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「ヴァージン・ディフィート」 track.3


VIRGIN DEFEAT

 蜃気楼の向こうでは、男が踊る。鍵盤の上で跳ね回っているように軽快な足取りだが、子供がただ、はしゃいでいるだけのようにも見える。男の踊りには引力がある。彼女はその踊りに魅入られてしまった。右肩にかかるエゴバッグの重みが、長い坂を登ってきた両足の疲労が、汗ばむ肌の気持ち悪さが、意識の中から抜けていく。心地良くなっていく。そして平衡感覚が上手く働かなくなっていく。
 男は近づいてきたが、彼女は逃げる気になれず、手を取られるとどうにも胸が高鳴った。命綱のようにエコバッグの肩紐を握りしめると、男は彼女の瞼を手のひらで覆う前、奇術師のように微笑みながら囁いた。

「貴様らは、本当に簡単な生き物だな」

 13号は他の使者と違い、ある特殊能力を持ち合わせていた。
 彼は人間に理想の幻想を見せることができた。



1.


 彼女はいつの間にか、夏の夜の浜辺にいた。隣にいるのは結婚前の夫で、彼は何か企んでる顔をしている。最後の花火が消えた瞬間、彼が波打ち際まで走っていく。辿り着くとTシャツのまま泳ぎ出す。
 彼女はそこで、自分が夢を見ていると自覚した。
 なぜなら夫に対して、こんなにも頼もしいと感じるのが、あまりにも久々だったからだ。

 13号は幻想の世界に誘った彼女を背負い、木陰にあるベンチを探していた。
 彼が人間に対して、幻想を見せてあげられるのは90分が限界で、ミニシアターで上映される作品群のぐらいの拘束時間で、あまり長くは保たない。
 見上げると雲の流れが早く、分厚く灰色がかった雨雲は右往左往する13号を追いかけている。
 13号はそもそもこんな道端で特殊能力を行使するつもりはなかった。なぜなら今のように眠ってしまった対象者を背負い、彷徨うのは効率が悪いからだ。
 それでも幻想を見せたのは、彼女があまりにも疲れた顔をしていて、付け入る隙があるように見えたからだ。

「嫌な予感がするな」

 額を腕で拭いながら、13号は彼女を背負い、街中を彷徨う。


2.


 夫を追いかけて彼女は海に入る。足首から、膝、腰と海が彼女の体を覆い隠していく。前を行く夫は5秒に一度だけ海面を照らす灯台のピンスポットライトで、小さな肩だけが光って見え、その道標を頼りに彼女は水底を爪先で蹴って、泳ぎ始めた。
 泳げども、夫には追いつかない。
 どこかへ行ってしまうような不安に駆られ、水を必死に掻いていると、夫は振り向き、立ち泳ぎをしながら笑っている。
 おいでという声に導かれるように彼女は泳ぎ、辿り着くと縋り付くように抱き締めた。

「泳ぐの上手くなったんだね」
「セイタさんのおかげです」

 硬くあたたかい胸板に包まれると彼女は目を閉じた。それは誰にも邪魔されない暗闇の中で夫、セイタの鼓動だけを聞いていたかったからだった。
 セイタは元々、遠泳の強化選手で、当時、地方アナウンサーだった彼女が取材先で一目惚れしたのが二人の出逢いだった。

 13号はスーパーマーケットの裏にあるウッドデッキに彼女を連れて行き、パラソルのある席で休ませた。彼の顔は萎びた茄子のようだ。
 一方、彼女の顔には起きている時にあった眉間の皺がなく、口も半開きで、わずかな隙間から「セイタさん」という寝言が漏れている。

「どんな人間でも、寝顔はやはり間抜けなのだな」

 13号の特殊能力が効き始めると、人間は強制的にレム睡眠状態になり、夢を見る。そして13号はその対象が見たい景色を見せることができた。
 これは元々、翻訳機のようなものだった。
 多星間同士でコミュニケーションを行う際、その星ごとに確立された対話方法があるため、すぐには接触を図れず、彼らは進化を遂げなければならなかった。
 彼らの母星は地球よりも小さく、銀河単位で考えれば塵だ。
 そんな小さな惑星が広大な宇宙の中で生き存えるためには、仲間が必要だった。進化の過程の中で、彼らは身体組織を使った方法だけでなく、思念を用いた対話方法を獲得することに成功した。それが、13号の使う特殊能力の源泉である。
 だが、13号のそれは解像度や再現性、没入感、全てにおいて並外れており、特に依存度に関してはその対象を傀儡にできるほど強い。

 甘い夢を味わえば、
 簡単には忘れらなくなる。

 〈ムギワラ〉からの使者の多くは、調査員として派遣されているが、ほとんど外国人ツアー客のようなものだ。だが、13号は違う。

 彼はある命令の下で動いている。

「人間を夢の虜にせよ」

 13号は、洗脳兵器としてこの星に派遣されていた。


3.


「はしゃぎすぎです」
「いいじゃないか。二人きりの海だ」
「まるで真夏の子供のようですね。私たち」
「随分、ロマンチックな例えをするんだね、君は」

 これは邯鄲の夢だ。
 浜辺に上がった彼女はまるで自分のことを見下ろしているような気分で、思う。
 付き合い出した当初、セイタは遠泳という競技をもっと多くの人に広めようとしており、彼女はその発信役を担っていた。
 泳ぐことが好きで、海が好きで、地元を愛していて、そんな純粋さがセイタの魅力だった。だが、何よりも彼女を惹きつけたのは、自分を守ってくれそうな力強く大きな体だった。
 初めて握手した瞬間、彼女は抱かれてみたいと強く思った。3年尽くし、費やした、もやしのような男に浮気されたショックで彼女の好みのタイプは180度変わっていた。
 だが、出会った時の夫には同棲している女がいた。
 その女は賭け事が好きで、地元の雀荘でバイトをしており、ライフセーバーとして働いて得た給料や賞金を使い込むことも稀ではなかった。
 だが、女は夫を魅了し続けた。
 夫だけでなく街にいる男たちは全員、一度は女に魅入られ、あれは魔性だと恐れられた。
 女が真珠ならば、彼女はシジミだ。それでも、彼女は諦められなかった。実家に帰るたびに両親への圧が強まっていたからだ。
 わざわざ新幹線で都会まで行き、給料の大半は美容に費やし、食事と睡眠時間をコントロールし、ランニングや筋力トレーニングにも励んだ。

「どうやら、君への好きが抑えられなくなってしまったようだ」

 彼女にとってこの瞬間は、ようやく辿り着いた真夏の夜だった。
 結婚するまではそう思っていた。

 13号は机に伏せたままの彼女を放置して、スーパーで買い物をする。
 朝から何も食べておらず13号はネギトロ巻きを買って、またパラソル席へと戻ると彼女の眉間には皺が浮かんでいた。
 夢の中盤で対象者が苦悶な表情を浮かべているのは、13号にとって初めての経験だった。
 13号はパックを開けられないままで、目を閉じたままの彼女は小さく「セイタ…セイタこの野郎」と唸り、瞼が時折、痙攣している。

「俺は理想の景色を見せているはず。なのに、なぜだ!」

 13号は今までいくつもの人間を夢の虜にしてきた。日本人口の約、14%を服従させることに成功し、中にはそうでない者もいたが、何度も夢を味わせてやると自制心が崩壊することが実験で証明されていた。

「嫌な予感程、よく当たる。起きたらもっと強いヤツ食らわせてやるからな」

 13号は彼女を睨みながら、口の中にネギトロ巻きをひたすら突っ込んだ。そんな時でもネギトロ巻きが美味しく、13号はそれが悔しかった。


4.


 必死の努力の末、彼女は結婚まで辿り着いた。
 式が終わり、日常が始まっても彼女は努力を怠らず、そのおかげか、子供を早くに授かり、女の子の双子が生まれた。彼女はこれ以上の幸せはもうないと思い、それは彼女の夫も同じだった。
 間も無く彼女は育児に追われた。寝ても覚めても子供のことばかりになり、エステも半月に一回が、月に一回になり、やがて半年に一回行ければマシな方だと考えるようになった。
 日に日に顔のシミが増え、乳房や尻が垂れ下がるのは許せなかったが、老を受け入れるしか無かった。
 一方、セイタは相変わらず遠泳三昧の日々で、地元の飲み会にばかり行き、たまに子供を預かってくれるが3歳児を喫煙席しかない居酒屋に連れて行った時、彼女は期待することをやめた。
 家に帰れば「疲れた」しか言わず、好きだった広い肩幅も、大きな体も今では木偶の坊にしか感じなかった。さらにセイタは娘を溺愛していて、なんでも買い与えてしまい、全く彼女たちを叱れなかった。

「君なんだ。君がいい。君じゃなきゃダメなんだ」
「うれしい……」
「この命が続く限り、胸のフィルムに君を焼き付けていこうと思う」
「素敵……です」

 浜辺で二人は朝を迎えていて、彼女は抱き寄せられながら「いや、トレンディドラマか」と心の中で突っ込んでいる。
 だが胸の鼓動はこれ以上ないと思えるほど、高鳴る。
 彼女はふと、思う。このまま、この錯覚の中にいれば楽なんじゃないか、と。
 だが、即座に思い返す。今日は娘たちに夏野菜カレー作ると約束しちゃったんだ、と。

 13号は、彼女が目を覚ましたことに気づいていなかった。彼はネギトロ巻きをもう1パック買い、堪能していた。
 13号は以前、他の使者が人間社会に入り込む際、大家の男を懐柔するために特殊能力を使った。そのお礼に寿司を奢ってもらったことがある。

「この星の人間、特に日本人は祝い事があると寿司を食べるらしく、付き合って欲しい」
「一人で行けばいいだろう」
「きっとこれがこの街での最後の夜になる。少しだけ、寂しいんだ。だからせめて祝ってほしい」
 そんなことを言われ、13号は断れなかった。

 13号は魚があまり好きではなかった。それは彼らの顔面がなぜか恐ろしく感じていたからだ。カウンター席に座って出される寿司は照り輝いていて、やはり、気に食わなかった。
 そんな夜の後、13号はスーパーでネギトロ巻きを買った。彼は最初、生肉が巻いてあると勘違いして買ったため、味に驚いた。
 だが、悪くなかった。
 あとでそれが魚だと知ったが、仇敵がミンチにされているものを咀嚼するのは気分が良かった。そして、今では、彼の食への関心のほとんどがネギトロ巻きへ向いている。
 きっと、13号に今、ネギトロ巻きの食い放題の夢を見せたら、彼は自分自身を虜にしてしまうだろう。そんなことは成立しないが、13号は確実にネギトロ巻きの虜になっている。

「人間の大半は愚かだ。だが、ネギトロ巻きを作った者には感謝しないとならないな」

 ぼやきながら、最後の一つに手を伸ばそうとした瞬間、13号は誰かに下顎を掴まれた。

「おい、お前。出来合いはそんなに美味いか?」

 無理やり顔を上げられた13号は彼女と目を合わせ、驚愕した。

「き、はま…! なへっ、起ひへいる…?」

「私にお前が何をしたかは知らないけどね、夢は所詮、夢なんだよ」

「なぜだ。今までの人間たちは一人残らず、俺が見せる夢の虜となった。夢の中にいれば蔑まれることも、疲弊することも、悔やむことも、貧しさに喘ぐこともない。なのに、なぜ、貴様は帰ってきた。帰ってこられたのだ」

 彼女の瞳に映る自分がまるで魚の顔のようで、13号は怖くなった。

「裸になって愛し合った夏の夜に戻るより、やらないといけないことがあるの。私は帰って、夏野菜カレーを作るのよ!」

 13号には彼女の言っていることがまるでわからなかった。だからこそ、彼女が席を立つことを許してしまった。
 一つだけ残ったネギトロ巻きがパックの中で倒れたままでいる。夏野菜カレーに敗北した13号はウッドチェアに座りながら、悔やむことも、立ち上がることもできなかった。

「人間って……一体、なんなのだ」

 見上げると、秘色の空があった。
 雨雲こそ見当たらないがその青は燻んでいる。
 平日の空は13号が見上げた先にも、帰り道をゆく彼女の頭上にも広がっている。
 もう直ぐ日が沈む。
 雨に降られてはならないと、彼女は家路を急いだ。



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タイトル名、数字だけなのにたくさんの人に読まれてて羨ましいです。
きっと中身の文章がいいんだと思います。こんな方にリクエストもらって僕は光栄だなぁ。




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