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swallowtail butterfly

どうしたらこの社会が良くなるか、というのがひどく傲慢な問いだとしたら。切実さと愛着の激しさが一切を決する、そういう場所に立っている現実の女たち、おとこたちがいるので、彼らは掴んだものは離さないだろう。ぐいとひきしめて日常の起居をしている。俯瞰で見ることはしないできないし必要がない意味がない、生まれてきたので生きておりそれが全て、離しちゃいけないものは獲得している。人が生きていくのにシンプルな哲学があれば十分。うるさすぎるくらいだ。初めに言葉があった、違うね、内容が先だ。決まってるさ。あなたに伝えたい感情があったの。伝えないと危ない事情があった。だから叫んで。音に意味を持たせようと願って。願いが祈りが感情の強さがそんなことを形作ってきたんだ。玩具にしたらいけない、言葉を。冗談がまったく先鋭でない。面白くもない。笑わせるための象徴ではお前たちなかったんだよ。1996・swallowtail committee。本当の話だったんだ、掬い上げる手つきが見事で。心は動かされた。共感ではなかった。私の知らない人たちの話。理解をすることで、完結した世界を壊したくないと今の私は思っている。どこからこんなにソーファッキン臆病になっちまったかね。美しさが意味を持たない世界で、その男は歌に憧れたの。彼の瞳はなにを見たのだろうか。どんな感傷が耳を酔わせたのでしょう。La/la/la.

疑似家族的な共同体。

映画スワロウテイルを観て

登場人物たちは、移民で、たくさんの言語を話します。
中国語、日本語、英語。
覚えた場所と習熟度によるトーンの多彩な濃淡が、ひどく魅惑的に映りました。それは所謂舌っ足らずのエキソティズムつう既成の価値観を我がこととして呑み込む単純さから、もっとも単純な唸り声が意味性を獲得しいつしか象徴の玩具に至る、その間に通ってきた確かな一地点を目の当たりにしているという胸の奥のふるえまで。あの響きをモノにするためにすべての設定が組まれているんだとしてもよかったぐらいだ、主役は言語、言語、言語なのだとしても。
彼らが発するかたことの日本語は、ふんわりした日常の言葉に比べてずっと地に足がついたもののように感じられました。喋っていたいがためだけに話す、私の言葉よりも遥かに。
前半のハイライトはサードカルチャー男、すわ!タイトル回収かと思わせておいて「サード・カルチュア・キッズ」はへっぽこ痺れました。終盤では無数のこどもたちが各地域の頭領の手足となって両替機をかけめぐるところの、結束と期待と倦怠と諦観とのいりまじったなんともいえない空気がとんでもなく「現場」で凄かった、あとは借金で命を売った男・ミスタ淺川が紙幣を燃やすところが痛快でした。ロン アズ 渡部篤郎がほんとうにいい男だった。本当に、ありがとうございました!と言いたいです。

awichやジャンメンのいる
¥ENTOWNの名前の由来を探していたら出てきた映画、charaがすきなのでみたけれど
charaもっとすきになった!

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