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定めること、認めること、赦すこと

当該記事の流れに沿って、つらつらと。

立体構造物としての詞

BLUEGOATS作品 8曲中5曲の作詞を手掛けるマリンさん。
作詞全体に対するスタンスとして、

コンセプトとしての物語把握
俯瞰的/客観的視点からの物語描写
聞き手に重心を移動しての主観的描写

があった上で、本作(「私は大学を辞めた、友達のせいで」)では特に、

・「他者の体験」という媒介を通じてのコンセプト理解という難しさ(つまり、「チャンチーさんの語りに対するマリンさん自身の感想」をコンセプトの出発点にすると、「上手く他の人の体験を歌詞にできるかどうか(当該記事より引用)」という点で、聴き手への「直接性(≒追体験度合い)」が下がるのではないかという懸念)

について語られている。
俯瞰的側面と主観的側面の往還として詩が作られていくということであるが、本作はその「主観」において「チャンチーさん/マリンさん/聴き手」のそれぞれの視点が存在することで、より三次元作業としての作詞活動の難しさが浮き彫りになっていることが読み取れる。

心配と信頼における「垂直関係」と「水平関係」

チャンチーさんの苛烈な生活と、それを支える「想い」に対する、マリンさんの表現。

この戦いからの離脱に対する「心配」と、でも結局は踏ん張れるだろうという「信頼」。
ここでの、「心配」と「信頼」の関係は、まさに「これまで一緒に過ごしてきた生活・文脈の中で築かれてきた信頼を基盤とした、揺れることのない家族的な心配」という「垂直関係」であると言える。
それとは逆に、「心配」と「信頼」が、同次元に水平的関係として存在する場合もある。それは、双方の基盤に「一方的エゴとしての期待」が存在したものであり、そこから生まれる「信頼」は、「あなたを信頼したい」というまさに願望レベルのものであり、実際には思い込みの類でしかない。そうであるが故に、ここでの「心配」も、「(自分の理想から逸脱することへの)不安」として露呈せざるを得なくなる。
結局のところ、「水平関係」から「垂直関係」への移行には、泥臭いまでの人間関係の密度が必要であり、マリンさんとチャンチーさんの関係性がその1つの例なのだと思う。

定めること

覚悟を決めてアイドル一本で活動することにしたから

当該記事より引用

「名前も知らない友達」を恨んでも 私の未来は変わらないまま

歌詞より引用

だからこそ、それを正解にしたくて、頑張っているというか

当該記事より引用

いくつかある選択肢の中で、どれを「自分事」にするのかどれを自身の人生の一部にするのか、を自律的/主体的に決めること。
1つの事象に対しての、複数ある解釈の中で、どれが自身の足を一歩前進させるのかどれがより自身への説明責任を果たせるのか、について自律的/主体的に判断すること。
既に過去の出来事として確定している事象に対して、その因果に関する理由付けにおいて、より未来発展性が高いものとなるよう、現時点での自己の選択肢を自律的/主体的に確定させること。

チャンチーさんの「定める」ことの多義性は、その人生の鮮やかさ(明暗含んでの)に比例するように感じる。

認めること

自分に向き合う(当該記事より引用)」ことを伝えたい。

他の楽曲にも共通すること、そして「何もなくても大丈夫、青いままで。(プロフィールより引用)」に端的に表現されているように、「自分を認めること」を徹底して味わうことが、私にとっての「BLUEGOATSの楽しみ方」なのかもしれない。

「向き合う」というのは、現状の客観的な立ち位置や、尺度化・相対化しやすいスキルの自覚というだけではなく、「それが自己の理想像から、マイナス方向に大きく乖離している場合に、そのこと自体を自覚する」という離人症的作業も必要となってくる。
それが「すごく勇気がいること(当該記事より引用)」の本質であり、それこそが、「死にたい夜でも 私でしかない(『死にたい夜』より引用)」の精神性なのではないか。

赦すこと

2人がこの曲におけるキーワードとして挙げていた「どうしようもない」。
この言葉の持つ意味のグラデーション、もっと言ってしまえば、「諦めから赦し」というポジティブな移行という意味性が、この楽曲のパワーに大きく影響を与えていると思われる。
つまり、楽曲の大部分=この出来事に対するチャンチーさんの感情の大部分においては、「圧倒的な権力関係/既に起きてしまったという強烈な事実/その時点におけるバックアップ環境の脆弱さ」に対する諦めというニュアンスが色濃いわけだが、様々な意味において覚悟を持って「定めた」後からは、「どうしようもない(んだからこそ、それを受け入れて頑張るしかない)よね」という赦しの意味合いに変化しているように感じられる。その前向きさが、聴き手の「歌詞に勇気をもらった(当該記事より引用)」であり、マリンさんの「私も勇気をもらった(〃)」なのだろう。

笑顔で言う「どうしようもない」が持つ強靭さ

この赦しは、単なる現状肯定としても一定有用ではあろうが、「自身に対する、異常なまでの理想視/高いハードルの設定」という軛からの解放として用い、「適切に自分と向き合って、その現状を受け入れ、そこからスタートする」ことで、より一層その効果を発揮することになる。
その流れが、まさにこの曲のストーリーなのではないか。

現状に対する確固たる自信という裏付けがあっての「どうしようもない」は、後ろを振り返ることなく笑顔で人生を走っていけてることの、1つの証拠になるはずである。

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