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危険因子は潜在しているもの

 人間の身体にも、家系にも、友人にも、恋人にも、学校にも、会社にも、国にも、その他の集団組織にも、危険因子は潜在している。

 DNAの正式名称は、デオキシリボニュークリークアシッド(=デオキシリボ核酸/DeoxyriboNucleic Acid)なんだって。長い単語だ。

 「王族の血を絶やすな!」って、異世界戦争もののアニメなんかでよく出てくるけど、人間の歴史を振り返ると、血を受け継ぐ者「血族」であることをずっと大切にしてきた。そしてこれは、世界各国、どの国でも、どの民族でも共通していることだろうと思う。

 一番簡単な例えで言うと、人間の脳や心臓を筆頭に、血流に関係する血管や内臓の一部でも血の巡りが悪くなると、頭痛や吐き気、最悪の場合、動脈瘤破裂などを引き起こし、意識不明に陥ったり死に至ったりする。

 もっとわかりやすいのは、悪性腫瘍。こうなると切除するか、抗生物質を投与するか、レーザーで焼き切るかして、再発の可能性を下げる必要がある。取り除ききれない場合は、癌細胞が全身へ転移するのを防ぎきれないこともある。

 どんな人間関係においても、癌細胞のような危険因子は潜在していると認識するほうがいい。なぜそのように思うのか。家族や親族の関係でもそのように認識しなければならない理由とは何か。

 いや、理由というよりは、危険因子により多くの不幸な事象が起きていることが何よりの証明であろうと言える。

 子が親を殺害したり、親が子を餓死させたり、時には祖父母を殺害するような事象も起きている。

 1年前くらいだったか、妻とその娘二人が、定年退職を迎えた夫を殺害して退職金を奪おうとした事件が起きたことがあった。家族関係でも、家族よりも金のほうが大事なのだということをこういう形で示すことになろうとは、何十年も家庭を支えてきた夫からすれば、悔やんでも悔やみきれないほどに無念だっただろうと察せられる。

 学校でも、社会でも、会社でも、国家でも、規模がどうあれ排他的な事象は世界中のあちこちで無数に起きている。

 宗教批判するつもりはないけれども、「目には目を、歯には歯を」的な思想が本当に誰にとっても正しいものなのかどうかは実に怪しい。それ以外の思考が働かないというところに、人間に潜在する危険因子が暴走する可能性を秘めているような気がしてならない。

 起きたこと、その事実だけを見てしまうと、どうしたって何もかもが結果でしか判断されないために、現代のネット社会みたいに「それ見たことか!」のように鬼の首を取ったように批判しまくる人たちで溢れ返ってしまう。この現象は、ようやく社会問題視されるようになってきたわけだけれども、一部が崩れると全部崩れてしまうような、脆い社会構造になってしまっている。

 ボクが思うに、それが現代社会に潜在する危険因子であり、脆弱性を高めてしまっているのではないかと。謂わば、現代のネット社会は癌に侵されている、と比喩できる状態。炎上=社会的危険因子。

 普段は何事もなく平穏に過ごしていても、社会というのは時として変質者や変態が現れるもので、それによって被害を被る人たちも出てしまう。

 では、大自然はというと、これはもう、善人も悪人も大人も子供も男も女も国籍も病も関係なく、人や動物や植物などの生命の種類も関係なしに襲いかかる。つまり、自然にも地震、台風、火山噴火、津波、地盤沈下、雪崩、土砂崩れなどといった危険因子が潜在している。

 もっと規模を大きくすると、地球という惑星は、現状たまたま(一時的に)人が暮らせる環境にあるだけで、何億年も前だったり何億年も後だったりすると、人が生きられるような環境ではないわけで、毎日が平和だと完全に思い込むのは違うことになる。それでなくとも毎年世界の至る所で自然災害によって命を落とす人たちが後を絶たない。

 では、科学や文明の発展はどうか。これにも何十年何百年とかけて進化してきたその背景には、星の数ほどの犠牲が伴っていて、これに終わりはない。

 そうこうしているうちに、民間企業が有人ロケットを発射したところまで来ている。

 なんかね、世間の一般常識の中に、「サイコパスは危険な人間だ」的な認識が成されるようになって、当然、それっぽい人間を避ける傾向になってきたわけだけれども、サイコパスっぽい人間を避けたその先にそれとは全く関係のないリスクに遭遇するってこともあるよね。いや、普通にあって当然だと思う。

 あくまでもこれは例えだけれども、人生、「全ての危険因子を避けて生き抜くことはとても難しい」ということを言いたい。人の噂を頼りにしてても決して良いことはないし、それによって何か不幸な事態に直面したとしても、噂を流してきた人たちを責めることもできない。

 だからこそ、だからこそね、「自己責任」という言葉でミスや失敗した人間を袋叩きにして、味の無くなったガムをペッて吐き捨てるような社会現象こそが、社会にとっての危険因子になってしまっているのではないかな、と、こういう結論。

 何事に対しても、どんな人に対しても、向き合って、冷静に考えて、適切に行動できるってことが求められるのが今だと思うけれども、何かっていうとすぐデモ行進して同じ言葉を繰り返して唱和するような抗議をしている人たちは、完全に貧思考に陥ってる人たちだなって思う。ひんしこう(=貧思考)、ね。

 誰のためにもならない社会活動は、結局自分たちにとってもためになってないことに気付かないといけないけれども、貧思考が社会の癌だとするのならば、それを取り除くとは言わないまでも、アップデートさせるための取り組みが必要なんじゃないかなぁってボクは思う。

 今回のnote、もし理解できた方がいたらコメントくれ(笑)自分でも話が飛び過ぎて何言ってるかわかってないから(笑)

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