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◆言葉の意味を真剣に再考する時間 #5

◆表現が不快だと感じる線引きは“受け取り方次第”って本当?

【1】「月曜日のたわわ」に見る過剰批判

 いや、本当はこんなことについてわざわざ時間を割いて投稿したいわけではないんだけれども、最近やたらと目につく炎上報道についてあまりにもおかしい状況になりつつあるから、ここはもう敢えて言語化しようというモチベーション低めで書いていく。

 まず、“月曜日のたわわ”について、「見たくない広告を見せられて不快だ」といった批判が寄せられたらしいのがけれども、まず、そういう出来事があったこと自体は何も珍しいことではなく、そういう声を発した人の気持ちもわからなくはない、というのが私の解釈。

 女子高生が主人公でエロ要素を含むアニメで、おそらくは、動画サイトでアニメを視聴していた際に流れた広告がこの作品についてのもので、本人が不快に思った・・・ということらしい。

 映画やドラマでも、未成年者にとって過激な暴力シーンや行き過ぎたアダルトなシーンは、たまに問題視されることもあり、かつては当たり前みたいにコンビニのブックコーナーに並んでいたアダルト雑誌も今では見る影もない。

 そういう社会的な変化が起きていることは間違いなくて、こうした経緯を辿っている要因としては、痴漢や盗撮などの性的な犯罪が増えていることや再犯率が高いことなどが挙げられる。法規制があろうとなかろうと、そもそも容認できる事柄ではない。

 女子中学生や女子高校生だけではなく、最近では男による少年への性加害も増加傾向にあるという。一体何が起きているのだろうかと、わからないことも多々あって、日々流れてくる記事を見ていると、警察官、学校の教員、消防士、自衛隊員、党首である国会議員など、公的機関で働く人たちの性犯罪が急増していることに気付かされる。

 こうした状況を快く思う人はいないだろうし、批判もしたくなるだろうし、国家としての信頼がどんどん失われていっているようでもあることについては不信感を覚えても仕方がないかもしれない。実際に被害に遭ったことのある人たちにとっては、直接自身と関係のない類似の事件が報道される度にフラッシュバックしてしまい、何度も不快な思いをしてしまうのだろうということも容易に想像できる。

 私は男性ではあるけれども、職場で60歳を超えた男性社員から執拗に下ネタ関連の話をされたり、触られたりしたこともあり、不快な思いをしたことがある一人ということもあって被害者感情はよく理解できる。ただ、男性だけではなく、現代では一部の女性でも節度に欠ける下品なことを平気で口走る人もいたりして、もはや性別を基準に議論しても意味がないところまで「“性を軽んじる認識”をしている人たち」が増えている風潮はある。

 芸人や俳優、最近では映画監督による強制性交問題も大きく取り上げられており、多くの人たちが教育現場であったり、仕事上の人間関係において、消えることのない不快感を抱いていることが見て取れる。

 でも、どれだけ批判が殺到しても、どれだけ社会問題として取り上げても、こうした問題が解消されることはなく、これまで散々時間とお金をかけて議論が成されてきたはずなのに、もしかすると事態は悪化の一途を辿っているかもしれないとさえ思えてくる。

 こうした経緯を鑑みるに、今、日本社会が抱えている景気低迷や少子化が影響し続けた結果でもあるように思える。若い世代の中には、結婚しない、子をもたない、そのように心に決めている人たちも多く、独身のまま40代50代になってしまった人たちの性加害もまた増えているように感じられる。

 これに加え、コロナ禍では風俗業界が大きなダメージを受け、ここ最近では過剰な客引きや若い女性へのスカウト行為も一層激しさを増しているとかで、極めて深刻な事態へと変化しつつある。一週間前くらいだったか、風俗関係の男が客引きのつもりで声掛けした男性が私服警官でそのまま現行犯逮捕されたとかいうニュースが流れていたけれども、経営が逼迫している風俗店が次々と店を畳んでいる状況ではかつてのようにはやっていけないのかもしれない。

 “コロナはただの風邪だ”みたいなことを公に発言している国民主権党の党首が熱心な応援者である女性の14歳の娘さんを孕ませたという報道は、もうほとんど起きるべくして起きてしまった悲劇としか言えない。「18歳だと思った」と供述しているようだけれども、そんな言い訳が通用するわけもない。挙句、「皆さん、私を信じてください!」とツイッターか何かで訴えていたらしいけれども、たぶん事態を理解できていないのだろう。

 最近耳障りな言葉「パパ活」についても、間違いなく現代病だろうと私は思っている。なんでも、東京六本木にはパパ活目的のマンションがあるとかで、女子大生をお金で釣って連れ込む場所と化しているらしい。正直、釣るほうも釣るほうだけれども、釣られるほうも釣られるほうで、どうしてそんなことになるのか理解に苦しむ。

 というのがここ1か月ほどでネットニュースで報道されてきた内容。ちなみに、今日も、某自治体関連の職員がエスカレーターで盗撮しているところを通りすがりの男性に目撃されて現行犯逮捕されていたり、女子トイレにスマホを仕込んで盗撮したのが発覚して逮捕されていたり、リアルタイムでこういうことが起きている。

 では、「月曜日のたわわ」の広告へのクレームについて、「見たくない不快」というワードが物議を呼んでいるわけだけれども、まず現在のネット環境に触れておくと、ネットショップ系のどのECサイトでも動画サイトでも、ユーザーごとに購入履歴や視聴履歴に合わせたオススメ商品や広告がバナーや動画開始時に表示されるように自動化されているという点。これね、結構無視できないポイントだと私は思っている。

 「見たくない不快」とはなんぞや・・・という話になるんだけれども、要は、“自分の意思に反して女子高生のエロ系アニメの広告が流れてしまい不快な気持ちになった”ということらしい。これってどうなの?と思ったんだけど、女性か男性かで言うとたぶん女性だろうと思うんだけど、不快に思ったのは事実で、言いたいことも理解はできる。

 でも、この物言いをしてしまうと、作品の著作者やすべての関係者や関係企業もクレームの対象になってしまうということがまず1点。で、次に、著作者の“表現の自由”に対する否定だったり、広告契約をしているAmazonやYouTubeなどの“動画サイト運営会社”へのクレームでもあったりして、ハッキリと誰に対して向けたクレームだったのかを、おそらく本人もそこまでは認識していなかったのではなかろうかというのが2点目。

 最後に3点目なんだけれども、“見たくないものを見せられて不快になったことを理由にクレームをする”というのが社会通念上は到底まかり通らないという点。例えば、現実の報道であろうと映画やドラマであろうと、戦争シーンや殺人シーンが流れて同じような物言いをするとなれば、これに賛同する人たちは明らかに少数派であると言える。

 もし仮に、多数派であったとするならば、議論は完全に“表現の自由の侵害”を軸に論争が勃発するだろうということは自明の理で、「我がままだ」とか「見たくないなら見なければいい」みたいな短絡的な批判が殺到することになるだけ。

 つまり、何が問題なのかというと・・・その前に、この結論は吉野家の件を含めて書いていこうと思う。

【2】「吉野家専務取締役の失言」に見る過剰批判

 某大学での講演会で吉野家の専務取締役が失言したことにより大炎上し、これが飛び火して某女性声優のツイッターまでもが炎上する騒ぎになっている。

 簡単に説明すると、田舎の女子が都会に出てきて、男性におしゃれな飲食店で良いものを奢ってもらうようになる前に吉野家の牛丼のリピーターになってもらうという趣旨で「生娘をシ〇ブ漬けにして・・・」という表現をしたらしく、この炎上騒動を笑いにするつもりで某女性声優がツイッターで「生娘、今日もキマってます!」とツイートしたことでこちらも炎上することに。

 こういうことがいちいちネットニュースになって火に油を注いでしまっているメディアの在り方にもかなりの問題点は残されていると言わざるを得ないけれども、そもそも“スマホユーザーのネットの扱い方”がこれといって基準などなく、誹謗中傷やらなにやらが既成事実として浮き彫りになることが前提で、あちこちで訴訟問題化するようになってしまっている。残念ながら民度の低さは放置されている。

 これはあくまでも個人的な見識だけれども、取締役が失言したことで解任され、他にも契約解除した企業もあるとかで、結果だけを見て言うのであれば「行き過ぎた社会的制裁」ではなかろうか、という見方もできる。もちろん、立場としての責任もあるだろうし、失言をしてしまったことによる企業イメージのダウン、取引先企業からのイメージダウン、一般市民からのイメージダウンについては多少あるだろうと思われる。金額にしていくらくらいの損害が生じるかも経営陣は気にするだろう。

 でも、これに対する企業が与えるペナルティーとしてはやり過ぎで、ネットユーザーからの批判も心無いものが多く散見されている状況を見ていると、一度火が着いたら取締役解任にまで至る根拠は大して見当たらない。もうなんかまるで反社とほとんど近い扱いを受けるに至っている。

 いくら失言とはいえ、講演会の中での失言であり、本気で言っているわけではないことはみんなわかっているはずなのに、“取締役”であることや、表現の中に若い女性を“生娘”と呼称して、お客様としてリピートしてもらいたいという意味の表現に“危険薬物”で言い換えたことを理由に、「あり得ない」「信じられない」といった聞き手側の感想が公にネタとして流出したのは案の定といったところ。

【3】見たまま、聞いたまま発出される個人の感想

 世間で起きている出来事に対して“見たまま”“聞いたまま”個人が感想を述べること自体は人として普通の行動ではあるものの、大半が「誰もが言いそうなこと」に留まるもので、そこを敢えてツイッターや掲示板で批判するに至るのは、本人がそこに費やす時間をどう捉えているかに起因していると考えられる。

 炎上騒動とは、当事者をやり玉に挙げて大勢で一斉に叩いたり批判したりすることで“より重い制裁”へと誘導するような圧力を生んでいるというのが外から見ていてわかること。中には、そういう状況に自ら参画することで気持ちいいと思ったり、面白いと思ったり、自身の正義感が世の中に浸透した気になったりする人たちも少なからず多からず・・・というのが実情。

 言わずにはいられない、そういう性分の人もいるかもしれない。でも、ネット上で批判する人たちの行動原理、その核の部分は「今の地位から引きずり降ろしてやろう」というのが批判行動の源になる場合がほとんどで、正義心からなのか、自身が言っていることが正しかろうと過剰批判だろうと「悪いことをしたり言ったりした人がこの先も何の制裁も受けずに今のまま居続けることは許すべきではない。批判されて当然だ。」という一方的な解釈しかできなくなっている人が単純に多いのかもしれない。

 一見、個人の意思による行動のように見えるけれども、どの炎上騒動も多くの人たちが批判行動をするように誘導されていて、人の数だけその行動にかける時間が“燃焼”している。

 燃焼の三要素で言うと「可燃物」「酸素」「熱」で表されるけれども、これを炎上騒動に置き換えると、可燃物は騒動の「当事者」であり、酸素は「多くのネットユーザー」であり、熱は「事態の悪化から展開する社会的制裁」であろうと言える。

 でも、可燃物が燃える現象と炎上騒動との間で唯一明らかに違うのは、燃焼現象で発生する「二酸化炭素」が、炎上騒動ではこれに置き換わるものがないという点。二酸化炭素は大地の草木が光合成をする際に吸収され、再び酸素へ置き換わるけれども、炎上騒動は二酸化炭素のようなものが排出されるわけではないため、ただ時間を浪費するだけで“サイクルを生まないロス”でしかない。

 エンターテインメントの観点から見ても、特別面白いわけでもないように見える炎上騒動は、一体ネットユーザーに対して何を提供しているのか、甚だ疑問。むしろ、過剰に騒いで、“当事者同士の問題を一般大衆が一緒になって騒いでいる”ということが何度も繰り返される。言い換えるなら火山の噴火のように見て取れる。火山が噴火する際、大量の火山灰を広範囲に撒き散らし、多くの人々が灰を被って大騒ぎしているのが炎上騒動だろうと解釈できる。

 そして、誰かが炎上すると、そこに自身の感情をリンクする癖みたいなものが染み付いてしまっていて、批判することが常態化しているのが昨今のオンライン事情であろうと考えられる。というところから察するに、批判する人たちは個々に「自分の正義の捌け口」を探しているのかもしれない。

 ただ、こういう光景をリアルに置き替えて考えてみると、やっていることは「罰と称して柱に吊し上げ、石を投げ、大勢で渦中の人物を袋叩きにして火を放つ行為」そのもの。こうした何も生まない集団攻撃をしているのだという自覚がないままに自身の正義感から批判行動をせずにいられないというのは、逆に言えば悪の所業にもなってしまっていると考えられるけれども、現状これを止める術も予防する術も持たない野放しの状態。

 一体だれが炎上騒動に加担しているのかが匿名投稿により抽象化されていることで、「悪いことをした人に対してはちょっとくらい過激な批判をしてもいいだろう」という認識を持たせてしまっているのは、週刊誌のスキャンダル報道やインターネットそのものの在り方にも課題があるからでもある。

 民主主義は聞こえはいいかもしれないけれども、行き過ぎた批判は“時に正義が悪と化す”ということも正しく認識しておく必要があるように思われる。不倫や著名人の失言が炎上の燃料となりやすい環境を維持しているのは社会全体にとって何らかの抑止力になっているとでも信じているのだろうか。

【4】切り抜き文化の代償

 よく総理大臣や国会議員、YouTubeや報道番組コメンテーターなども切り抜かれて動画やツイッターなどにまとめられているけれども、かつては週刊誌がやっていたようなことを一般のネットユーザーがやるようになっていて、切り抜き方によっては発信者への見方や評価さえも簡単にイメージを変えてしまいかねないもので、言っていることが本心であろうと冗談であろうと、これを視聴した人たちの自由な解釈を前提として発信されている。

 世界とは地球のことではあるけれども、そこに住む人々の文化や宗教など、“信じていること”については正しいも間違いもなく、ただ多くの違いが存在しているという事実が大小様々な争いを生む火種になっているとも言える。そして、人々がそれぞれに思う自由を求めることにも違いがあり、争いが生まれる。

 互いに違いを認めること、互いに悪を受容すること、そういう意味での本質的な共存の実現に困難を極めているのが地球に住む人々の普遍的な課題ともなっている。

 思想として罪人の更生や社会復帰に関する是正は進みつつあるものの、人が住む社会というのは、これを脅かす存在、これを脅かそうとする存在を毛嫌いし、敬遠し、できることなら存在しない者として葬りたいといった負の感情で満ちている。

 「悪いことをしていない人」が善人なのか、「悪いことをしていても世間にバレていない人」も善人なのか、ということも認識を改める必要があるだろうし、「悪いことをした人」は悪人で、以後その人はずっと社会的に悪人として生きることを強いられて当然なのか、ということもそろそろ考え直さなければならない。

 相手が過去に何をした人なのかを基準に現在の相手を評価する材料にする、そうした蒸し返し思考が更生や社会復帰を窮屈にするだけのものでしかないし、場合によっては更なる社会への不満や恨みを募らせる要因ともなるかもしれない。

 果たして、民主主義的な思想から、一般市民に過去の悪行を理由にその人の人生を社会から追放するといった、そこまで過剰な権利はあるのだろうか。もちろん、“罪を犯した者への適正な罰は課す必要があるだろうけれども、ちゃんと更生の機会と社会復帰への道は社会全体で保護する”ということも民主主義の果たすべき責任ではないのかと私は思う。

 切り抜き文化は、今となっては一度オンライン上に拡散されたらずっと残り続けるリスクが生じる。切り抜かれた人にとっても切り抜いた人にとっても、双方にリスクが生じるということを、本当に理解しているのかと言えば実に怪しいのが現状。切り抜きは表現の自由という権利とは別のところで展開されている。もちろん、そういう動画配信アカウントが収益源となっていることもあって一気に広まっているものでもあるけれども、これまでに関して言えば、誰もそのリスクに言及してはいないように思える。

◆最後に・・・

 物事を善悪どちらかに振り分けて偏った意見を感情のままに発言・発信することには意味がない。“人間はそもそも善悪の双方を心に宿すグレーな生命”なのだということは真摯に受け止めなければならない。悪行一点だけを見て攻撃したり、切り抜かれた失言にのみ批判を集中させたりすれば、人の精神はヒビ割れ、立ち直れないほどに傷つくこともある。

 人間は、元々弱いからこそ、善行に触れたり悪行に加担したりすることがある。正義感いっぱいに騒動の当事者を攻撃している人たち全員が清廉潔白な善人なはずはない。もしそうなのであれば、世の中に炎上騒動など起こるわけもない。

 ロシアへの制裁にも同様のことが言える。発端はロシアのウクライナ侵攻であり、非難されても仕方のない状況であることは誰もが理解していることだろうけれども、その後、およそ2か月間、これと言って停戦に結びつけるための決定や行動がないまま、戦争を助長する動きを継続してきた結果、ロシア軍もウクライナの軍や市民も双方にあまりに膨大な犠牲が生じることとなってしまった。

 ウクライナに武器弾薬や支援物資を供給し続けてきた国々がしていることは本当に純粋な支援と言えるのか。「誰か暗殺してくれないかな」とか「明智光秀みたいな人が早く現れるといいですね」みたいなことを口にしているコメンテーターもいるようだけれども、あまりに軽率な発言だと言える。

 こういう煽りを含むロシアのプーチン大統領に向けた発言は、このネット社会では想像を絶するリスクを孕んでいるということを日本全体として再認識すべきではないのかと私は考えている。

 どうして共存共栄の道を模索しようとしないのか。先にロシアが攻めてきたんだから制裁を与えて当然だし、虐殺や強姦といった蛮行をしているのだから戦争犯罪として裁かれるべきだ、というのが国際社会に蔓延しているけれども、そうなるまでこの戦争を助長させたのは間違いなく国際社会だ。この件で国際法が如何にお飾りの役に立たない法であるかが見事に露呈したと私は見ている。

 各国それぞれで自国の利益優先で考えているからこうなるんじゃないのかね。それに比べると、中国のポジションというのはどの国よりも一番賢いと見える。過激な発言を避けるべきだと主張し続けている中国の外交官は、おそらく相当優秀だろうと思う。短絡的な感情論が生む最悪の結果を想定していることが会見などで伝わってくる。

 このままだと、戦争の長期化は免れないだろうし、ウクライナ以外のテロや紛争も激化することが懸念される。ウクライナ侵攻はその発端となってしまったことは否めないけれども、誰も適正な止め方を実行できずにいる。

 プーチン大統領を煽るのではなくて、とりあえず譲るものは譲って、これ以上犠牲を出さないようにする判断や決定が最優先で議論が成されるべきではないのかね。そういう意味では、世界に対してゼレンスキー大統領が連日武器弾薬の支援を呼びかけるだけに留まっているのは、自身で戦争の長期化をしようとしているとも見受けられる。最後まで戦い続けたらどれくらいの犠牲が出るのかについては二の次くらいに考えているのかもしれない。

 そうして、国を守るために払い続ける犠牲は仕方ないのだと正当化している以上は、いくら人の命が失われてもこの戦争をやめようとはしないかもしれない。もはや誰が悪いかも戦争の最初と現在では状況が変化してきている。結果、それを明らかにしたところで、ロシア側も国際社会側も互いに正当性を主張し続けるのかもしれない。

 ハッキリ言って、“月曜日のたわわ”とか“吉野家失言騒動”なんかよりもよっぽど不快な毎日。それでも私は毎日情報を見るようにしていて、ここ数日で、どちらかが撤退しない限り終わらない状況下でウクライナのゼレンスキー大統領が意地になっていることが、より事態の悪化に拍車をかけていることが浮き彫りになってきているということが察せられる。

 アニメの広告くらいのことで“見たくない不快”を主張するのは自由だけれども、自己処理できる感情についてはいちいち問題にしないでほしいというのが私の個人的な感想。むしろ平和でしかない。今日明日を生きるか死ぬかという人たちが大勢いる中で、遠い国のこととはいえ、私には日本国内で取り上げられている炎上騒動がまったくもって問題ではないとさえ思える。だから炎上騒動に加担することもしない。

 わざわざ自分からそういう民度の低い炎上騒動に時間を割く意味がない。というよりは、当事者同士の問題なのだから、世間で吊し上げて騒ぎ立てるほどのことでもない。まったく別次元のことが同時多発的に起きているこの世界で、炎上騒動どころではないことがこの日本で起きてしまった時にしかおそらく本当の意味で気付くことはないのかもしれない。

 日本はそういう意味でも平和な国だと思う。だから、ウクライナの避難民に折り鶴なんかを送って良いことをした気分になってしまうのかもしれない。

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