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<1>キミには何が見える…敵は何だと思う…

ネタバレあり。本テーマは、まだアニメ「進撃の巨人」を観たことがない人、観ている途中の人に向けての投稿ではありません。ですが、興味を持つきっかけにはなるかと思いますので、それでも良ければ読み進めていただけると幸いです。

【1】エレン・イェーガーを読み解く

 この作品は、もう何度視聴したかわからないくらいに何度も観ている。ふと思うこと、疑問に思うこと、いろいろと思考を刺激される要素を含んでいるため、少なくとも10回以上は観ないと見えないこともあると気付かされる。

 まず私が感じたことの一つに、進撃の巨人という作品は「ただ面白い作品ではない」ということ。小さい頃から見てきたアニメ、読んできた漫画で、これほどまでに没入した作品は他にないと言えるほど、濃く深い作品であるというのが率直な感想。

 では早速、今でも考えさせられる最大の不明点について触れていくことにする。

1-1 エレンの敵とは(1)

 第一話で巨人に母親のカルラを喰われた主人公エレン。失意のどん底で彼は決意する。「壁の外にいる巨人どもを、一匹残らず駆逐してやる!」と。

 まだ壁の外の世界を知らないエレンにとって、巨人の存在は駆逐すべき存在だった。ところがエレンは、超大型巨人が出現するよりも前に、壁の中で敵に遭遇している。友人のアルミンをいじめていたチンピラ三人組と、人身売買目的で家に訪れた際にミカサの両親を殺害した三人組だ。

 弱い者いじめをする者たち、ミカサの家族の命を奪った者たち、そういう人間たちはエレンにとっては敵だった。「自由を奪われるくらいなら奪ってやる」それがエレンの心の核に“生まれながらに”備わっていたのではないかと推察される。

 それを示すセリフがこれだ。「戦え!戦うんだよ!勝てなきゃ死ぬ!勝てば生きる!戦わなければ勝てない!」ミカサの両親を殺害したうちの一人の男に首を絞められているエレンがミカサに対して発した言葉。「有害なケダモノを駆除した…たまたま人と恰好が似ていただけのケダモノだ!!」

 毎日50mの壁を眺めながら、壁の外の世界がどうなっているのかを知りたがっていたエレンは、その壁を鬱陶しいと思い、自由を制限されていることを許せなかったのだろう。そのことがエレンにとっての戦う理由であり、正義だった。

 ミカサを助けるために戦ったエレン。彼の父グリシャはエレンに言った。「自分の命を軽々に投げ打ったことを咎めているんだ!」と。自分の命よりも、自由を制限されたまま壁の中で家畜のように生きていくことに心底耐えられなかったエレンは、きっとグリシャの言葉を理解するには至らなかったに違いない。

 調査兵団へ入団し、前回ウォールマリアの壁が破壊されてから5年、再び現れた超大型巨人に挑むも、次々と侵攻してくる巨人たちに人々は蹂躙され、エレンは巨人に喰われた後、巨人化した。グリシャが自らの命をもってエレンに継承した進撃の巨人である。

 その後、104期調査兵団の同期であるアニ・レオンハート、ライナー・ブラウン、ベルトルト・フーバーと戦うことになる。

1-2 敵は何だ!?

 アニが水晶体となって地下に収容された後、ライナーとベルトルトの正体が鎧の巨人と超大型巨人であることを目の当たりにしたエレンは激高し、巨人化して戦った。

 敗北を喫したエレンは、ユミルと共に連れ去られ、巨大樹の森で裏切者であるライナーとベルトルトに怒り狂う。獣の巨人の正体を知ってそうなユミルにエレンは問う。「敵は何だ!?」と。それに対し、ユミルは話をはぐらかす。

 おそらく、その時のエレンの心情としては、敵が何なのか、誰が敵なのかはハッキリとしないからこそ、目の前にいるライナーとベルトルトは殺すべき敵だと信じていたに違いない。無論、自分が持つ巨人の力を調査兵団の下で活かすことが壁内人類にとっての希望であるとも信じていたに違いない。

 元より、第一話で「壁の中で飯食って寝てれば生きていける、でもそれじゃ家畜と同じじゃないか!」と毎日仕事しているのかしていないのかわからないほどに酒を呑んでだらけている駐屯兵団所属のハンネスに喰ってかかるほど、エレンは毎日に不自由さを感じていた。どうして壁の中で生活することを強いられているのか、どうして壁の外には巨人がいて、どうして奴ら(巨人)のせいで自由を奪われなければならないのか。そのことに苛立ちと怒りを感じていたのだろう。

 でも、実際に巨人が壁を破壊して侵入し、目の前で母親のカルラを喰われた時、そんなものでは済まないほどに巨人に対する敵意は強大な憎悪へと豹変したと言える。自由を奪う存在は全て敵であるだから戦わないといけない一匹残らず駆逐してやる、と。

 小さい頃からいつも一緒にいたミカサやアルミンを見ていて、エレンは自分と二人が違うところを見ていることが不思議だったのだろう。ミカサからは自分のような意思の強さは感じられないし、アルミンは壁の外の世界に目をキラキラと輝かせて夢を見ている。

 正体不明の敵は壁の向こうにいる巨人であり、全て駆逐すれば自由になれる。そう信じて調査兵団へ入団するも、二度、三度と絶望することとなる。ウォールマリア奪還作戦でベルトルトを倒し、ライナーを仕留め損なった調査兵団は、それからおよそ1年かけて壁外の巨人を淘汰する。

 生まれて初めて広大な海を呆然と眺めながら、エレンは言う。

「壁の向こうには海があって、海の向こうには自由がある。ずっとそう信じてた。でも違った。海の向こうにいるのは、敵だ。何もかも親父の記憶で見たものと同じなんだ。なぁ、向こうにいる敵、全部殺せば、俺たち自由になれるのか?」

 壁の外の世界がこんなにも広いことに、エレンはがっかりした。どうしてエルディア人だけが狭い壁の中で生きなければならないのかと。しかし、まだこの時点ではエレンは知らなかった。海の向こうには、壁内人類とは比べ物にならないほどの人たちがいることを。

1-3 壁の中も、海の外も、同じなんだ

 マーレ大陸へ調査に向かった調査兵団。そこでエレンが目にした光景はどれも父グリシャの記憶で見たもの。ユミルの民はパラディー島の悪魔として教育されていること、政治的に管理されるエルディア人のレベリオ収容区があること、マーレ軍エルディア人部隊があること、戦争があること、戦争によって住処を追われた人々がいること、そして何よりも、過去の歴史にこだわり続ける宗教的思想があること。これらすべてが、壁内人類のそれらと同じであることにエレンは失望するのだった。

 あんなにも自由を奪われることを嫌い、許せず、怒りに震えていた自分が壁の外の世界に見た夢は脆くも崩れ去ったのだった。一体誰がエレンを何度も何度も失望させるのか。夢に見た自由な世界なんて元々存在などしなかったのだと知ったエレンは、「自由など存在しないこんな世界など破壊してしまえ」と思うに至るのだった。

 というのも、壁内人類は家畜のようだとうんざりしていたのに、壁の外の世界で「自由を制限されて生きることに何の抵抗も示さない、戦うことを諦めた人々」がこんなにも存在することを知り、「“様々な壁”の中で生きているだけの家畜だ」ということに気付かされ、エレンは心底絶望したのだと私は感じ取った。

 エレンは壁の外の世界を知って気付かされたのだ。目に見える壁だけが壁なのではなく、目に見えない壁がいくつも存在することを。

【2】自由を求める者

 いつまで戦い続けても不自由なままだった。エレン・イェーガーが行き着く先、それは「果てしなき不自由な世界で生き続ける絶望」だったのかもしれない。どう頑張っても家畜のような生き方からは逃れられないのだ。

 「自由を奪われるくらいなら、自由を奪おうとする者から自由を奪う」、それがエレンの核にある生まれながらの本能で、「戦わなければ勝てない」ということも幼少期から信じてきたことだった。

2-1 この世に生を受けるということ

 本当は誰しもこの世に生を受けるということは誉れ高きことであり、周囲からも喜ばれることでもある、そう思いたいもの。しかし、それは同時に、全ての人々が80年以上生きられるわけではなく、老いて死ぬばかりではなく、事件・事故、病気・疫病や戦争、いじめや過労を含む様々な事情による自死など、人は生きて死ぬまでの間に数々の苦痛、不幸、悲しみを経験することにもなる。

 私が思うに、「人は誰しも死そのものを畏れているようで、実際には死を迎えるまでの過程を畏れているのではないか」と。死にたくないと思うのはほとんど本能に近い。生きている間にすることは全て、生きるためにすることだと言っても過言ではない。

 ところが、エレンから言わせれば、どんな大義を掲げ、どんな目標を掲げ、どんな希望を追い求め、どんな夢を実現しようと永遠に自由にはなれない、不自由な家畜同然のまま人生を終えるに等しいのだということを、彼が思い知らされた失望感から読み取れる。

 なぜなら「人はこの世に生を受ければ必然的に死からは逃れられないから」である。至極当然の真理ではあるものの、これこそまさに「絶対に超えることのできない壁」だからだ。

 よく「生きる意味」について悩む人たちがいるが、言ってしまえば元より意味などないのなもしれない。

 #53「パーフェクトゲーム(完全試合)」にて、調査兵団団長エルヴィン・スミスが新兵たちを引き連れて獣の巨人に向かって突進する、地獄に導く決死作戦を断行する。その際、エルヴィンは新兵たちに向けてこう叫んだ。

>新兵の一人であるフロッグ「オレたちは…今から…死ぬんですか…」

>エルヴィン「そうだ。」

>フロッグ「どうせ死ぬなら…最期に戦って…死ねということですか…」

>エルヴィン「そうだ。」

>フロッグ「いや…どうせ死ぬなら…どうやって死のうと…命令に背いて死のうと…意味なんかないですよね…」

>エルヴィン「まったくその通りだ。」

>フロッグ「え…」

>エルヴィン「まったくもって無意味だ。どんなに夢や希望を持っていても、幸福な人生を送ることができたとしても、岩で身体を砕かれても同じだ。人は何れ死ぬ。ならば人生には意味がないのか。そもそも生まれてきたことに意味はなかったのか。死んだ仲間もそうなのか。あの兵士たちも無意味だったのか。

 エルヴィンの言葉を文字に起こしてみて伝わってくる「死を目前にした者」の覚悟。彼自らもエレンの家の地下に眠る巨人の正体にまつわる何かを見たいという想いを押し殺しての叫び。

 巨人に打ち勝つことで壁内人類を守るために心臓を捧げることを畏れぬ者など誰一人としていなかったに違いない。みんながみんなこの先の人生を生きたかったに違いない。

 この言葉を素直に受け容れられる人、受け容れられない人、どちらがいても不思議はない。前者の受け容れられる人というのはきっと「戦うこと」を正義とし、守るべき何かのために身を切り、血を流し、手足をもがれても構わない、そういった覚悟のできる人なのかもしれない。

 一方、後者の受け容れられない人というのはきっと生きることそのものにこれとって大義を掲げるわけでもなく、意味を添えるでもなく、ただ現実を受け止められる人なのかもしれない。作中の表現に照らし合わせるとすれば、所謂「毎日酒さえ飲めればそれで充分。」ハンネスのセリフにあるような「平凡な毎日に満足できる種類の人間」に分類されるかもしれない。

2-2 なぜ生きたいと願うのか

 前述したとおり、おそらく人は死そのものを畏れているわけではなく、死を迎えるまでの過程を畏れているのだと私は考えている。自分がいつ、どのようにして死を迎えるのか、そんなことを考えたってそれこそまったくもって意味がない。

 では、なぜ生きたいと願う?生きた先にあなたは何を見るのだろうか。もしくは、生きた先にあなたは何を得るのだろうか。考えたって意味がないとも言えることかもしれないが、ここは敢えて深く思考を掘り下げてみることにしよう。

 人は誰しもこれまでの人生で得てきたもの全てを手放し、最期には死を迎える。にもかかわらずなぜ生きたいと願うのか。私が思うには、人が死を迎えるまでの過程を畏れるのと同様に、人が生きたいと願うのは自分が死を迎えるまでの過程に起こる幸せなことを体験したいからなのではないか。死に際でさえ「最期に酒を呑みたい」とゲルガーが手にした空の酒瓶は、「知らぬ間に何者かによって奪われた幸福」を表しているように映った。

 「先のことは考えたって仕方がないのだから、目先のことをひたすら頑張れ。人は、今すべきこと、今やりたいことをするしかできないのだから。」という意味の言葉を親から何度言われたかわからない。微塵にも否定できないド正論であるが故に「なんで?」と聞き返すことが憚られる。

 マーレ大陸レベリオ収容区の病院。ベンチに座るエレンとファルコ少年の会話でエレンは言う。

 よくこんな言葉を聞くことがある。「人は誰しも“生かされている”」と。「だから、全てに感謝しなければならない」と。これをエレンの言葉に重ねるとするならば、「自由を制限されてなお生かされている、そんな家畜のような生き方をして一体何に感謝しろと言うつもりなのか。」と彼は思うに違いない。

 作品の中で、エレンがジークと接触後、グリシャの記憶の中でレイス家の話を聴いている時のエレンの怒りの表情が思い浮かぶ。というのも、エルディア人が滅ぶべき対象とされている概念が声高に叫ばれている現実に加え、ユミルの民は過去の罪を受け入れ罰として滅ぶべきとするフリーダ・レイスの言葉が示す「ユミルの民の安楽死」は、エレンにとっては到底受け容れられないものだったからである。

 故に、海の向こうにいる全ての敵を駆逐すると決意したわけだが、エレンが見た世界の真実は、彼を絶望させるには十分なほど自由の存在しない世界だった。生きる意味を喪失したエレンは、ついに地鳴らしを発動し、無数の巨人を引き連れ、海の向こう側へ進撃を開始したのだった。人も、夢も、希望も、人生も、文明も、そこにある全ての命を踏み鳴らすために。

2-3 戦え… 戦え…

 少子化問題が騒がれるようになってからというもの、少子化対策として政府があれこれと議論しているものの、出産支援や子育て支援を手厚くして子供を増やそうという政策は、これから先の日本の行く末を鑑みるに、少なくとも向こう40年は大変な社会が続くだろうと思われる。実際そうなりつつある。

 今から産まれる子供たちが見ることになるであろう社会の悲惨な光景は、産まれさえしなければ見ることはないだろうし、自ら苦痛を感じることもないだろうに、そんな未来がやってくることがおよそわかっているにもかかわらず、現在の日本政府が行っている少子化対策や支援は、「社会における不幸の種」を植えているようなものではなかろうか。

 経済成長する見込みがない、財政破綻が現実味を帯びてきている日本で今起きているのは加速的な人口減少だ。これに抗えば抗うほど、人々は余計に苦痛を強いられる人生を生きることになる。いくらかの希望や期待が持てる未来がそこまでやってきているのだとすれば結婚して子を授かり幸せな家庭を守ることを考えるかもしれない。しかしそうではない。そうはならない。

 戦争反対、非核三原則、専守防衛、集団的自衛権、反撃能力、日本は戦うことを前提としない、武器を持つことにも製造することにも反対する団体があるなどして、戦うことそのものをタブー視する国家であり、国民である。戦うことを放棄する傾向にある日本は、世界的に見てもあらゆる分野において諸外国に劣るようになった。

 私たちは一体何と戦えばいいのか、誰と戦えばいいのか、何を武器に、どう戦えばいいのか、そうしたことを考えることすら放棄し続けた結果が今だ。力を持たない国は有事に巻き込まれれば一瞬にして滅ぶ。

 中国とロシアの国家間の親密連携が進むことになれば、アメリカの核の傘に守られているとしても限界がある。

【3】知れば知るほど戦うべき敵が変わる

 以下、後日更新予定・・・。

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