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【#思考の言語化】【#世界に潜在するエヌ】認知されていないだけで実際にはそこら中に潜在している不定数に人類は振り回されている

#思考の言語化 #世界に潜在するエヌ

 数学上「n」は不定数を表す。数あるnを明らかにするために、社会は数値やデータを蓄積していくことで、不定数であるnのおおよその値を導き出すことの重要性に気付いた。

 にゃむの「n」、にゃむは不定の存在。どこか一つ所に属して居座ることを殊の外嫌うにゃむの性質こそ「n」なのだ。

 にゃむが行き着いた場所、note。noteの「n」。表現は不定で人間の脳内に潜在するもの。何についてどう表現をするか、不定である表現を無理やりに何かについて表現をしようとして文字が羅列されていき、画像が描かれていく。

 文章を書き、画像を描く存在。不定の「n」であるにゃむ。

 思考が極端に一方向に偏ることは、決して良い結果に至るとは限らないし、そういう時には必ずと言っていいほど死角や盲点が生じる。自分が両目から見ていると思っている状況には、視界に入っていようといまいと見落としていることがある。

 不定であるということは、一つの場所、一つの考え方、一つの価値観に縛られている時よりも遥かに視野が広い。右を向くこともあれば左を向くこともあり、前を見て歩いていても時折振り返ってみたり見上げてみたり下を見たりすることができる状態。

 これまで人類はあまりにも専門性に固執してきたために、何を見落としていて、どんな誤解をし、どんな過ちを犯してもおかしくない、実に多くの失敗を繰り返してきた。

 何者かでなければ生きる価値がないというのなら、この世界に80億人もの人間が存在することには何の意味もないことになる。現在、自分がどんな境遇に立たされていようとも、そこには必ず誰かにとって有益な価値が人の人生には内在している。

 ところが、他人の言葉が自分の意に反するものである場合、感情を持つ人間は怒りを露わにしたり、相手に言い返したり、やり返したりして、傷つけ合うことがある。

 人格を否定され、存在を煙たがられ、言うことやることを批判されることがあるのは世の常、と言いたいところだが、否定されたり煙たがられたり批判されたりする人の最大の特徴というのは「動く(行動する)」が前提にあるということ。

 否定も肯定もしない、我関せずで、面倒なことを避けがちな人は、誰からも批判・否定されることはないし、避けられることもないし、干渉されることもない。強いて言うならば、認知さえされていない状態で人と時間が自分の目の前や後ろを通り過ぎていく。

 もし、この世界に、現代に、インターネットやSNSが存在していなかったとしたら、昨今やたらと騒がれている炎上は今ほど膨大に膨れ上がることはなかったかもしれない。時には暴走して手が付けられなくなるくらいに大炎上することもあるのは、偏に情報化社会化したことによる拡散スピードの上昇と、匿名としてネットユーザーが守られている環境が感情を暴走させることに繋がっているものと考えられる。

 決して、インターネット、情報化、さらにはグローバル化だって人々にとって常に有益でメリットがあるとは限らない。

 今、どれだけの情報がインターネット上に流れていて、どれだけのデータがサーバーやクラウドに蓄積されているのかは、ほとんど天文学的なほどに莫大な不定値「n」と言わざるを得ないだろう。

 この世界が未だ数多くの「n」を潜在しているからこそ、不確実性に満ちた社会は数千年も経過した今も確実なものを何一つ見付けられずにいる。

 今、政府の不手際に批判しまくっている(愚)民は、そのことを前提のことと認識できていない。責任の所在ばかり粗探しして、鬼の首を取ったように「それ見たことか!」と一生懸命に投稿している人間たちでこの【n社会】に溢れている。

 いつも答えがあると思い込むことも、誰かが何とかすべきで自分は権利を行使できるのが当たり前だ、なんて心のどこかで錯覚していることも、実に愚かなこと。

 いつどうなってもおかしくない不確実社会。現に、世界中で毎日何万人もの人が命を落としていて、日本国内だけでも毎月誰かが死んでいる。明日まさか自分が命を落とすことになろうとは誰も考えていない。一部の人たちを除いてはね。

 生きたくても生きられない人たち、余命幾ばくかの人生を生きている人たちは、迫る死と毎日向き合い、残酷に過ぎ去る時間を噛みしめるように生きていることだろうと思う。

 人生も、寿命も、病気になる可能性も、事故に遭遇する確率も、全て「n」だ。それなのに、自分だけは明日も来月も来年も10年後も生きているはずだと思い込むのは、「根拠なきnの否定」でしかない。

 そういう諸々のことを踏まえて考えてみると、いつどんな時も、絶対的な答えなど存在しないということはほとんど自明の理と言える。

 時には、楽しむためにレジャーで山や川で遊んでいてウッカリ死んでしまう人もいれば、それに紛れて殺人を犯す人間だっていて、まさかまさかの連続であることもこの不確実社会が含む要素であることは誰にも否定できない。

 それでも人間は、この世界に絶対的なものなど何一つ存在しないというのに自身の能力や功績に過信することがある。それは人が人であるが故の愚かさでもある。そのことは、誰もが真摯に受け止めなければならない真理だろうと思う。

 人間であること自体、「n原子の集合体」。そんな人間が作ってきた社会というのもまた「nの集合体」であると考えるのが妥当だろう。

 絶対に倒壊しない高層ビルなんて存在するわけがない。砂上の城に例えてみればわかりやすい。ここで言う砂とは、地球の大地であり、自然災害が世界各地でいつ起きても不思議はなく、洪水や大地震で家が流され、建物が倒壊するということは自然と同義であると認識するべき。

 恋愛や結婚、家族や友人などの人間関係ですら、絶対的な根拠など一つもない。「信頼」や「信用」の有無というのは、目に見えないからこそ人々が重視してきたことかもしれないけれども、どんなに長い間お互いの関係を強く太い絆にしてきたとしても、どちらかの裏切り行為によってアッサリと経たれてしまうほど絆とは脆いもので、信頼や信用というのも同様に脆い。

 では、「愛情」はどうかというと、これも同じく脆い。「愛しているからこそ憎い」という表現は、一見矛盾しているかのように思えるけれども、そもそも愛情というものが脆いものであることをシンプルに表している。

 それでも人は、「結果がどうなるか」を常に考えて行動しているわけではないし、幸せになりたいと願い選択する行動は、大方その場その時の実現に重きを置いている。好きで、付き合いたくて、告白し、付き合うことになったその瞬間は選択がうまくいった時。でも、付き合うことになった相手と生涯寄り添うことになるかどうかで言うと、「n」でしかない。

 人生が「n」であるということは、同様に未来も「n」ということ。ボクら人類は、これまでずっとnだらけの道を歩んで子々孫々受け継いできた。これがあと何年継続されるかはっきりしたことはわからないけれども、でも、一つだけnではない未来が待っている。

 人類が滅亡する日が必ずやってくるということ。何百年、何千年先のことかは不明でも、必ずその日はやってくる。だからこそ、生きてどうという答えが未来永劫存在しないという「n」であることは受け容れるしかないと言える。

 長生きすることには意味がないし、いつ死んでもいずれ訪れる死がどのタイミングかの違いだけで、ほとんどの人たちが生きたいように生きようが縛られて生きようが、結局最期も「n」で終わる。

 「未来ある若者たち」なんていう表現も明確ではない。どうして未来があると言い切れるのか、これを証明することは誰にもできないからだ。

 勝手に生きて、勝手に死ぬ。人生とはその程度のものと思えば、縛られて生きるよりは好きに生きたほうが後悔は少ないだろう。

 人生の教科書?成功の法則?○○の10の鉄則?とか、本のタイトルにありそうなこういうものは、全て「n」であり、いつの時代も通用するものではない。

 人生を成功か失敗か、勝ち組か負け組か、そういう二律背反的な考え方でしか捉えられないようであれば、人生が矛盾に満ちてしまうのもなるほど納得がいく。

 適当に、気楽に、のんびり生きようと、常に何かに追われるように切迫したスリルに満ちた日々を生きようと、人類が滅亡する数百年前には誰かの人生が称賛されるということもなくなっていくし、かつて起きてしまった戦争や事件でお亡くなりになられた方々の追悼式も、どこかのタイミングで開催の意義を失うだろう。その辺りくらいから、人が神や仏を信じて祈りを捧げるといった文化も消え去ることとなろう。

 目に見えないあらゆる物事を信じるというのは、これが覆されるようなことがほとんどない、答えがない、だからこそ信じることができるとも言えるけれども、人類滅亡を前にすれば、信じることを貫く人が最後まで生き残るかどうかは怪しい。

 コロナ禍で「神は存在しなかった」ということで無宗教化した人たちもきっといるかもしれない。大切な人の命を奪ったコロナウィルスという苦悩を、なぜ神は我々人類に与えたのか。乗り越えられる宿命だからこそ与えたのか。妙な話である。

 これまで死んだ全ての人類をドラゴンボールで生き返らせることができるとしたら、地球上に一体どれだけの数の人間が存在することになるのだろうか。時折そんなことを考えることがある。

 思えば妙な話で、ドラゴンボールを7つ集めて、願いを一つだけ叶えてもらえるという設定で、どうしてフリーザやセルや魔人ブウに殺された人たちだけ生き返らせたのだろうか。なんなら、それまでに死んでしまった全ての人たちを生き返らせてあげればよかったのではないか。限定した意味が気になるところ。

 架空のストーリーは、基本的に表現の自由が認められていて、制限を受ける義務はほとんどの場合はない。よほど社会に悪影響を及ぼす表現でない限り認められている。

 でも、メンタリストDaiGoさんには命を軽んじる発言をしたということで、その点における表現の自由は認めてもらえず、全国から批判が殺到することとなっている。実際に、生活保護受給者やホームレスの人たちに向かって言ったわけではないし、何か直接的な実害を与えたわけでもないのに。

 だいぶ歪んだ社会だなと改めて思うに至ったのも、社会が元々「n」だからだと考えることもできる。

 いつ崩れ去ってもおかしくない砂上の城で暮らしているようなもの。それが人間社会であり、人生だ。莫大なお金があれば絶対的な人生を送れるのかと言えばそうではないだろう。ホームレスだと絶望的な人生しか生きられないかと言うと、決してそうでもないだろう。

 自分の人生が真っ当で、自分より社会的ステータスが低い人たちの人生はそうではないと思いたい人は思えばいいと思うけれども、そういう捉え方こそ不幸でしかない。

 憧れ、嫉妬、恨み、なんていうものは、どれも「理解から最も遠い感情」でしかない。隣の芝生が青く見えるのは、実態を認識できていないからであって、盲点や死角に目を向け気付くことができれば、隣の芝生は言うほど青くはなかったと気付くこともできるだろう。

 あまりにも人生を美化し過ぎるのもどうかという気がするし、人生はこうあるべきだなんていう狭い価値観しか持てない生き方もどうかと思う。

 シンプルに、笑顔がより多い時間を過ごせるひとこそ、不確実な人生でさえも精神的により豊かに人生を歩んでいくことができるかもしれない。それもまた可能性の話であり、「n」だ。

#不確実社会 #二律背反思考 #砂上の城

 あると信じていたことがなくてガッカリするよりも、ないと思っていてあることのほうが幸せに思えるだろう?奇跡への認識とは大概そういうもの。

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