているわけで、期待したほどうまくいってないのが現実。

 じゃあなんで中国では95%以上のシェアを維持しているのかというと、簡単に言うと中国だから。アリババのアリペイに関して言うと、アリペイにチャージしておくと年率3%が還元されるってことで、銀行口座に預けていた預金をアリペイにブチ込んだユーザー多数っていう強引なキャンペーンを実施したとかで、初めからリピートユーザーを大量に確保したって話。だから、加盟店も有償化したとしてももう辞められない状況になったってわけだ。

 日本と中国ではキャッシュレス化する初めの段階で全く違う施策だったということと、政府共同施策の点においても圧倒的に力の入れ方が違い、元より日本ではクレジットカード利用者比率が7割以上という現実も相まってそれが障壁になったためQRコード決済の普及速度が鈍かった、ということらしい。

 キャッシュレス事業者だってある程度の収益を目論んで時代の潮流に乗ったはずだし、ちゃんとデータ分析や海外のキャッシュレス事情も調査した上で踏み切ったはず。でもそれは、同じく、海外の事情であることと過去の分析データである。海外でうまくいっていることが日本ではうまくいかないことの一つがキャッシュレス化だったんだよね。

 地方銀行も始めたりしたでしょう?でも、結局赤字から脱却できずに撤退した地銀や信金が・・・という結果。そもそも、マルチに収益を上げられないのなら生き残れないばかりか即赤字っていうね。結局1~2年で飽和してECサイトやってる4大キャリアが市場を牛耳ることになっている。

 それよりも、仮想通貨の共通貨幣化が現実味を帯びてきていることには驚きを隠せない。貨幣の概念がこの数十年で転々と変化してきて、若干気後れし始めているような状況。でも、あんまり興味がないんだよね。

 前例がないものが市場にドンと登場すると、やっぱり抵抗感は否めないけれども、知っておく分には問題ないと思う。ウクライナ情勢でも大きなダメージは受けてないようだし、外資が流れ込んできているせいで価格が高騰しているのもあって、正直信じがたい有様。おそらくは仮想通貨が一時的な資金の避難場所になっているとも言える。そうじゃないと円安は加速してないからね。

 統計や分析データを頼るよりは、リアルタイムの情報に特化して物事を知っていくほうがいいね。

【4】外の世界を知り、鳥籠の内部改修を

 進撃の巨人(※ネタバレあり)は、私にとっても非常に考えさせられる作品で、もう何回観たかわからないほど観ている。これほどシーズン1から仕掛けられた伏線回収がうまいアニメはなかなかお目にかかれない。

 謂わば、この作品は「海に囲まれた日本」をパラディー島に見立てて捉えることもできるわけよね。人類を守るために、人々の生活を良くしていくために尽力している国会議員をウォールシーナ内の政府官僚や兵団組織に見立てて、外の世界の実情をあまり知らない、世界から見た自国の実情を知らない平和ボケした民を日本人に見立て、日本人が戦うべきはどんな存在なのか?と置き替えてみる。

 では、ジークの脊髄液を何に置き換えるか。これはまさに「既得権益」でしょう。アニメ内では王政府のあるウォール・シーナの主に憲兵団と駐屯兵団の上官以上が飲めるという希少なワインに仕込まれていた。そして、既得権益を貪った国会議員や国家公務員や地方公務員、市議会議員や市町職員は、ジークの叫び(クーデター)によって汚職が明るみになり巨人(囚人)になる・・・とする。

 「今、私たち日本国民は国と戦うべきだ」と、進撃の巨人は訴えかけているような気がするのである。でも、真正面からクーデターを起こしたところで逮捕されるのが落ちなので、そんなことをする国民はいないだろう。

 ただ、私たちは、知らず知らずのうちに海外から何かを搾取され続けて今に至っている。一概に資金だけとも限らない。情報かもしれないし、人材かもしれないし、機会かもしれない。

 そうしてあらゆるものを奪われ続けた結果、日本が安い国となり、土地や企業や“優秀な人材”を中国に買われているという現実がある。また出てきたね、優秀な人材。

 ここでもう一度考えてみようじゃないか。優秀であるということは高額報酬で買われるという機会に繋がるわけだけれども、奪われるのは人材というよりは、その人の能力や技術に留まらず、日本に関連するあらゆる情報もセット。

 国会議員だって買われているというじゃないか。国防の観点から言えば、日本はすでに中国に筒抜け状態になっているのではないかという疑念を抱いてしまう。某与党は親中派ということも相まって、その現実味に疑う余地は無さそう。進撃の巨人で言うところの「名誉マーレ人(実際はパラディー島の民と同じ人種のエルディア人)」ということだ。

 もしかすると、私たち日本人は、壁の外のことを、海の向こうのことを、まだ何も知らないのかもしれない。もしくは、知った気になっているのかもしれない。日本人からすれば、なぜ未だに戦争が起きているのかすらもわからず、ただ反戦の声を叫ぶに留まっているだけなのかもしれない。

 「この100年、何も起きてない。そりゃー巨人が攻めてくるとなりゃーそん時はオレだって戦うぜ?でもよ、こうしてオレたち兵士が毎日酒をかっ食らっているほうがみんな平和なんだぜ?」

・・・という、駐屯兵団のハンネスの同僚のセリフが蘇る。これを日本に置き換えれば、

 「戦後77年、日本は戦争に参加していないのだから、戦後100年まで何も起きないんじゃないか?そりゃーある日突然隣国がミサイル飛ばしてきた日にはオレたち自衛隊が戦うぜ?」

となる。でも、昨今の世界情勢を見る限り、日本における平和安全の限界点は徐々に迫りつつあるような気もする。向こう数十年も日本が戦争に巻き込まれないという保証は元々ない。そうなれば非核三原則も憲法第9条も効力を失うことになる。

 もう私たちは、海外で起きているリアルな紛争や戦争を他人事として見ていてはいけないのだということを認識しておかなくてはならない。今回の侵攻はそういう意味での警告でもあろう。

 もし仮に有事が起きた時、日本政府が暴挙に出るようなら、国民総出で政府と戦わなくてはならないというメッセージ性は、進撃の巨人の3つの壁が崩壊し、ジークの叫びによって巨人化したエルディアの兵士殲滅にリンクしているような印象が強い。

 かつては日本のために尽くしてきた国会議員や国家公務員たちとも戦わなければならないとなると、大して武器を持たない国民に抗うすべがあるのかどうかは甚だ疑問である。

 進撃の巨人は、有事の可能性を含む未来を見据えた傑作であると私は思う。どんなに被害を受けようとも、海の向こう側にいるすべての敵を虐殺しようとすることは決して許されないということも明示されている。エレンみたいな暴挙に出る存在が、この世界に居ないことを願う。

 思えば、アニメ作品は、近現代の歴史を別の表現に置き換えて後世されているものが目立つね。そう言えば、高校の現代文探究という科目に鬼滅の刃が掲載されているとかいう話があったな。勉強が楽しくなりそうだ。

【5】人がやりたいことを優劣でしか見られない社会

 事の発端は何と言っても旧態依然とした学校教育。少なくとも私はそう思っている。

 中学時代に、粘土工作で自分の好きなものを自由に形作る時間があったんだけれども、その時私が作ったのは鹿だった。図書室から借りてきた動物図鑑を見ながら、全体のフォルムはもちろん、四肢の筋肉の隆起、顔のパーツや角など、我ながらうまく再現できたと思っていたんだが・・・。

 数日後の美術の時間に美術室を訪れると、ものの見事に潰されていた。およそ誰がやったかもわかっていたけれども、いちいち騒ぎにはしなかった。そういう人間が存在すること自体、私にとっては少しも珍しいことではないとわかっていたからだ。

 人の中には、同じ時に、周りと同じことをやっていて、他者より劣るとわかった瞬間から、目の前のことに集中できなくなったり、嫉妬心や劣等感から上記のようなことをする人間もいる。自分がそういう嫌がらせをされた時というのは、落ち込んだり泣いたりすれば相手の思うツボで、逆に「相手が自分の作品を認めたのだ」と思えばいい。

 こういうことは、学校だけではなく、会社で働くようになってからも社内で似たような嫌がらせを受けるなんてことも普通にある。どうして良い年した大人がそういうことをするのか。その答えは簡単明瞭で、社会に出るまでの学校教育やその環境の影響を多分に受けて社会に出て行った大人たちが会社にいるからに他ならない。

 今この時代においても様々な種類のハラスメントが社会問題化しているのは、競争社会ゆえの弊害でもあることは言うに及ばない。実力社会とも言い換えることはできるけれども、同じ環境に自分に勝る人間がいて、なおかつその人物のことが気に入らないなど様々なヘイトが積み重なると、嫌がらせをして憂さ晴らしをしようなどと考える人間は、残念ながらどこに行ってもいるもの。

 そして、そのことがさも当然のことのように「社会は厳しいぞ」なんて中年のおじさんおばさんが意気揚々と説教を垂れたりする。どうして前提を疑わないのか甚だ疑問でしかない。社会は厳しいものだというその認識はどこから湧いたのか。きっと多くの人間たちが考えもしないことかもしれない。

 でも、現実には、そういう反吐が出るような環境の犠牲になっている人たちが後を絶たない。これは、コンプライアンスで規制で解消する問題ではないのだ。法律同様に、事が明るみになって初めて制裁や罰則を与えるためのものであって、被害者側が声を上げたり周囲の人間たちがそういうことを防ぐような秩序が存在しない限り、いつでも起こりうるのが職場でのハラスメント。

 結果、被害を受けた側の人たちは、働くことへの意欲を削がれ、最悪のケースでは精神を患ってしまうことになる。これは、転職をすればいいという単純な話ではなく、生涯引きずる問題と化す。政府が働き方改革などということを政策として打ち出したあとも止むことはない。

 コロナ禍においてはむしろ悪化してしまっている。誰もが働くということにこれまでの何倍ものストレスを抱えながら働いている。多少給料が増えたりインセンティブがもらえたりしたとしても、職場環境が悪化している状態では毎週月曜日が鬱陶しく感じるなんていう比ではないほどのストレスだろうと思う。

 「人生とはそういうものだ」「組織とはそういうものだ」ということしか言えなくなった人は、それまで自身が経験してきたことがすべてで、自分が培ってきた価値観を否定されたくないからこそ、「オレたちの世代もそうやって苦しい思いをしてきたのだからお前たちもやるのは当然のことだろう」と訳の分からない屁理屈を言うのが当たり前になっている。そのことに彼らは気付いていない。

 彼らがそういう思考に染まったのは、間違いなく古い体制の学校教育のせいだろうと思う。先輩たちがやってきたことなんだから下級生もやるのは当然だ、と。

 基本的に、誰もがやりたがらないことこそ、それをやり続けてきた人間たちは改善しようとはしない。もっと楽な方法がないか、場合によってはやらなくてよくなるんじゃないか、そういうことを積極的に考えるべき人たちが下の人間たちに押し付けて卒業していくのが学校である。部活の上下関係でもよく聞く話ではある。

 風通しのいい組織ってどんな環境のことを言うんだろうね。進撃の巨人でも「組織が大きくなればなるほど統制するのは難しくなる」という意味のセリフがあった。上意下達(じょういげだつ)は組織においては当たり前のことで、よく“トップダウン”という表現をされるけれども、あくまでもこれは会社組織としての指示系統の一つであって、この意味を履き違えて理解している人たちがやたらと多いという不思議。

 係長、課長、部長、チーフ、マネージャーなどなど、様々なポジションがあるけれども、そのポジションに就いた途端、部下に対する態度が一変する人を見たことがあるだろうか。残念なことに、そういう人は「会社から認めてもらえた」「偉くなった」と勘違いしている人たちで、実際には「その人がそのポジションで能力を発揮してくれるかどうかを試している」と認識するのが正しいと言える。

 さらに言うと、今では廃止している企業が増えた「年功序列制」では、社歴が長くなればなるほど上のポストを与えられるわけだが、その流れで人の上に立った人間たちの多くは、大して仕事もせずに偉そうにしているオジサンやオバサンで、数十年かけて全国のあらゆる企業組織に蔓延った。

 後から入社してきたすべての人材は、酒の場で上司に関する愚痴を言ってないとやってられないというのが、いつの間にか誰もが日本では当たり前の慣習であるかのような認識をするようになっていった。そして、酒の場で漏らした上司への愚痴をリークされて居場所を無くす人たちも多くいただろう。会社の外でのこととはいえ、結果的にそんなことになるくらいなら会社の人間とは飲みに行かないほうがいい、というのが現代の認識だ。

 人間関係や人脈は、自身の欲するところでやればいいのであって、仕事に影響したり円滑に出世するために会社の人間と飲みに行くというのはナンセンスで、事、このコロナ禍においてはいよいよ消え去る慣習となるであろうことを願う。嫌なら行かなければいい。

 社会人たるもの、演じるのが当たり前で、自分を殺してでも同僚や上司の顔色を窺え、などという悪しき慣習は会社の生産性を下げるだけである。

 そんなことよりも、仕事してれば誰だって目につくことがあるはずで、効率の悪い習慣を排除したり、それに代替できる方法を考えて試したりすることをアグレッシブにやればいい。大方、声を挙げた人間が後ろ指を刺されたり叩かれたりすることを恐れて、右に倣えで言わない人がほとんどだろうけれども、それができない企業は悪習を辞められずにどんどん職場環境を悪化させていく。

 やりたいことをやった人間が失敗した時に、「それみたことか!やっぱり失敗した!」とバカにして嘲笑するのではなく、どうして失敗したか、次はどうしようか、そういうことを受容し合う職場環境になれば意見もいいやすくなるだろう。

 かつて、自動車部品メーカーにいた時に、とある部署の人間が交通加害事故を起こすと、その職場では、事故を起こした当事者とその人と同じ部署の全員が、ペナルティーとして一週間、毎朝職場近くの交差点で交通安全の幟旗を持って30分交通安全活動をする・・・ということをしていて、私が所属していた部署でも、定年間近の男性社員が2度も交通事故を起こし、私もペナルティーをやることに。

 そして、この何の意味もないペナルティーについて私は声を挙げ、辞めるように提言し、その後、職場ではそのペナルティーを一切やらなくなった。提言した理由は至極単純で、そもそも部署全員にペナルティーを課す意味の無さ、このペナルティーを何度受けたとしても全従業員が交通事故を起こさないとは限らず、朝の貴重な時間を何の生産性もないことに費やすのは職場にとってマイナスでしかないといったことをハッキリ伝えたのだ。

 もちろん、言えば何でも変えられるというわけではない。言い方は慎重にしなければならないし、感情抜きにしてあくまでもまっとうな正論でなければならない。これは一例に過ぎないのだけれども、ところ変わればなんとやらで、どこに行ってもおかしな慣習は存在する。

 みんな自分が大事で、自分の立場や居場所が危ぶまれるのは避けたいのだろう。しかし、言わずに不満を溜め込み続ければ、自ずとそこで働くことが嫌になり、挙句、毎月の給料をもらうためだけの場所にしかなっていかない。目を覚まして、自分たちが働く場所を良くしていくためのアクションを今どこの企業もやっていかないといけない。

◆競争社会が生み出したものと失ったもの

【1】維持していくことの苦痛

 バブル期を迎え、バブル崩壊に至る、といったことを日本は何度か経験している。高度経済成長期は不動産バブル、インターネットが普及した頃にはITバブルや株式のバブルも経験している。細かいところで言うと転売バブルもあったし、1980年~2000年はミュージシャンバブルだったとも言える。

 バブルと言うと泡だけれども、私はこの一連のバブルを“風船”に例えることのほうが適していると考えている。皆さんも一度はゴム風船を膨らませたことはあると思う。新品のゴム風船は、小さい頃、最初膨らませる時が大変で顔を赤くするくらい息を吹き込まないと膨らまなかったのを覚えているだろう。

 そして、大きく膨らませた風船の空気を抜くと、新品のゴム風船より伸びてしわしわになって萎むし、さらに息を吹き込むと音を立てて破裂する。長期景気低迷をしている日本は、高度経済成長期に思いっ切り膨らませた風船の空気が徐々に萎んでいく過程に非常に近い状態であると私は見ている。

 人口が減り、人口全体の平均年齢が高齢化し、現在では50歳前後。当然、労働力は徐々に失われていき、若者たちの一人当たりの負担ばかりが増しているといった状態で、一人当たりのGDPも減少傾向にある。

 好景気の時に全国に普及したあらゆるインフラは、近年では老朽化があちこちで進んでいて、修繕に手が回りきっていないような状態。電子機器に関しては代替部品がないなどといったことも当然これから起こりうる話。

 どこかの国が戦争を起こすと、物流や貿易に大きく影響し、海外から必要な部品の調達ができなくなるといったことも起きていて、自動車メーカーでは車種によっては生産停止になっているものもあるとかで、再開の目途が立っていない。

 あぁ、社会というのは現代でさえも脆いのだな、ということを誰もが実感していると思う。先日、うまい棒というお菓子が値上げされて税抜き10円から12円になったということは、ネットニュースになるほど衝撃的なことなのかもしれない。メーカーも物流にかかる費用が増した結果、苦渋の選択を迫られたのだろう。

 人口減少については、あと28年くらいかけてまだまだ進行していくと予想されているため、あらゆるものを維持することがこれから益々厳しい社会になっていくことも懸念される。維持することを断念せざるを得ないことも出てくるだろう。

 地方の郵便局員の話を聴く限り、50名以下の集落で一人暮らしの80代90代の老人しか住んでいないような場所のために局員が配置されているという現状には何とも現代らしい問題であると感じる。そこに郵便物を配達するために通る橋が老朽化したとしても、その集落のために修繕をしなければならない国土交通省や道路公団は今、全国的にそういう問題を抱えているに違いない。

 国家としても維持していくことが難しいこうした問題は、いずれ解決するとわかっていても、何もしないわけにはいかない。どんな奥地の集落でも、現状は維持しなければならない。考えられているのは、そうした集落に住む人たちへ転居してもらって、公的サービスが受けやすい環境で生活してもらうということ。

 ところがどっこい、ご老人たちというのは、先祖代々受け継がれてきた家や土地を守らなければならないと言って頑として役所の人間たちの言葉に耳を貸さないのだと。

 何やら、実家の山々が次々とハゲ山になっているということを聞いたけれども、木材とか土地開発がどうのこうのという話ではなく、実はすでに地方に住む老人たちへのアプローチは始まっているのかもしれない。役所の人間の話に耳を貸さないのであれば、間接的にそうした集落を一時的にでも住めない環境へと変えてしまって、転居の意思を強める狙いでもあるような印象を受ける。

 うちの両親も一切応じる気はないだろう。山と田んぼしかないような田舎で、まさに50名以下の集落。あの地域一帯が国有化される前に判断すればいいが、どうなることやら。そんなに遠い未来の話ではない。

 伝統とか先祖代々のあれこれとか、残していかなくてはならないものとそうでないものとは、時代の変化によってあっさりと振り分けられ、そうでないものは切って捨てることになる。これからの日本が「維持していくことの苦痛」を軽減するには、維持しなくていいものを早めに捨て去ること以外に方法はないように思われる。

【2】競争社会にしたのは人口増加世代

 現代でも「実力主義」をベースにした社会が継続しているけれども、これは必要性に準じているわけではなく、過去に人口増加世代がそのような社会にした延長線上に続いている思想というだけのこと(だと私は思っている)。

 極端な話、国の人口がこれからも減り続けて7000万人程度になったとして、1億2000万人の社会で繰り広げられていたあらゆる競争と同等の競争力を維持できるかというと、決してそんなことはない。2055年頃には8000万人台まで減少していくことが予測されている(厚労省データ推計より)けれども、今から33%前後も人口が減っていくことを考えれば、競争よりも「共存すること」のほうが社会をより持続可能にしていくと考えられる。

 では、“共存すること”とはどういうことか。これまでのように、勝者や成功者が多くを牛耳る実力社会ではなくなっていくということを理解した上で、どの分野においても優劣で振り分けるのではなく、人もモノも機会も「活かす方向性」が求められる社会。それが共存することであり、排他的な考え方を上書きする社会になっていくことが理想的ではある。

【3】“優秀な人間”の再定義

 日々、ネットニュースを見ていると目にするのは、有名人、芸能人、タレント、俳優、歌手、アイドル、国会議員、警察官、自衛隊員、弁護士、実に様々な肩書をもった人物の事件や不祥事などが報じられている。

 一番直近での報道で目にしたのは、愛知県弁護士会に登録されている岡崎市の某弁護士事務所の弁護士が、訴状の提出期限に間に合わせたように装うために書類を偽装したとのことで、私文書偽造の容疑で書類送検されたというニュースだった。

 弁護士といえば、言わずと知れた国家資格であり、取得するには並々ならぬ努力を要するばかりか、弁護士業務が始まってからも多忙を極める職業であるわけだが、様々な事情があるとはいえ、優秀であろう某弁護士でも業務が多すぎて手が回らなくなり、処理しきれなくなるという事態が起こるのだということがわかる。

 起業家として年収何十億も稼ぐ人物についていえば、会社を作っては売却するといったことを繰り返す能力がある、おそらくは優秀な人物なのかもしれないけれども、なんでも金融商品取引法改正によって旨味が目減りしたとかで、日本ではもうやっていけないとごねている人たちが増えているとかいう話がある。

 今、日本は富裕層の海外流出が懸念されており、新しい産業も生まれにくく、人口減少に伴う労働力の減少も相まって、経済力がどんどん失われつつある。日本にも優秀な人物は多く存在するはずなのに、低賃金で働くことになった国民は、これまで以上に「働くことへの意欲」を維持できなくなってきている。

 こういう社会では、仮に実力のある若者でも、能力を最大限に発揮し、これに見合う報酬を得る機会も同時に失われつつあるということが言える。それで言えば、まだ外資系企業で働くほうがチャンスは幅広く用意されているかもしれないけれども、旧態依然とした日本企業では外資系企業には遠く及ばないばかりか、むしろ取り残された挙句倒産していくことも十分に起こり得る。

 働くこと、それ一つ取って考えてみても、昭和や平成の時代と比べて何倍も難易度は跳ね上がったということは、きっと多くの人たちが体感しているに違いない。それでも、目先の生活のために毎月の給料をもらいに行くしかないのだと会社にしがみついている。

 人口減少が底を打つ2060年頃から、きっと日本も経済再生していくことだろうと思うけれども、それまでの38年間、この過渡期こそ想像を絶する痛みを伴うことになるかもしれない。

 少し話は逸れるが、最近YouTubeでは「素人同士の格闘技?」のようなイベントを開催しているようだけれども、いよいよ競争社会も末期を迎えているのではないかと思えてならない。ヘッドギアを身に着けてやるならまだしも、グローブのみでの殴り合いで血だらけになっている素人同士の喧嘩。素人が下手な真似をすると死人が出てもおかしくはない。ただ血の気の多い者であるのならば、本来はやってはならないもの。社会問題化しないほうがおかしい。

 ハッキリ言って、現代はすでに、資本主義社会の終わりに直面しているとも言える。どんなに大金を稼いだとしても、人が生活する上で必要な物事以外にかけることはない気がする。高級なワインを飲むわけでもなく、高級なコース料理を食べるわけでもなく、高級車や豪邸を購入するわけでもない。元より、金持ちだからと言って必要に迫られるものではなく、有形無形の財産に置き換える作業にしかならない。

 高度経済成長期には財が最も活かされた時期だったことはわかるけれども、長期景気低迷している日本では、財が活かされるべきところに投下されていないために、経済成長は足踏みしているどころかジリジリと後退している。

 本当に“優秀な人間”は、今の日本が抱えている「経済成長の障壁となっているあらゆる問題」を劇的に解消するか、別の新しい何かでアップデートできる人たちのことだろうと思う。再定義するならそういう意味として捉えてしかるべき。

 そこそこの実績で手に入れた地位や名誉に欲をかいて悪さをしている“自称優秀な人間”みたいな人たちが、この日本にはあまりに多く蔓延ってしまったのは現実のことだろう。そういう人間たちが手にした大金が、この国のために活用されるとは到底思えない。

 もうこの日本では、優秀な人間でさえ悪事に手を染める可能性だって年々高まっている。それも若い世代の間でだ。特殊詐欺グループは、失敗を重ねつつ、確実に累計の被害総額を上積みしている。受け子が何人逮捕されようと首謀者は毎日のんきに金勘定をしているに違いない。

 そうこうしていると、国民を守るための自衛隊や警察官までもがいろんな事件を起こす。よくよく観察していないと、日本の治安や社会秩序がどれほど悪化しているかを見逃すことになってしまう。

 優秀であるということがその人のすべてを称賛するに値するとは限らない。現在どんなポジションでどれほどの実績を積み重ねていようと、ちょっとしたことから出世街道やエリートコースから転げ落ちる場合がある。人間である以上、死ぬまで確実なものなど何一つ存在しない。そのことを、実に多くの人たちが証明している。

【4】競争社会が失ったもの

 残念ながら、日本社会は様々な分野で飽和した。もうそれ以上の成長は見込めない、そういう分野や産業しか残っていない。聞くところによると、世界初の次世代半導体が日本で開発されたとかいう話があるらしい。これがどんなふうに展開されるのかは興味を惹かれるところではある。独禁法がある以上、同業他社の参入は当然あるだろう。また競争だ。

 人々の生活が1995年当時から劇的に変化して27年が経った今、多くの人たちが感じていることとして「便利を追求した結果生じた不便」が挙げられる。アカウントを要するサイトやアプリでは、ログインIDやパスワード、同期するメールアドレスなどといったセキュリティー対策への強制参加が常態化し、非常に面倒になったと感じさせられる。

 指紋や顔認証といった生体認証ともなるともうついて行けない、わかる人に設定してもらわないと何が何だかわからない、というのが現状の高齢の端末利用者に起きていること。ついて行けない人たちにとってはこれほど不便なものはないだろうと思うし、使う度に煩わしさを感じるだろう。

 社会全体が便利の追究を繰り返した結果、日本社会で巻き起こったのは、「再利用」「リサイクル」「分別文化」といったもの。これは、一つの産業として捉えられるのかどうかは疑問だけれども、事、プラスチックに関して言えば、便利であるがゆえに国内のゴミが激増することになり、脱炭素がどうのこうのと言われる何十年も前からこうなることはわかっていたのではなかろうか。

 元より日本は資源大国ではないため、海外からの石油の輸入に頼っている以上、もっと前から考えておく必要があったはずで、ペットボトルや容器やトレー、ビニール袋、生活雑貨品など、今思えば作りすぎてしまったのだなとわかる。100均ショップに並んでいるものの多くはほとんどプラスチック材のため、現在のウクライナ情勢下では日本から100均がなくなってしまうのではないかとまで囁かれている。

 100均は100均なのだから安易に値上げするわけにはいかない。しかしながら、輸送費やメーカーの原材料の仕入れ価格の上昇などを鑑みれば、本来は商品の本体価格を引き上げるのが筋で、何とも悩ましいジレンマを100均業界は抱えているのである。非常に便利な100均が日本から消えると、事件レベルで騒がれることになるだろう。

 アニメ「ワンピース」に出てくるジンベイが、仲間を失ったルフィに「失ったものばかり数えるな!お前には何がある!?」と言っているシーンがある。ちょっと全然文脈とは関係ないような気もするけれども、これから日本が失っていくものは、これまで当たり前のように生活の一部になっていたものも含まれるのではないか、ということを私は懸念している。

 時代の変化と共に、モノや仕組みだけではなく、これまで当たり前だったルールや常識さえも、ことごとく不要論というフィルターにかけられていく。直近では某高校のブラック校則が廃止される動きが報じられていたけれども、こんなものは氷山の一角に過ぎない。

 実に多くの物事が昭和の時に作られたもので、未だに昭和的な考え方から脱却できない人たちも少なくない。でも、それではこれから日本が迎える変化には絶対的に気後れすることになるだけで、何としてでも日本は昭和的思想から完全に脱却していかなくてはならない。

 不要論を提言すると批判が集まることは多々あるだろうけれども、大多数の人々がそこに理解を示せるようになれば、きっと社会は失ったもの、失っていくものよりも、不要論によって身軽になった社会、動きやすくなった社会で、この時代ならではの新常識をもたらすことになるかもしれない。

 議論ばかりしていても問題の解決には至らないにしても、やはり議論はしなければならない。失いながらもその時々で具体的な指針を持てるようであれば社会は疲弊などしない。

 正直なところ、今は誰もが希望を失いかけている。いや、むしろ、失ってしまっている人もいるかもしれない。これほど先が見えない状況に直面するとも思っていなかっただろうからね。

 実際ね、これまで当たり前だった競争社会は、競争する場所と機会をすでに失ってしまったのだと思う。だからこそ、素人同士の喧嘩バトルをやろうなんて話にまでなっているんだと思う。本当に競争社会の末期だなって感じてしまう。

【5】素人、下手、不器用の再定義

 競争社会では、能力や実力の優劣を人間の感覚によって誰が策定したかもイマイチよくわからない基準で、「素人より玄人」「下手より上手」「不器用より器用」を優遇してきた。その結果、人ひとりの個性を特に組織内において殺し続けてきたのではなかろうか。

 今こうして私が文章作成している内容も、決して称賛されるほどの物ではない。少なくとも私自身がそう思っている。コタツ記事とはそういうものだと自覚しているのもあって、上手に書こうなどとは考えていない。ただひたすら思考の回転に任せて指を動かしているに過ぎないのだから。

 イェール大学の准教授である成田さんについては皆さんもよくご存じかもしれない。彼はAbemaPrimeという番組でインパクトのある提言をする人物。彼曰く、優秀な人材とそうでない人材をごちゃまぜにして、あたかも格差がどうのこうのと不毛な議論をすること自体が無駄である、といったようなことを話していたことがある。

 これは至極ごもっともで、私も賛同する考え。というのも、人は比べられて当然で、劣る側の人たちは劣等感を感じても劣っているのだから仕方ないというのが競争社会の思想。では、劣等感を感じることなくやりたいことに没頭できる社会にするためにはどうすればいいかというと、彼が言うには「優秀な人とそうではない人を敢えて住み分けて分断させることで格差がどうのと騒ぐ不毛な議論を無くすことが必要だ」という考え方がベターだということ。

 素人で、下手で、不器用でも、本人が好きでやること、楽しくてやることを排除するのではなく、共通する趣味趣向を持つ人たちのコミュニティー内で生産性を模索することができれば、これはこれで予想できない商品・サービス・コンテンツが生まれる機会になる可能性、これ自体は否定できないのではないかと私は思っている。

 そういう環境であれば、劣等感を感じることはないし、これまでとは別次元の高い自由度の中で、人ひとりの個性が最大限に発揮されるようになるのではないかと思う、別に素人でいい、下手でいい、不器用でいい、やってみればいい、そういう受容感で「優秀や上手に依存しない」=「文化の再構築」さえも実現できるのではないかと考えても全然ありだと思うんだよね。

 どうしても優劣で比較する前提だと、劣る側は下に見られるわけで、時には上も下も関係ないことですらもマウントの取り合いをするのが人間だったりする。例えば、持っているバッグや財布のブランド品の購入金額ね。港区女子がよくやってそうなマウントの取り合いほどくだらないものはない。言うに及ばないけれども、敢えて言うとだね、お金を支払って手に入れたものは、私有している人がすごいのではなく、それを生み出し、作り、世の中に提供している人たちがすごいんだよって話。

 やっと私有価値を問う時代になって私はホッとしている。小さい頃なんかよくあっただろう。「みんな持ってるから買って!」と駄々をこねる子供たち。流行りに乗り遅れると友達から嫌われるみたいな変な概念。最近の子供たちはどうなんだか知らないけれども、私有すること自体には価値はないってことを教育しておいたほうがいいね。

 これからの若い世代の人たちには、素人であろうと、下手であろうと、不器用であろうと、劣等感なんか気にせずやりたいならやればいいって考えられる環境を社会構造に組み込んであげられたらいいね。ホント、昭和的思想は、言い方悪いけど調子に乗りすぎなんだよね。優劣がすべてみたいな社会は、表向きには誰も言わないけど、差別を生む発端でしかなかったじゃんね。

◆不能の要因/心のままに・・・

 最後に、「“不能の要因”とはなんぞや?」ということについて考えたい。

 バレーアニメ「ハイキュー」で、星海光来という159cmの小柄なオールラウンダー選手が記者のインタビューにこう答えている。

「小さいことはバレーボールに不利な要因であっても、不能の要因ではない!!」

 「身長が低い=バレーボールに不利」という考え方の親だった場合、「お前は身長が低いんだからバレーボールなんかやっても仕方ないだろう」などと親の屁理屈を言うのかもしれない。

 仮に、星海選手の親がそういう親だったとしたら、彼は全国に名を馳せることはなかったに違いない。

 どんなに小さな子供でも、本人の胸のうちから湧き上がってきたことは必ず尊重してあげるべきで、それができなければその子の未来を捻じ曲げることになる。

 「人には向き不向きがある」というのも確か。向いていないことを強いることはもちろん、向いているであろうことをさせないことも、結局はその子の将来のためにならないし、自分から心を燃やそうとはしない。

 仮に、きっかけを与える意味でやらせてみたとしても、都度、その子の意思を確認してあげるくらいでないといけない。

 よく聞くでしょ、「一度始めたことは最後までやり通せ」と。この精神論もいかにも昭和的で今となっては鬱陶しい。そんなことを言われなくても、本人が自らやりたいと言い出したことは、本人が辞めるまでやらせればいいし、辞めたことを咎めてもいけないんだよ。

 たった一度の人生、どうせなら心のままにやりたいことをやりたいじゃん?子供がやりたいと言い出したことをいちいち「将来飯が食えるか食えないか」で親のエゴで子の判断を代替するようなことをしてはいけないんだよ。そんなことをすれば、子はいずれ何がしたいとも言わなくなるし、何もしなくなる。

 物心ついた頃から10歳くらいまで、たくさんきっかけを与えてやって、本人の心のうちから湧き上がる好奇心が掴もうとしているものを、素直に親は応援してあげてほしい。そういう親のことを子は裏切るようなことは決してしない。

 私としては本来こうあるべきなんじゃないかと思っているんだけれども、妙な家庭環境で育つ人は思いのほか多いのが現実なんだということを知って残念な気持ちになる。実際自分の親もそういうところがあったものだから、小さいながらに心底ガッカリしたのを今でも覚えている。そういう心の傷は一生残るってことも忘れないでほしいね。

 心のままに生きれば、多少つらくても我慢できるし、頑張れる。人が死に際に後悔することはたった一つ。「人生でやりたかったことができなかったこと」ただそれだけ。

 きっと私も後悔するのかもしれない。これからの人生、何ができるだろうか。それが見つけられずにいる下手で不器用な生き方しかできていないけれども、なるべく後悔しないように生きたいな。


※皆さん、最後まで読んでくださり、誠にありがとうございます。ここ最近で思っていること、感じていることを「心のままに」書いてみました。もしお時間に余裕がありましたらコメントをお待ちしております(・∀・)楽しみにしていますね☆

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