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【あなたはどう思う?】「普通」の概念は時の流れと共に変化し続けている。

【問1】あなたが思う「普通」を説明しなさい。

 普通とは、人それぞれに違う価値観、ライフスタイル、習慣、趣味、物事に対する捉え方の精度がおおよそ近しい人たちの集まり=村の住民である。

 と、ボクならこのように定義する。もっと具体的に説明すると、村人同士はあらゆる物事を共有し合い、共感し合える者同士であり、村の外で生きる人たちの考え方や行動や習慣などが自分たちとは違う場合、「普通ではない」と解釈する。

 人は必ず何かの枠組みの中に暮らしていて、国、都道府県、(区)市町村、年齢、性別、学校、会社(肩書の有無や入社年月、職歴など)、家庭、友達(グループ)、その他にも様々な枠組みに細かく分かれている。もっと大きい規模で言うのであれば、惑星や銀河系も一つの枠組みとして含むことができる。

 その上で改めて、自分が思う「普通」とは何かを考えてみようとしても、何を基準にどういう状態であれば普通なのかは本来答えなどないことに気付かされる。

 この世界で、社会において差別が起こるのは当然のことなのだと、暗に刷り込まれているような気がするのは、きっとボクだけではないだろうと思う。

 差別する人間がいて、差別される人間がいて、差別しない人間がいる。大きく分ければ人類はこのように3種類に分けることができる。

【問2】人間社会においてなぜ差別は起こるのかを答えなさい。

 この三種類の人間が「同じ枠組みの中で同じ時を過ごすから」差別は当然のように起こる。

 前にもnoteで書いたことがあるけれども、3人組の女子友だちは必ずと言っていいほど3人のうち一人が裏では二人から疎外される傾向にある、これにも共通して言えることではないかと思うんだ。

 本質的に心の通わない者同士が表向き仲の良いお友達のフリをして付き合っているのは、たとえ自分が裏で疎外されていようともその村に居座ることで実質的な疎外を避けることができるからではなかろうか。

 だいぶ前に姪っ子が、仲が良いわけではないけれども関わっていないといじわるをされるから誘われるがままにやりたくもない部活に入ったというような話をしていた、と聞いたことがある。

 それでも姪っ子は、そんな彼らを「友達」と言うらしい。今はどうかはしらないけれども、そんな半強制的な関係は友達でも何でもない。

 たとえ小学生であろうと、中学生であろうと、高校生であろうと、社会人であろうと、心が通わない以上、他人に自分の人生時間を支配されるような関係を保持する価値はない。

 にもかかわらず、事、日本においてはこれを強制するような仕組みが保たれてきたように思う。

 学校は勉強をしたり運動をしたりするところであり、会社は利益と社会貢献のために働く場所である。

 そして、昔から、(対人スキルがないと社会じゃやっていけないよ、人脈は持っておいたほうが得するよ、だから気に入らないことがあったりイライラすることがあったりしてもガマンして波風を立てないように振る舞うべきだ。)こういうような正常性バイアスをずっとかけられ続けてきた。

※誰とでも仲良くできるからどうしたの?

※それは凄いことなの?

※そんなに得することでもあるの?

※その得は、誰もが求めるべきものなの?

 返報性の法則について熟知している腹黒い人間は、先に相手に恩を売り、より大きい見返りを要求することがある。

 こういう人間との関係を保持することを「普通のことだ、長い物には巻かれろって言うだろ?」って恰好付けて言う人がたまにいるけれども、いや、誰もがそう思っているわけではないよね?っていつも思う。

 長いものに巻かれなければ自分が思う普通の生き方ができないというのであれば、その村で生きる価値はないんじゃないかな。

 そんなもの、自分の人生ではない。

 と、そういうようなことを感じているのであれば、さっさと別の村に移り住むか、自分で村を作るかして、他人の人生時間を支配しようとする人間を排除するコミュニティーの中で生きるほうがいい。

 なぜなら、そこに差別はないのだから。

 でもね、規模が大きくなって、例えば自分の村が町になり、市になり、都道府県になり、国ともなれば、やっぱりどこかで差別する人間、差別される人間、差別しない人間の3種類の人間がいることに気付かされる。

 世界を一つの枠組みとして捉えるなら、やっぱり規模がとても大きい。

 単純に、規模が大きい一つの枠組みの中ではほとんど自然発生的に差別やいじめは起こる。

 人格や人間性の問題よりも前に、社会構造的な問題が立っている。

 国一つとって考えてみても、その内側には無数の村が存在するし、多くの家族関係、友達関係、恋人関係、その他なんちゃら関係という数えきれないほどの小さい村が存在する。

 そのため、世間に明るみになっていない差別やいじめだって必ず存在するわけだ。

 ボクたちは、そういう世界に生きている。

【問3】あなたが集団から完全に疎外されひとりぼっちになったらどう思うか答えなさい。

 どうも思わない。ただ村の外に出ただけで、この先どんな村に属すのかがハッキリしない、互いに遠く離れたまだ見ぬ村と(追い出された)村の間にある広大な草原を歩いているように思う。

 次の村を目指して歩き続ければ、いずれ次に自分が属す村は必ず見つかる。

 コロナ禍で独りぼっちで寂しい、そう思っている人たちはなぜ寂しいと思うのだろうか。

 今後益々、寂しいという感情が強い人たちほど辛く厳しい世界へと様変わりしていく。

【問4】先行き不透明な未来に何を想像して今を生きているか答えなさい。

 もうコロナ前の状態には戻ることはないのに、それでもなおかつての暮らし、かつての人との関わり方、かつての遊び方、かつてのストレス発散方法ができるという希望的観測で考えているのなら、きっと小さな絶望の連続を目の当たりにすることになる。

 それがわかっていて小さな絶望の連続がやってくる道を選択するのは意思に反する。

 「先行き不透明な現在が人々の未来に不安を増幅させる状態である」という定義の仕方が正しいとは思えない。

 では、今までは先行きがハッキリしていて今まで生きてきたのか?と問われれば、決してそうではなかったはずだし、嬉しいこと、楽しいこと、悲しいこと、苦しいこと、これらがランダムに訪れてきたはず。

 先行き不透明なのは今も昔も何ら変わりはない。

 そういう前提認識を持つことが今は一番大事なのではないかな。

 コロナ禍そのものをあまりに軽視することも、あまりに悲観することも、結局のところ誤った選択を誘発しやすくなるのではないかね。

 何が起きても、どんな病気にかかっても、どんな幸福に巡り合えても、必ず人はいつかこの世を去る。

 だったら、余計に不安に思ったり余計に未来を悲観するよりも、せっかく今生きているのだから、「一回でも多く腹の底から笑える暮らしをしたい!」と希望を抱いて過ごすほうがいいじゃないか。

 今が不幸だろうと、今が幸せだろうと、過ごしている時間は等しく与えられている。

 過ぎ去る時間が同じなら、自身が望む過ごし方をして、自分が納得できる時間的価値を手に入れるほうがよっぽど充実した人生を生きることができる。

 【死ぬこと以外かすり傷】/箕輪厚介

 死んでしまったら全ては無に帰すけれども、生きているうちは自分次第。

 人を幸せにしたければ、まずは自分が存分に幸せを体験することが大事で、人を不幸から救い出したければ、まずは自分がいろんな不幸に耐え忍ぶことが必須。

 人は、得て、失い、また得て、さらに失う。

 失うのに得て、そして失い、また得る。

 その繰り返しの中で自分の手元に、自分の心に今何が残っているのかを一つ一つ見回してみるといい。

 現在、自分が何を、どんなことを大切にしているのかを確認することで、この先自分が何を欲していて、どんな経験をしたいのかが見えてくる。

 未来への希望は他人が与えてくれるものではなく、自ら描き抱くもの。

 大丈夫。

 大丈夫。

 そうして根拠のない大丈夫という自己暗示を繰り返して、人は今日も明日も生きて苦難を乗り越える。

 でも、たまに耐え切れずに涙が流れてくることがあるでしょう?

 そういう時はガマンせずに思いっきり泣くといい。

 一頻泣き終えたら眠ればいい。

 起きたらまた今日も頑張れる自分に戻っているから。

【問5】流転する世界はハジマリとオワリを繰り返す、そんな世界であなたは生きたいか答えなさい。

 ボクは素直に生きたいと思う。

 自分の人生において起きる全ての不幸な出来事は、この流動的に変化し続ける世界で起きている惨事に比べれば大したことはない。

 国内外の情勢については、10代20代の頃よりも遥かに知りたいと思う自分がいる。

 人々がどうやって生き残ろうとしているのかを伝えてくれるネットニュースはもちろん、今を生きる文才ある人たちが書く本を読むことも、ボクは楽しい時間だと思っている。

 そうして自分の思考を徐々に賢いものへと変化させていくことも、生きる上での楽しみ。

 何が欲しい、どこどこに行きたい、そういう欲求はほとんど切って捨てた。

 それどころではないのも事実だけれども、自分の欲求を満たすことよりももっと大切なこと、楽しみながら生きること、その中身を充実させることがボクにとっては大事。

 それを邪魔されないのであれば別に独りでもいいとさえ思う。

 そうして、自分の人生がオワリを迎えたとしても、99.999999%の人は自分が生きていたことも知らないまま、忘れ去ることもない、無でハジマリ、無でオワル。

 それでいい。

 せっかく生まれたなら何かを残して死ぬほうがいいだなんて微塵にも思わない。

 残したところで、その後どうなるかも自分は知ることはできないのだから。

 では、なぜ文章を投稿しているのか、残したいからではないのか、そう言われそうだけれども、書きたいから書いているだけだ。

 「普通」とは、(自身が属す枠組みの)外界のあらゆる人の存在、思想、出来事を認めることのできない、心底つまらない短慮な思考から出る言葉。

 これを読んだ人たちが何を思い、どんなコメントをしてくれるのか、その点はちょっぴり期待している(・∀・)あは♬

BGM/アンコール(YOASOBI)をリピート再生しながら・・・。


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