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距離が生む価値

ステージと客席の隔たり

約一年ほど前に流行った「推し、燃ゆ」という作品を覚えているだろうか。
男性アイドルのオタクをしている少女が主人公というだけあって、私の周りのオタクたちもこぞって読んでいた記憶がある。
もちろん私もしっかり読み、同著に対しての感想まで簡単にアウトプットした。共感できるか否かは置いておいて、あの物語はアイドルとオタクの精神的関係性とビジネスモデルにおけるそれぞれの価値について非常に興味深い表現が多く、私個人としても自分のオタクとしてのスタンスを再度客観視する契機となるといった意味で、かなり印象深い作品であった。


そしてこの作中で、「ステージと客席の隔たり」という表現があった。
私は、これこそがアイドルをアイドルたらしめる上で最も重要なファクターだと思っている。

要は、私たちが推しと崇める偶像、即ちアイドルは、「容姿が整っているから」「歌やダンスが上手だから」「演技が素晴らしいから」という理由でアイドルとして成功しているのではない。自分の推しを今一度思い返してみてほしい。あなたの推しは、世間一般から見て表紙に使うだけで街中の書店から雑誌が消えるほどの絶世の美男子だろうか。このCD離れが加速する時代に、100万人以上の人が手に取らざるを得ないほどの歌唱力を持っているだろうか。ダンサーや俳優、その道のプロ達を優に凌ぐパフォーマンス力、演技力を備えているだろうか。これらすべての能力を、あなたの推しは持っているといえるだろうか。

ある程度客観視できれば、この質問にYESと答えられるオタクはいないだろう。それでも彼らは、あらゆる雑誌を重版させ、CDの売り上げはミリオンをたたき出し、映画やドラマに引っ張りだこ。これは紛れもない事実だ。
では、何がこの誇らしい現状を実現させているのか。

それは、私たちが「華」や「オーラ」と呼ぶ類の、不可視のものだ。
そしてこれは、不可視であるがゆえに、努力によって後天的に補うことが不可能な要素である。後天的に補完できないということは、持つ者と持たざる者の間に明確な線引きをすることができる。この線が、我々オタクとアイドルたちの間に存在する「ステージと客席の隔たり」となるものだ。同じ人間でも、生まれ落ちた瞬間から彼らは持つ者なのであって、持たざる者である私とは一線を画す存在。そんな彼らが立つステージは届きそうで届かないからこそ、私たちは照明に照らされてキラキラとステージで輝く彼らを憧憬の的とすることができるのだ。もしも、簡単にそのステージに手が届き、同じ場所に立つことができてしまったらどうだろうか。私たちはきっとキラキラに見えたセットの裏がガムテープで留められていることや、華やかな照明を当てるためにスタッフのおじさんが汗だくで走り回っている様子に気が付いてしまうだろう。少なくとも私の場合、夢を見るためにお金を払っているのであって、そんな現実を見たいわけではない。「ステージと客席の隔たり」は、私が見たい完成されたキレイなステージを見るための必要条件なのである。


「アイドル×一般人」という構図の危険性


さて、ここでやっと本題に入るわけだが、私が推しているSnowManというグループは、日曜のお昼というありがたい時間帯に、しかもキー局であるTBSで冠番組を持たせてもらっている。本人たちも局社員も制作会社スタッフも、全員がより良い番組を作ろうと奮闘してくれていることは大変よく理解しているし、本当にありがたいことだと思っている。

それを鑑みても、最近の放送内容はあまりにも目に余るものがある。そもそもParaviから地上波に移ってからは似たような企画のローテーションになってしまっていた、ということは一旦目をつぶっておくとして、私がこの文章で言及したいのは、所謂「スクールウォーズ企画」である。


一応軽く説明しておくと、スクールウォーズ企画とは、SnowManが実際に強豪校と呼ばれる全国の中学校や高校に出向いて、対決をする企画のことだ。一発目の企画からすでに賛否両論、炎上とも呼べるレベルで物議を醸していたはずなのだが、何故だか今日に至るまで続いており、今や名物企画と呼べるまでの企画になってしまった。


私は、こんな文章をわざわざアウトプットしたくなってしまうくらいに、この企画が苦手である。推しの番組であるがゆえに、現在放送している番組の中で最も苦手なのがこの番組になってしまった。「面白くない」を超えて、もはや苦痛といっても過言ではない。さらに、推しの番組に対してそんな感想を持ってしまう自分の狭量さにもダメージを食らう。私にとって何のメリットも生まないので、自己防衛の手段として、今は録画のみで視聴は避けるようになった。

なぜそんなにもこの企画が苦手なのか。それは私がアイドルに対して一番に求めている「距離感」を侵犯する企画だからである。

訪問先の中学生・高校生たちは、確かに強豪校の生徒として、その種目における才能を持ち、厳しい練習に耐えてきたという点で、称賛されうるのかもしれない。しかし、そういった方向性でもってアイドルである彼らと同じ位置に立つには、本来オリンピックでメダルを取ったり、世界で認められるパフォーマーになったりして、結果を出すことが必要だ。そこまで道を究めて初めて、アーティストやアスリートとして持つ者の側に立つことが許される。残念ながら「強豪校の生徒」という肩書は、多少他より優れた「一般人」に過ぎない。であれば、学生たちとSnowManの間には、隔たりがなくてはならない。にもかかわらず、このスクールウォーズ企画は本来あるべき距離を強引に取り払ってしまう。そして、その距離を取り払う過程において、一般人をステージ上に上げることはできない。初めに言及したように、その隔たりは持つ者と持たざる者の境界線であり、その線は後天的に超えることができないものだからだ。したがって、ステージ上にいる彼らをこちら側に降ろすしかない。そうすると、本来存在する隔たりゆえに一方的にしかなり得ないはずのコミュニケーションが、双方向的なものになる。一般人と普通にコミュニケーションが取れる、という状況は、彼らが私たちと同じ人間であることが明白になることと同義といえよう。これは、アイドルにはいついかなる時もアイドル(=偶像)であってほしい私にとって、非常に不都合なものなのだ。

話が逸れるが、同様の理由でドキュメンタリー作品も苦手だ。舞台裏でメンバーと楽しそうにしている場面なら見たいと思うけれど、ケガをしたり、パフォーマンスがうまくいかなかったりして落ち込んでいるような場面については、見せてくれるなと思う。本人が見せまいとして踏ん張って、舞台上では隠し通したアイドルではない姿をわざわざ公開する意図が分からない。これは次に言及する共感性羞恥の問題かもしれないが、そういう場面を見せられると、次にそのステージを見たときに「笑顔で踊っているけどこの時すごく辛かったんだな」ということが脳裏を過ってしまって、本人が私たちに見せたくて頑張ったものが二度と見えなくなってしまう。私は、本人が私たちに見せたいと思ったものを見ていたい。それを阻害するのであれば、現実はいらない。個人対個人の関係性ではなく、アイドルとファンというビジネスの面も含む関係性だからこそ、そのあたりの取捨選択は重要だと思う。


閑話休題、本題に戻るが、前述したように、私は彼らがステージから降りることを望んでいない。キラキラしたものを見ていたいからお金を払って楽しんでいるのであって、同じ人間としてのアイドルは私の望むところではないのである。これが、私が「アイドル×一般人」という構図を嫌う理由の一つだ。



共感性羞恥という障壁


それに加え、私はもともと共感性羞恥心が強いタイプであること理由として挙げられる。それスノが一番苦手な番組だと述べたが、私が次に苦手なのがドッキリ番組やモニタリングである。
 

共感性羞恥の程度は人それぞれだし、それを感じるタイミングも個人差がある。私の場合は、当人が「笑わせよう」と思っていない言動で誰かが笑っているという状況がダメだ。当の本人がそんなに気にしていなくても、勝手にいたたまれなくなってしまう。

それと同じ現象が、スクールウォーズ企画でも多発するのだ。突然学校にアイドルが現れたら、誰だって我を忘れて喜ぶだろう。私だってきっとそう。泣くかもしれないし、奇声をあげるかもしれないし、状況を理解できずに固まってしまうかもしれない。テレビ的にも、そういう反応が欲しいところだろうと思う。でもそのシーンを、SnowMan本人は、視聴者は、どういった視点で見るだろうか。嘲笑の意味合いは絶対に含まないにしろ、「そんなにびっくりしなくても(笑)」と笑わないだろうか。人を笑わせようとしていない他者が、意図せぬ文脈で誰かに笑わているというその状況に、私は強い羞恥を感じてしまう。

加えて、学生たちはテレビ慣れなどしていない一般人。それも、まだまだ未熟な子供である。求められているものとは違う反応をしたり、不慣れな状況に焦ったり、私が見ていて羞恥を感じてしまうタイミングを数えれば、枚挙に暇がない。

これはそれスノがどう、という話ではなく私自身の問題なので、これを理由に番組を批判するのはお門違いなのだが、あくまで個人的に、この共感性羞恥が原因でそれスノを見ることができないともいえる。


ちなみにこれは余談だが、「スクールウォーズ企画を批判する人は羨ましいだけでしょ」という人がいる。これには少々異議を唱えさせてもらいたい。
私はおそらく、人よりも「恥ずかしい」という感情が苦手である。人前に立って話をするのもできるだけ避けたい。なぜなら、緊張してあたふたしたり、噛んでしまったりと、見苦しい姿を晒して恥をかきたくないからだ。
私はそんな人間だから、推しに会いたいなんて思ったことは一度もない。といったら語弊があるけれど、少なくとも彼らと双方向的なコミュニケーションを取るような場面には出くわしたくないと思っている。推しを前にした私が落ち着いて冷静に対応でができるとは思えないし、そんな見苦しい対応しかできない私を推しの視界に入れたくはないからだ。
私はSNS上で呼吸するように「一緒に飲みたい」「付き合って」「結婚したい」などと宣っているが、これらの発言の対象は偶像としての彼らであって、決して実際に生きている人間としての彼らに対する発言ではない。
という理由から、私が嫉妬にかられてこの企画を嫌っているわけではないということだけ追記しておきたい。




距離が生む価値


何度も同じことを言うようだが、アイドルをアイドルとして成立させている最重要のファクターは距離である。

昨今、通信技術やSNSの発達によって、その距離を縮めることが容易にできるようになってきた。しかし、アイドル本人、そして彼らをプロデュースする周りの大人たちにこれだけは伝えたい。
私たちに近ければ近いほど、私たちが喜ぶと思わないでほしい。遠くなく、近くに見えるけれど、どうやっても手が届かない。それがアイドルであり、手が届かないからこそ、私たちは追い続けたくなるのだ。


踏み越えてはならない線がどこにあるかを見極め、みんなの偶像としてのアイドルを全うしてもらいたい。そうしてこの先も、追いかけ続けさせてほしいなという願いを込めて、この文章を締めておこうと思う。


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