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「正解」は死ぬまでわからない

学生と進路面談をしていると、
「どの道を選んだら良いですか?正解がわからなくて悩んでいます」
という相談をよくもらいます。

こういうときは、
安易にこうすべき、ああすげき、ということは一切せず、
じっくりと今ある選択肢一つ一つをいろいろな角度から一緒に吟味していき、最後は学生に選択させています。

なぜなら、誰かの示した道に進むよりも自分で悩んで選んだ道の方が確実に力強く進めるからです。

とはいえ、自分がどうしていいかわからないときや、もしも自分が選択した道が自分にとって不都合の連続だった場合の不安を感じるときに「正解」を求めたくなる気持ちはよくわかります。

さらに、社会人経験がある人であれば、これまでの経験則をもとにそれなりに未来への選択がしやすいものですが、10代~20代前半の学生からしてみれば、自分で考えようにもこれまでの経験が少なく、また膨大な量の情報の中から何をどのように活用していくべきかわからない状態です。

特に「就職」であれば、嫌だったら辞めればいい・転職すればいいというほど簡単なことでもなく、「自分がどうすべきか」にとても慎重にならざるを得ません。

では、どうしたら「正解」を選択できるのでしょうか

私の中では、
「『正解』は選べない、一生をかけて追い求めていくもの」が答えです。

そもそも、何をもって「正解」とするのか。

学生にも、「どの道を選ぶかは一旦おいて、あなたにとってどんな状態になったら『正解』と言えますか?」と問います。

それさえも、そもそもわからないから相談をしてくれているわけですが、「どんな状態か」を聞いているのがポイントです。

「どうすべきか(doing)」はわからなくても、「どうありたいか(being)」なら抽象度が高くてもいいので、考えることができます。
つまり、「どんな状態が理想か?」と言い換えることもできます。
「理想」なら大なり小なり描いているものです。

そして、その「理想」の状態になれれば、その道が「正解」だとイメージしている学生がほとんどです。

だとすれば、当たり前ですが「正解」とは選んだ時点で判明するものではなく、選んだ先にあるものです。

しかし、選んだ道が「正解」に導いてくれるわけではありません。
選んだ道で自分が追い求めていくものです。

そのためには、まずは自分が選んだ道を自分のやれる限り突き進めるしかありません。

ここで不安を示す学生もいますが、「正解は何か?」と誰かに相談したいぐらい悩んだのですから、想定と違ったり、別の道を進む誰かがうらやましく思えたりしても、自分の中で納得できる部分が少しでもあるはずです。

また、そもそも「理想」だって途中で変わることもあります。
それは、自分にとっての「正解」も変わることを意味しています。

だとすれば、自分の選択してきた道が「正解」だったかどうかは、死ぬ間際までわからないかもしれません。

つまり、自分にとっての「正解」は、一生をかけて追い求めていくこと、あるいはその道を自分にとっての「正解」にしていくことではないかと私は考えています。

大事なのはその前提に立脚して、環境はあくまで「ツール」として捉えて、まずは「これで行こう」と判断した自分の選択を自分で後押しすること。

その志が、良いめぐり合わせを生み、自分の人生にとってより良いものとなっていくと信じています。

私の役割は、その選択のためのいろいろな材料を学生がまだ見えていない視点を与えながら見つけるお手伝いです。

(と、学生を励ましつつ実は自分を励ましてもいるのです。)

最後までお読みいただきありがとうございました。



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