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【Chapter1】正義の正体は「数」/Part1

 この世界の人々が、長い歴史を経て、何が正義で何が悪なのかを仕分けしてきたものが法律であり、法令に違反した者のうち「発覚した者たちだけ」がその裁きを受けることを当然のこととし、司法の頂点に立つ者たちの、法の名の下における判断によって刑罰を与えることを許されています。

Part1:社会的矛盾

 至極単純なことですが、集団が信じる正義と個人が信じる正義は必ずしもイコールではなく、仮に集団が信じる正義が個人にとっては悪だとしても、この世界では集団の悪がまかり通ることは往々にしてあるのです。

 いや、そうと信じている人たちが大半なのだと表現するほうがいいのかもしれません。

 「人が人を裁く」か。司法の現場はいつの時代も狂気の世界。司法が判断を誤れば、言われなき罪で何年も人生を拘束され、尊厳を踏みにじることもあり、最悪、命さえ奪われることもあります。

 法は時に、何者かの金や権力によって真実を捻じ曲げざるを得ないこともあるのかもしれません。量刑を判断する人たちも、罪を犯す人たちも、同じ人間で、元は互いに社会的に大して変わらない立場だったのが、法という不可視の枠を超えた行いをした者たちを裁かなければならないのです。

※法は正義であり、これに従い行動する全ての人たちは社会正義の申し子なのです。だから、これに背くような行為は断じてしてはならないのです。

 という表現をすれば、きっと誰もが「今さら何をそんな当たり前のことを。そうに決まっているじゃないか。」と頷くかもしれません。でも、本当にそうなのでしょうか。そうと信じるには到底納得のできない、国家公務員による事件が起きています。

 警察官、消防士、自衛隊員、医者、国民の生活や命を救うという大義名分を掲げ、その使命を全うするために資格を取得した人たちで、大変立派なお仕事です。

 彼らのうち一部の人間による犯罪の種類は多岐に亘ります。職権濫用による性犯罪、窃盗、強盗、違法薬物、医療過誤、その他諸々。

 都道府県警のとあるポスターに、こんな言葉が書かれていました。「事件が起こらなかった日は、警察官として誇りに思える一日です。」と。その瞬間、これをとても冷めた目で見てしまっていた自分に気が付きました。

 何も事件や事故が起こらない日などないほうがおかしい、それほどに治安は悪化しています。「事件が起こらなかった日だった」、そう思いたいのも山々でしょう。しかし、これは同時に、「潜在している事件を見過ごした一日」とも言えなくもありません。何を呑気なことを、と思ったのが正直なところです。

 全国の公務員の数は、平成29年度時点で総計332万2千人。彼らは、全国の国民や企業が納める税金を得て生活をする代わりに、国家運営に従事する人たちです。

 日本の国民であるならば(段階的に税率は上がりますが)消費税を払いなさい。市民税も払いなさい。固定資産税も払いなさい。自動車税も払いなさい。税金を払うために働きなさい。そして所得税を払いなさい。(将来あなた方はもらえないでしょうけれども)厚生年金を払いなさい。

 平成12年度は438万人だった公務員の数が、17年後、100万人あまりも削減されたのは、少子高齢化による人口減少が強く影響したものと考えられますが、税金は今後も上がり続けます。

 正義の正体が数なら、公務員の数が減り続けている状況は、正義の側に立つ全ての勢力が弱体化しているとも見て取れます。現代社会が悪だと判断している存在がその数を増やせば、社会正義は悪にとって代わられることになります。

 結局、人間は数には抗えないのです。指定暴力団への金の巡りが鈍って以来、ここ数十年で組織の規模はやせ細る一方、国民全体の貧富格差もさらに開き続けていて、組織に属さない半グレ集団を生み出し続けている。

 どう抗っても、社会から犯罪はなくならないし、正義一色に染めることはできないというのが社会というものの根本的な構造なのです。国家よりも規模の小さい企業に置き換えた時、トップが不正を黙認することで正義は抑止されるのです。

 言い方を変えると、社会は悪を生かしているとも言えます。また、悪を生んでいるのも社会です。あなたはこれを否定できますか?

 法律や規則、社会的常識を盾にすれば、それらの枠をはみ出す行為をする人間はすべて悪人、異常者と罵られ、非難されたり批判を受けたりして社会の片隅へ追い込み、黙殺されることも現実に起きている。

 加害者のことを誰かが闇に葬ってくれさえすれば遺族は無念を晴らせるし、社会に生きる人々はそういう社会こそが健全だと思えるのでしょう。社会の歪みは至る所に垣間見られます。

 掲示板の2ch創設者で有名な西村ひろゆきさんは、人間が心に宿す本質的な闇をネット上に吸い上げることに成功した人です。匿名で書き込める掲示板の存在を批判する人たちがあまりに多いことには心底理解に苦しみます。

 「SNSで誹謗中傷をしてはいけません」と一部の人たちが声高に訴えかけたとしても、こればかりはなくなりません。ネット上で誹謗中傷をできないようにするには、全てのSNSを禁止する以外に方法はないでしょう。

 中には、匿名だから誹謗中傷をする人間がいるのだから実名での利用を義務化すべきだ」なんて言い出す人たちもいます。誹謗中傷をする人間は、実名での投稿が義務化されたとしても、する人はするものです。どんなにネット上に規制をかけても、リアルで誹謗中傷がなくなるとも限りません。

 そうして論点がズレていくことで、誹謗中傷反対論者が集中砲火を浴びせられることにも繋がっています。

 炭酸水で生じる泡を水面に行かせないように全てを抑え込もうとしても不可能ですよね。炭酸水なのですから、生じた気泡は上昇するのは当たり前ですし、何より、全ての気泡を抑え込む意味がそもそも皆無です。「だって、炭酸水なのだから」。

 では、これを誹謗中傷に置き換えましょう。社会なのですから、誹謗中傷をする人間がいるのは当たり前ですし、何より、全ての誹謗中傷を排除する意味がそもそも皆無です。「だって、社会は元よりそういうものだから」

 そのことを、2chが創設以来証明し続けています。これを否定しようものなら、「何をおかしなことを言っているんですか?事実こうですよね?起きている事実を否定する意味あります?」と返されれば、言い返しようがないですよね?事実を否定するということは、虚言か何かとしか思われません。

 よく「炎上騒動」がネット上では起きますが、みんな言いたいんですよね、きっと。どんなに汚い表現の言葉でも、自分が言っていることが正しいと思いたいんですよね。それに賛同する人たちが多ければ多いほどより一層悦に浸ることができると思っているんですよね。それが人間社会の性質には確実に含まれています。

 では、散々否定されてきた西村さんですが、きっと彼も思っているでしょう。「否定されるべき対象は自分ではなくて社会のほうではないか」と。蜂の巣を彼は突いたわけです。社会に開いた穴を。

 社会は、正義と悪できっちりと大別して悪のみを社会から排除することはそもそも不可能であり、多くのネットユーザーが日々繰り広げられる炎上に参加して誹謗中傷を浴びせる行為は、技術革新によって情報化が加速した社会ならではの自然な現象と言っても過言ではありません。

 炎上騒動に加担し、誹謗中傷を浴びせる彼らにとって、その行為は「正義」に因るものです。そして、単純にそういう行為に及ぶ人たちの「数」が多いというだけのことです。

 情報化社会によって巻き起こった社会現象は決して良いことばかりではなく、情報化以前にはなかった全く新しい問題を生じさせたと言えます。SNS誹謗中傷の問題は、数ある社会問題のうちの1つの問題に過ぎません。

 社会問題が100個もしくは1000個あるとします。そして、それぞれに正義と悪の立ち位置があるとします。誰がどういう立場とどういう根拠で振りかざす正義が本当の正義なのか断言できる人がいるでしょうか。また、誰から見た時にどういう人物が悪で、それが本当に悪なのかを断言できる人がいるでしょうか。

 多数派の悪を否定し、全て排除しますか?SNSが生活の一部となるまでに普及したことで、この社会はとても排他的だということが見て取れます。叩く側は徹底的に誹謗中傷をして、叩かれる側が二度と立ち上がれなくなるまで追い込もうとします。こういう状況で叩かれる側の少数派ネットユーザーが、誹謗中傷をする匿名ユーザーを悪として排除したとしたらどうなるでしょうか。

 排除する以外に、否定すべき対象が間違っていることにまず気付くべきではないでしょうか。社会に対する前提認識として、所詮、キレイゴトで塗り固められ、重大な問題や汚いことや面倒なことは見て見ぬフリをしてきた人たちが、匿名で本人の見えないところからナイフでブスブス刺して悦に浸る、そういう「空気」に満ちているのが今の社会です。

 この空気には誰一人として抗うことはできないでしょう。これを否定しようものなら、人間社会そのものを否定することに等しいことになります。

 さて、ここから思考回路をさらに開拓していきましょう。次回もお楽しみに。

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