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#8「思いやりと加害性」

こんばんは。ALFRD(山口健太)です。

前回ここに文章を投稿した日からおよそ2ヶ月が経つようです。


最後に書いた文章はライブの直前で、出演してくれる各演者の紹介をした。

その文章を褒めてもらったり、ありがたがってもらえたり、誰がなんと言おうと良いライブをしたり、いろいろあって。

ある種の達成感のようなものを得たのかもしれない。書きたいことが見つからなかった。

1ヶ月に2つ記事を上げることを目標(というかノルマ)にしていたが、誰に頼まれたわけでもないので別に良いのだ。


言い訳はこの辺にして、本題に。

過去にアップしたこちらの#4「常識と自由」という記事で

周りの人からの思いがけない言葉や価値観の押しつけに募らせている不満を書き殴ったことがふと思い起こされ、読み返してみた。

なんだか穏やかじゃなかった。

日常生活でひた隠しにしている黒くて醜い感情が滲み出ているような印象を受けた。

せっかく読んでくれている人に向けて申し訳ないなと思った。


そう。今回は反省ついでに書き残しておきたいことがありまして。

というか、思い出したことがあって。


小学校5年性の時に、転校生が来た。

ここではYくんとしよう。

その頃の僕は毎日サッカーに明け暮れていた。

お世辞にも強いとは言えない地域のチームに所属しつつも、プロを目指していた。

そんな中突然現れたYくんはボール扱いが上手で、僕にできないことがたくさんできる器用な子だった。

普段は尖っているくせに、Yくんのそばに駆け寄っては「それどうやってやるの?」と質問攻めする僕をみて、物珍しそうな顔をしているチームメイトの顔は今でも鮮明に思い出せる。

やがて僕たち2人は揃って地域の選抜チームに選ばれた。

物理的に長い時間行動を共にするようになって、少し会話も増えたが、Yくんはどこか居心地が悪そうにしていた。

僕の、所謂『ガチ勢』の圧を感じていたのか、はたまたYくんにかけられていたであろう母親からの期待(僕の目にそう見えただけかもしれませんが)への嫌悪感なのか、彼自身の元々の性格なのか、今となってはもう知る術もないし、当時に戻っても話してくれないと思う。そんな子だった。


やがて小学校も卒業を迎え、卒業文集に関するあれこれが始まった。

制作係は、毎日何通りものお題でアンケートの回答を求めていて、興味のない僕は毎回テキトーにサッと文字を書いては次の子に回すというルーティーンをこなしていた。

そんなある日僕に制作係から声がかかった。

「5年生のトピックでもう1ページ分作らなきゃいけないから、何か書いてほしい」とのことだ。

サッカーのことしか頭にない当時の僕にとって5年生のトピックなんて「Yくんが転校してきたこと」以外になかったから、それをそのまま書くことにした。

絵を描けば文字数を短縮できそうだったので、Yくんの似顔絵も描いたりしながら。

サッカーボールとかも描いたかな。

とにかく「Yくんが僕らのクラスにきた」みたいな記事を書いたのはよく覚えている。

どうせなら(Yくんの抱いているであろう居心地の悪さみたいなものを、この記事で吹っ飛ばしてやろう)くらいのことを考えていた。

もちろん容姿や性格を揶揄するようなことなどは書かなかったし、なんなら(サッカーでこんなに分かり合える子が来てくれてとても嬉しかった)という気持ちで筆をすすめていた。


しばらく経って、卒業文集が出来上がった。

その記事を見てYくんは何を思っただろう。


その後Yくんとは同じ中学に進学し、同じサッカー部でプラス3年を過ごすことになるのだが、特に親交が深まることはなかった。

常に一定の距離感だったと思う。

同じクラスになったり、運動会のクラス対抗リレーでバトンを繋いだり、少なからず関わる瞬間もあったけど、それ以上でも以下もない一定の距離感。


僕らのサッカー部が地区大会で早々に敗退したこともあって、サッカーでかろうじて繋がっていた関係性も希薄になっていた中学3年の後半、Yくんはあまり学校に来なくなった。

噂レベルで色々あったようだと聞いたが、別にそれはどっちでもよくって、

ただただ(あー、来てないんだ。)という感じだったと思う。


当時は気づけなかったけど、Yくんはきっと自分を取り巻く環境にすごく敏感な子だったのだろうなと今は思う。


だからこそ、そんな彼のことを粒立ててしまったあの卒業文集は、Yくんをどんな気持ちにさせてしまったんだろうと、27歳になった今でもずっと考えてしまう。

例えば、他人から無意識下で投げつけられた言葉に対して被害者意識で不満をぶちまけるような自分にふと気づいてしまったこういう瞬間に。


自分が苦しい思いをした時って解像度が高いですよね。

何が嫌だったか、とか。当たり前だけど。


大人になって経験を重ねて、自分以外の人に対しても、統計と想像力で理解することもできるようになってきた。

ここは努力と時間の経過で補えるとも思う。もっと上手になりたい。


でもどうしても、

なぜあんなことをやってしまった(言ってしまった)のだろう

という後悔は後を絶たないし、こういう感情って心のどこかに堆積してしまいがちだから、

「瞬発的な解像度」を上げるのは難しいということを、痛みとともに思い知る。


色々な人がいて、それぞれ適切な接し方や多様な価値観があって、それを理由に不満を募らせる僕の中にも、誰かに加害性を投げつけてしまった過去が多かれ少なかれ確かに存在する。それは認めなくちゃいけないと、今夜改めて思ったのです。


清廉潔白じゃないと悪に立ち向かっちゃいけないなんてことは、僕はないと思う。

でも悪に立ち向かうためには、自分の過去と向き合えなければならないと思います。

加えて、加害者にも被害者にもなりうる未来にさえも向き合わなければいけないはず。


長くなりました。

戒めというか懺悔のような回になりました。

また書きますので、今後とも何卒。


おやすみなさい。

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