「かわいそう」を否定する意味

序文

一部の方にとっては心理的に極めてセンシティブな内容かもしれませんので、ご注意を。

「かわいそう」だと認識することを否定することは、「過度な自助努力の強要」へ至りうると思わされたエピソードがあるので、備忘録的に書く。

本文


「かわいそう」という単語を他者に向けて使うときには注意が必要、という論は、しばしばあるし、その通りであろう。

で、あるが、だ。序文のエピソードに他者を「かわいそう」だと認識することについて考えさせられた。

そのエピソードとは、

未就学の奇形児に対し、同じく未就学の健常児が「かわいそう」であるという旨の発言をした際、その奇形児は「僕は全然『かわいそう』だと思ってないよ!!」と言った。これに心を打たれ、他者を「かわいそう」だと認識することをやめた。

というものである。

本エピソードから「かわいそう」という概念の否定に至るのは、少々飛躍しているかもしれないが、理解できる。

ところで、本児の発言における「かわいそう」とは、本児は自身を「かわいそう」であると認識していない、という意味だと推測できる。それは、大いに望ましいことだと思う。

ここで、この推測が正しいという仮定の下で、本児に対し他者が「かわいそう」だと認識すること、について考えていきたい。

その前に、円滑な議論(といっても俺が一人で話しているだけだが)のためにこのエピソードを「ハンディキャップを有する者を『かわいそう』だと認識すること」と一般化しておく。

この行為に対しては、肯定的な解釈と否定的なそれができると考える。

肯定的なものから述べていきたいが、そのためには「かわいそう」という単語の意味を確認しておく必要がある(今更ではあるが)。

同情の気持ちが起こるさま。ふびんに思えるさま。

出典:goo辞書 https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%8F%AF%E5%93%80%E7%9B%B8/

さて、「かわいそう」とはこのような意味なわけであるが、この形容動詞には憐憫的な、つまり、対象を自動的に自分よりも下に見ることになる、というニュアンスが含まれていることは否めないと思う。

そういった意味で、「かわいそう」である者は「自分より下」になりうるのだ。つまり、「かわいそう」だと認識した者はその対象を見下す、といった構図が意図せず発生する可能性がある。それがゆえに、ハンディキャップを負ったものを「かわいそう」だと思うことは道徳に反することだ、といえる。
つまり、
「ハンディキャップを背負うものを『かわいそう』だと認識することを禁ずる」
という倫理規範が成立しうる。

(倫理学的には、カントの定言命法「あなたの意志の格律が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」に従えば、一旦は「ハンディキャップを背負うものを非意図的にであれ見下すこと」は反道徳的なことであるし、
徳倫理の観点からも「有徳な者」はハンディキャップを背負うものを非意図的にであれ見下しはしないだろう。)

以上が肯定的解釈である。

さて、否定的な解釈に移ろう。

ハンディキャップを背負うものを「かわいそう」だと認識することを禁ずる、という道徳的規範は、ハンディキャップを背負う当事者から直観的に当然与えられる範囲の免責性さえもを剝奪することになるのではないだろうか。

具体例を挙げたいが、再び「かわいそう」という単語の意味を確認する必要がある。

同情の気持ちが起こるさま。ふびんに思えるさま。

出典:goo辞書 https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%8F%AF%E5%93%80%E7%9B%B8/

それでは具体例を挙げよう。極端である点をご了承いただきたい。

両足がない生徒のいる学級があるとする。
運動会で、彼は全員出場のリレーに、四肢のある生徒と同じ条件で出場させられた。

このような場合、我々は「かわいそう」などの憐憫的な言葉以外に、彼を形容する語彙を有しうるだろうか?

「ハンディキャップを背負うものを『かわいそう』だと認識することを禁ずる」倫理規範が常に正しいならば、彼は「同情の気持ち」を起こさせず、「ふびん」でもないことになる。
だから、たとえ足がなくても、「頑張って」走らないといけない。なぜなら彼は「かわいそう」では、ないのだから。

これは、まさしく「過度な自助努力の強要」であり、おそらく我々の直観に大いに反するであろう。

実社会ではこのようなことは起こりえず、車椅子を使用した上で相対的に短い距離を走る、などといった対応がなされるのであろう。これは少なくとも上に挙げた例よりは直観に適うだろう。

このようになる因果において、このような対応を企画した者がハンディキャップのある者は「かわいそう」であると認識していることは、一定程度関与しているのではないだろうか。それが結果的に、より直観に適う対応を作り出すのだ。

要するに、ハンディキャップを背負う者は「一定程度」「かわいそう」であるからこそ、当然与えられる免責を与えられるのではないか。
それがゆえに、「かわいそう」だと認識しないことは、「過度な自助努力の強要」に至りうるのだ。
(「過度な自助努力の強要」は直観的でないほか、定言命法に照らすと反道徳的であり、徳倫理においてもそうであろう。)

以上が否定的な解釈である。

では実際いかに「かわいそう」という語、認識を運用するのか、というところだが、それは我々の想像力に委ねられるのではなかろうか。

つまり、我々(ハンディキャップの有無にかかわらず)は、「かわいそう」であると認識するか否かを検討する際、さも両足のない者を車いすなしにリレーで走らせるかのようなことが起こらないよう、細心の注意を払う必要があるのではないか。ということである。

結語

ここでいう「ハンディキャップを抱える者」として(ハンディキャップ=軽~中程度のASD傾向,被虐待歴)、この社会と向き合っていきたい。
また、あなたがいかなるハンディキャップを抱えていようとも、それに適した生存戦略をうまく企てられることを願ってやまない。

最後になったが、倫理学に関しては少しかじった程度であり、倫理における議論(のような文字列)を書くのは初めてなので、論理的欠陥、用語の誤用、概念の誤解釈、諸他諸々あれば遠慮なくご指摘いただきたい。






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