【職場改善note有料マガジン】No.0004・・・「絶つ」という精神力は遠心力
【1】「絶」の語源、漢字を分解してみるとこうなる
会意文字です(糸+刀+卩)。「より糸」の象形と「刀」の象形と「ひざを折る人」の象形から、人がひざを折り、刃物で糸を切る事を意味し、そこから、「中断する」・「たつ」を意味する「絶」という漢字が成り立ちました。(引用サイト:https://okjiten.jp/kanji746.html )
なんでも、「絶」という漢字は小学校5年生で習うらしいが、いつどの漢字を教わったかというのは、大人になれば全く関係のないもので、いつどのタイミングで使うかも個人次第。 でも、漢字の意味や語源、使い方などということは正しく理解しているかどうかが曖昧な部分があることを気付かされる。 それも、文章を書くという習慣があるからこそ。 それに、手書きではなく、パソコンでのタイピングやスマホでのタップ入力に慣れてしまい、変換に頼るようになっているものだから、書き順なんかもテキトーになりがち。
もっと言うと、字もキレイに書くことすら意識しなくなる。 字は書き手の心を映し出すと言われるが、現代社会では書くという動作が生活においてほとんどない人は少なくない。 そして、いざ自分の名前や住所を用紙に書く時に、自分が書く字が汚いことに気付かされる。
世の中は、自分の知らないところでどんどん変化し続けていて、いつの間にか便利に便利になっていっている。 アナログはもちろんのこと、今やデジタルさえも不便だと言われるようになり、果たして人は人工知能の発達による完全自動化さえも実現しようとし、際限なく便利さを追求している。 そこまでする価値があるのかないのか、それは今を生きる人たち、これからの時代を生きていく人たち、それぞれが思いのままに感じ取ることかもしれない。
ただね、ボクは言いたい。 人が人であるが故に大切にしなければならないことは、どんなに時代が変化しようとも忘れてはならないのだ。 と言いつつも、ボクも過去において年末に年賀状を書いたことがどれほどあるかと言えば、数えるほどしかない。 今やその年賀状もインターネットで送れるようになっている。 郵政民営化はこうした時代の変化を見据えてのことだったのだろうかと思えてならない。 国が国営でやってきたものを民営化するということは、それだけ国にとって負担が大きいことの表れでもあるわけだ。 次は水道の民営化が懸念されている。 それが起きた瞬間、外資に食われてこれまでのようなキレイな水道水は流れてこなくなるかもしれない。 水は国民にとって最も重要なライフライン。
【2】絶つべきを絶ち、絶ってはならないものは絶つべきではない、「絶」の真の意味
ちょっと話が横道に逸れてしまったので戻すことにする。 あなたが今、自分を見つめ直すとして、「絶つべきこと」と「絶つべきではないこと」は何かをどれくらい紙に書き出すことができるだろうか。 これはズバリ、あなたの欲求と深く関係がある。 そして、双方をさらに分類するならば、絶つべきことと絶つべきではないことの相違点がある。
例えば、睡眠はどうだろうか。 これはどちらにも当てはまらない共通項と言える。 睡眠を絶てば人は生きていけないし、絶つべきではないことにも属さない。 つまり、睡眠は絶つべきか絶つべきではないかで考える必要のないことに分類される。
言い換えるならば、絶つべきことは「大事ではないこと」であり、絶つべきではないことは「大事なこと」と言える。 ボクにとって「大事ではないこと」は、タバコ、自分を押し殺して他者に合わせて保とうとする人間関係、無駄とわかっていて使ってしまう浪費型の消費、無駄と認識していていたずらに時間を過ごしてしまうこと。
そして、「大事なこと」は、自分と向き合うこと、知ったふうに他者を評価しないこと、本を読むこと、文章を書くこと、画像を編集すること、人の話を聴くこと、考えること、行動すること、他者の言葉に左右されるのではなく自分の頭で考えて決断すること、正しい歩き方をすること、体を鍛えること、健康維持のために摂取するものを定期的に選択して摂ること。 これらは、健康志向と言えば健康志向なのだけれど、体の健康だけではなく、脳や精神の健康も同時に重視していることを示している。
30歳までの間に、「欲に溺れても良い結果には至らない」ということを身をもって体験した結果、今現在の自分が示す「大事なこと」と「大事ではないこと」が上記に当たる。 ここまで明確にしている人がどれだけいるだろうか。 ここまで明確にするために考えている人がどれほどいるだろうか。 そんなことはボクという人間にとっては大して問題ではない。 なぜなら「常に自分がどう在りたいか」というただそれだけのことだからだ。
つまり、「絶」の真の意味とは、これからの人生を生きる上でどんな人間になりたいか、どんな人間で在りたいかを考えるための第一歩として考えるべき「未来への最初の扉」なのである。 可能な限り絶つべきものを絶てば、時間的にも経済的にも精神的にも体力的にも「余裕」を生み出すことができる。 ボクはね、35歳にして現在これに挑戦しているところなんだ。 言わば、「絶欲」「禁欲」を具体化すると同時に実践しているということだ。 誰に言われたからやるのではなく、自分で決断してトライしているんだ。
思いの外、なんとなくではあるが、これまでの自分が欲してきた物事を次々に絶っていくと、心身共に身軽になっていくのがわかる気がするんだ。 そうするとね、ちょっと体が筋肉痛だったりダルかったりしても心地よく感じられたり、空腹や人肌恋しさ、体感としての不快感、精神的ストレス、こういうものを「感じること」で「今を生きていること」を実感できる。 今もっとも効果が現れているのは「禁煙」なのだ。 身体がニコチンを要求している。 この感覚は喫煙者にしかわからないかもしれないが、言わば空腹のような、飢えた感覚だ。
※イスラム教信者は、ラマダーン(またはラマダン、アラビア語: رمضان ペルシア語: 発音:Ramazan )は、 ヒジュラ暦の第9月。この月の日の出から日没までの間、ムスリムの義務の一つ「断食( サウム)」として、飲食を絶つことが行われる。(Wikipediaより引用)
本来の意味では、ラマダーンはイスラム教信者として神アラーへの忠誠心を確かめるために行われている。 ボクはイスラム教信者でもなければどの宗教の信者でもない無宗教家だ。 信じるべきは己自身と心に決めているから。 それでも、この世界中に存在しているあらゆる伝統や風習、年中行事やイベントには、解釈の仕方を変えるだけで多くを学び取ることを可能にするものがある。
食べたいだけ食べて、寝たいだけ寝て、手に入れたいだけ手に入れて、人は真の幸福を感じることができるだろうか。 ボクはこれを断じて否定したい。 時間は限られているし、人生も限られているし、お金も限られているし、できることも限られている。 人間はどんなに自分を満たそうと必死になっても、これまでの欲求を満たせば満たすほど際限なく別の何かを欲するようになる。 それが1つなのか2つなのか、はたまた10以上なのか、欲求の種類が多ければ多いほどだんだんどれも満足に満たせなくなっていく。
恋愛で考えればわかりやすいかもしれない。 日本においては一夫多妻制は認められてはいないものの、結婚した者が愛人を作り、子を作り、離婚やら慰謝料やら裁判やらといった面倒なことになるということは自明の理。 それでも人は辞めない。 「あたしと奥さんとどっちが大切なのよ!!」なんてどの口が言ってるんだか・・・と思ってしまう。 略奪愛や略奪婚なんていうものは、その場の感情だけで選択してしまう行動であって、そこに純粋な愛はないのではないかとボクは考えている。 結局人の人生とは何でもありということが断言できる。
家庭円満とは何か。 結婚する時には誰もがそれを望んだはずなのに、未だに日本の離婚率は世界トップクラス。 何がこの社会現象を招くことに繋がっているかと言えば、それは「社会があまりにも便利になり、誰もが精神的安泰という意味の現実逃避ができるツールや場所が整備されたから」に他ならない。 ここにも高い利便性がドップリと含まれている。 戦時中の日本と比較すれば、なんと贅沢な社会だろうかと思えるものの、それでもなお社会に対して不満や文句を垂れたり、自暴自棄になって無差別に人様の命を殺めてしまったり、死を選択してしまったりする人たちが後を絶たない。 国家としてはまずこれを「絶」つべきではないのか?
国家規模だけでなく、企業、職場においても共通して言えることであり、もっと身近なところで言うならば、家庭においてもしっかりとリンクしていると言える。 時代がどうあれ、社会がどうあれ、いつどんな時も、「何を絶つべきで、何を絶つべきではないのか」ということを考えなくなってしまったら、ただ時間が過ぎて行くし、知らぬ間にいろんなシガラミに巻き付かれて身動きが重く、本当は望んではいない人間関係を作ってしまったり、本当はそこまで欲していないものにお金を遣ったりしてしまうようになる。
やりたいことを列挙するよりも、辞めること、絶つことを並べてみたほうがいいね。 例えば3つの悪習を辞めてしまったとして、それ以降他に何ができるようになるかイメージしてみるのさ。 金額的にいくら浮くのか計算してみてもおもしろいかもね? ボクの場合単純計算しても、タバコと飲料自販機購入だけで毎月2~3万は平気で遣ってた。 一昨年の12月までは車を持ってたんだけど、毎日外食が当たり前だったから、5万6万なんかあっという間に消えてった。 便利さ、楽さ、怠惰な自分にこそお金は無駄にかかるんだなと、改めて思い知らされる。
こうした悪習を一つ一つ辞めるんじゃなくて、一気に辞めるんだ。 そうでなければ変えられない。 人間には甘えもあるし、都合よく解釈して「まぁ、今日くらいいっか♬」とか言っちゃって辞められない人が大半。 挑戦すべきはココなんだよね。 一気に辞めるか否か。 人間ね、悪習を絶ったからといってそのまんまってことは絶対にあり得ないんだよね。 悪習を辞める代わりに、自分に褒美を与えたくなる。 価値ある、意義ある褒美をね。 その時初めて自分が変わるんじゃないかなってボクは思う。
今までの人生で、やりたかったこと、できなかったこと、やったことがないことをやる、ただそれだけのことで、ライフスタイルは変わる。 一気に絶てば反動が大きくなって逆戻りになるとかいう話はダイエットではよく聞くけど、当然、段階的に辞める方向へ向かっていくというのは重要だ。 「一気に」という意味は、例えば辞める3つのことをそれぞれ段階的に辞めるということだ。 「絶つ」ということは、その先のビジョンまで描かないといけないということ。 それを描かずして単に辞めるというだけでは、完全に絶つことはできない。
実のところそれは「意思の強さ」なんていう漠然としたものが関係しているのではなく、「計画を立てる」そして「結果どうなるか」まで可視化するからこそ行動が伴うようになるんだ。 思ったり、考えたり、言うだけだったりは誰でもできるけれど、何かを辞め新しい何かを始め、その結果どうなりたいかまで鮮明に描ける人はそういない。 ボクは始めから後者の絶ち方を選択して、即実行に移した。 何のことはない、行動さえ切り替えれば辞められる。 思いが強いのは確か。 「このままじゃイヤだ」という思いがね。 誰が見てるからとかそういう理由じゃなくて、自分が自分をどう評価するかが一番重要。
外見だけじゃダメ。 中身が良くても外見がダメでもいけない。 人は内面も外面も両方意識して自分の行動を改めないことにはいつまでも体感できず、いずれ諦めてしまう。 だからボクは、実際の行動を変化させ、「着る服」を変えてみようと思った。 浪費型の消費行動を極限まで抑制して、価値のあるお金の遣い方を普段から意識する。 理屈として、変化を感じる仕組みを作ってその上をグルグル回ればいい。 PDCAで悪習を浄化するイメージだね。 誰かがその仕組みを作ってくれるまで待ってても絶対に変わりはしない。 自分でサイクルを作ることくらいできる。 辞めるという決断と行動の変化は、考える頭があればそれを可能にし得る仕組みを作ることもできる。
複数の悪習を同時に辞めるのであれば、複数の良い習慣を同時に始める必要がある。 ただ辞めるだけでは手持無沙汰になって時間が浮いてしまう。 辞めるに足る新しい習慣を詰め込む。 それも厳選してシフトするんだ。 片付けとか掃除の習慣がないと悪習に染まりやすいっていうのはセオリーなんだということに気付かされる。 毎朝、庭先をホウキで掃き掃除している近所のおじさんおばさんの様子を思い浮かべる。 なぜ毎朝掃除するんだ?という疑問はあるけれど、寺のお坊さんはそれが当たり前。 掃除も毎日やるのが当たり前。 おそらく、辞めるべきことは一つもないのだろう。 まぁ確かに、お坊さんにもいろいろいるだろうけれど。
究極の「絶」とは、絶つべきを絶ち、片付けや掃除を習慣化すると同時に良い習慣を継続すること。 片付けや掃除を毎日のライフワークにしてしまえばいい。 片付けや掃除はできないんじゃなくてただやらないだけ。 ボクの現状から言えば、当分ヒマすることはない。 それくらい部屋が散らかってるからね。 ただ片付けや掃除をするってんじゃつまらないから、休日はインテリア関係のお店を眺めに行って、視覚効果も得ようと思っている。 近くに家具屋さんがあるから、今まで一度も行ったことがない分、楽しみでもある。 買う買わないは別として、ただ見に行くだけでも意義がある。
自動で変わるようになるには、最初に何を変えるかが肝心。 今年は挑戦の年だ。 年明けにも宣言したけど(笑) 職場改善をしたければまず自分の改善だ、というお話ね✋・∀・)
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