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「私」が「私」に認められることでしか、他者から真に愛されることはないというお話

当該記事と『ねえ、あのね』の歌詞の流れに沿って、つらつらと。

近くて遠い「親」

「自分のやりたいことが親に言えなかった(当該記事より引用)」
「昔は習い事もたくさんやっていたけど、それも全部自分がやりたいって言ったやつじゃなくて、親に勧められたやつだったし(〃)」
「何も言わずに成功した方がカッコよくない?みたいな(笑)(〃)」

物理的距離として、誰よりも近くにいることが多い存在である「親」だからこそ、「意識的にコミュニケーションを取りながら、互いの心理的距離感を把握する」ことが異常に難しい。
「近くにいるし、自分のことを一番知っている<はず>の親なんだから、何も言わなくても伝わるよね」という願望と、「とはいえ、もし何か伝えたときに、自分の想定とは違う反応をしてくるかもしれない」「初めて自分からやりたいと思ったからこそ、否定されたら怖いな(当該記事より引用)」という不安
この狭間で揺れ動く「私」が書いた歌、そう評してもよいのではないか。

自分を一番近くで愛してくれている存在だからこそ、その「本音」を知ることが怖くて、誰よりも遠くに心を置いてしまう。
いつまでもそんな状況ではいられない/いたくない、そう決意した人の魂の叫び・勇気の迸りこそ、「ねえ、あのね」なのであろう。

近くて遠い「子」

「親からも、あんたは中途半端ね、って言われることが多かったです(当該記事より引用)」
「私は99点取ったことを褒めてほしいのに、親は取れなかった1点の話をすごいしてくるんですよ(笑)(〃)」
「今考えるとそういう方針も違くない?って思うこともあるけど(〃)」

「おまえが長く親を覗くならば、親もまた等しくおまえを見返すのだ」とニーチェ大先生が言ったかどうかは知らないが、「自分が相手をそう思っている/捉えているときは、たいてい相手もそうである」と構えておくことは、1つの処世術としての効用は高い気がする。

一番愛している存在である「子」だからこそ、「こうあってほしい」という願望は指数関数的に増加していき、目の前にいるリアルな「子」から乖離してしまうことは多々ある。

それに対する「親」の、言葉にはできないもどかしさ。
『ねえ、あのね』にB面があるのだとすれば、それは、そんな気持ちを歌ったものなのかもしれない。

私よりも望まれていた私

歌詞に喰らわされることなど殆どない私が、強烈にやられたうちの2曲が『ねえ、あのね』と『死にたい夜』。

双方に共通している(と勝手に思っている)テーマこそが、「私」の二重性「私」の中にある「規範としての私」と呼ぶべきものである。

どういうことか。(※1)
『ねえ、あのね』では、「親にずっと隠していたことを話(当該記事タイトルより引用)」し、その体験を省察することによって、「結構2-3か月くらいかかってやっと答えが出た(当該記事より引用)」というように、一度はカタルシスを得ているように思われる。
しかしながら、そうやって生み出された詞の中には、「また何も言えないあたし」「いつかは言えるかな」「そんな夢の話」と、未だすべての解放に至っていないかいなさんの心情が吐露されている。

これはもちろん、「親に話せたこと」はアイドル活動をしているということだけであって、「いつかは言いいたいこと」は、「抱きしめてほしかったな(歌詞より引用)」「愛されたい(〃)」というより本源的なものであるということであると理解できるし、そうするのが素直な読み方であろう。

しかし、「実はそれだけではないのではないか」というのが、本稿の主たるテーマである。

そのキーとなるのが、「私よりも望まれていた私(歌詞より引用)」である。ここに、「私」の二重性「私」の中にある「規範としての私」が規定されていると見るわけである。

インタビューにおける彼女の言からも明らかなとおり、この部分は「親から期待/理想視されている背伸びした自分」であると理解できるが、先のニーチェ大先生の「親と私は鏡合わせ」の理屈を借りれば、「私自身の中に存在する、私自身が構築した「規範としての私」」という意義もあるのではないか。
つまり、最初は親から勧められ、期待されながら「理想的な自分像」が外発的に構築されていくわけであるが、いつからかそれが「自分の行動基準として、自分の内側から語りかけてくる審判者としての自己」という形で、内発的に強化・定着されていくという過程が表現されていると捉えるのである。

何か自分が行動を起こそうとしたときに、「本当にそれで良いの?」「そんな選択するのって、自分らしいの?」「もっと頑張った方が良いんじゃないの?」などと内側から語りかけてくる、「規範としての自分」という存在。
「でもそれを表に出すのは恥ずかしいというか、よくないことだと思っていて(当該記事より引用)」と彼女に思わせた、「規範としての彼女」という存在。

当然この「自己対話」に向き合うことで、自身の限界を超えるような、一皮むけるようなチャレンジをすることもできるだろう。
しかし、ただただこの「規範としての私」を盲信し、この存在が肥大化知ればするほど、リアルな実態・スペックを有した「等身大の自分」とかけ離れることになり、自分を苦しめることにつながることもある。
それは最終的に、自己を孤独にし、「何のためにするのか」という大義・使命感を捨象した、「ただの無理・無茶」をする生き物に変貌させてしまいかねない。

「親/周囲からの評価に応えようとする自分」と、「規範としての自分からの評価に応えようとする自分」との板挟みで悩みもがく「あたし」。
この歌は、そのようにも読み取れるのである。

ちなみに、もう1つのアプローチもある。
それは、歌詞の中での一人称が、「」と「あたし」で揺れていることに着目するものである。
「あたし」は、口語的=等身大の自分(「規範としての私」が嫌う自分)を表現するときに使用されていると考えれば、あえて「私」として表記されている「私よりも望まれていた私」では、別の意味合いが込められているのではないか(つまり、上記のような「私」の二重性の話)、と推察するやり方である。

承認欲求と「愛するということ」

「でも、書いていくうちに、それは親だけじゃなくて、誰かに認められたい欲求が強いんだと思うようになりました(当該記事より引用)」
「今思うと、承認欲求があるからアイドルになったんですけど(笑)(〃)」

「承認欲求」というのは、一般的に「不特定多数の他者から認められること・称賛されること」という捉え方をされることが多いし、そうした理解が間違っているというわけでもないが、彼女の言うそれは、もう少し狭義的なように感じる。
つまり、認めてくれる対象は誰でもいいというわけではなく、「私も愛したい特定の人たち」なのではないか。その規模は、彼女のアイドル活動によって、数百人から2万人、それ以上へと増えていくことにはなるだろうが、どこまでいってもそれは「不特定多数」ではなく、「私も愛したい特定の多くの人たち」であり続ける(これは、こちらの勝手な願望なのかもしれないが)。

ここで厄介なことが1つ。
承認欲求、つまり「周囲からポジティブな評価を得たい」というところからスタートしてしまうと、それが「周囲が求める理想の自分」を創り出し、「過剰な要求をする規範としての自己」に転化する危険性にどう対処するのかという問題である。

しかし、これに対して、その方法を検討している本が存在する。
それこそが、あのエーリヒ・フロムが著した『愛するということ』なのである。※彼女が買った(とインタビューで語った)ものと同じかどうかは分からないが。

どちらかというと、ファシズムに対する心理学的考察を展開した『自由からの逃走』の方で知られているかと思うが、この『愛するということ』も、『自由からの逃走』でキーとなった「孤独」に対しての考察を軸としており、フロムの人生観が色濃く出ている作品と言える。

この本をきちんと説明するには、それなりの準備が必要なので、ここでは本当にエッセンスの中の一部だけを恣意的にかいつまむことにする。
フロムは、「他者への一方的な見返り要求からスタートする行為は、当人をより孤独へと押しやってしまう」と言う。
しかし、その孤独によって、「他者から愛されたい」という欲求が生まれてしまうという矛盾(のように見えるもの)が生じてしまう。

だからこそ、フロムは言う。
「愛することは技術であり、それを学ばないと、真に愛は理解できない」と。
そして、その要点として、

・相手のことを適切に観察・把握し、確固たる根拠をもって相手を信頼し、「どんな反応が返ってきてもかまわない」と、勇気をもって能動的に相手に働きかけること。
・それができる人こそ、自分自身も愛することができる。

ことを挙げる。

確かに非常に難解であり、ここでの「愛する」ということも非常に普遍的で、個別具体的事象への即効性があるかと言われるとすぐに首肯は出来ない。あくまでも、哲学的・心理学的に「愛する」行為を深く考察するときに力を発揮するものと捉えて良いと思う。

そして、彼女はまさに自身のリアルな体験と苦悩を通じて、フロムが言った「技術としての愛」を体現したのではないか、と自分は考えている。

「でも、そういう自分がいることを受け入れる。そうしないと、そもそも愛されるということに気づけないと思うようになりました。親も多分私を愛していると思うんですけど、それを否定していたのは自分自身だったんだと思います(当該記事より引用)」
「だから、もっと素のままでいようと思っています(〃)」

等身大としての自分を受け入れた上で、相手(親)を理解しようとし、行動(親にずっと隠していたことを話し、作詞をする)する。
まさに、これこそが「愛するということ」なのだ。
こうした「等身大の自分の受容」からスタートした「承認欲求」は、「愛されたいものから認められる」ことへの豊かなチャレンジへとつながりやすくなるに違いない。

自分と向き合うという永遠の作業

とはいえ、常に変化・成長している自分自身と向き合うには、常にその立ち位置は移動し続けなければならない。そして、愛したい他者も変わり続けている存在であるということ。

そう考えると、彼女の苦闘はこれからも続くし、それこそが「生きることの美しさ」であるのだと強く感じる。

「推測ですけど、向上心のある子に育てたかったのかな?(当該記事より引用)」
「私が自分から初めてやりたいって言ったし、決めたことだったからかな?(〃)」
「なんとなくわかってたけど、聞けなかったんだと思う(〃)」

こうやって、言語化しながら相手を理解していくことこそが、相手、そして自分自身と向き合う過程なのだろう。
そうやって紡ぎあげた歌詞を歌うこと(深い主観性)で言語化し、また客観的に捉えて言語化する。この主客往還での言語化の中で、自身を、これまでネガティブに見ていた過去や存在を愛し直そうとする試み。

そんな彼女を、愛らしく思わないわけがない、いじらしいと思わないわけがない。
そういう人たちが、横アリを埋め尽くすのだろう。

大蛇足:韻踏みおじさんの一言

昨年から急激にHIPHOPに傾倒し、「四畳半で倶楽部」として2曲ほど曲も作っている「三度の飯より韻が好き」おじさんとして、

・「1人でも歩けると」ー「誰にでもなれるよと
・「いつかの繰り返し」ー「また何も言えないあたし
・「ひとりきりの帰り道 泣いてみても」ー「愛するばっか 愛されないないつも

の気持ち良さに触れないわけにはいかないわけで。

※1:『死にたい夜』に関しては、別記事で改めて。

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