わたしの東京国際映画祭2023
東京国際映画祭、今年は豊作だった。見たいと思った作品が多かったし、実際に見られたのは8本だけど、見てよかったと思う作品がほとんどだった。わたしがそう言うってことはつまり、女性の生きづらさや、そこから立ち上がる姿や、女性同士で連帯する姿を描いた映画が多かったということだ。見た順に感想をメモしておく。ネタバレあると思うので自主回避よろしくお願いします。
オープニング作品『PERFECT DAYS』
「みんながもう忘れてしまったこういう暮らし方って豊かだよね?」というワンメッセージの映画だった。架空の人物の暮らしを追うドキュメンタリーっぽい。モキュメンタリーっていうんだっけ。
役所広司演じる主人公は優しく、いつでも誰のこともにこにこ見ていて、美しいものを見つけるのが上手で。古い車でカセットテープの音楽を聞いて、古本屋で買った文庫本を読み、機嫌よく銭湯に入り、安居酒屋や安スナックで静かに飲む。決まった場所に置く鍵束。霧吹きで植物たちに葉水。車に乗り込む前に買う缶コーヒー。そしてトイレ清掃の仕事を、信じられないぐらい丁寧にやる。
画面に映る光景はどれも魅力的で、悪人は出てこないし、極上のヒーリングムービー。今すぐにでも、餃子でビールを飲みながらもう一回見たいような作品だ。
ただ、東京を舞台にしたこんなに心安らぐ暮らしの映画をドイツ人監督に撮られると、暗にお説教されているようなモヤモヤ感が少し残る。実際の東京にはもっと攻撃的な人たちがたくさんいるし、主人公がぶらつく昭和レトロ風のすてきな街並みは今もう都内にそうそうないし。こんな東京ならわたしだってにこにこするわ、でも実際には違うからできないんだよ。そう思ってしまう。
どうも、モヤモヤというやつは文にしてみると大仰になる。実際に感じたモヤモヤはそこまででもない。
柄本時生演じる若い清掃員が「10段階で言ったら2ですよ」とか何もかもを10段階にしてしまうところなんか好きだった。石川さゆりの歌うシーンがかっこよくて、くるりの岸田さんに見せてあげたくなった(前にライブのMC中にさゆりさんの歌を誉めていた)。岸田さん、そういえば炎上しているのだった。こういう東京、こういう日本である。
舞台挨拶では監督がひたすらにこにこして時におどけて、俳優陣の言ったことに応えたり付け足したりして“いいひと”がにじみ出ていた。役所さんが「監督は飛行機が4時間遅れてまだ時差ボケが取れていない」と明かすと、監督は役所さんの肩にこてんと自分の頭を乗せてみせた。
アヤ役のアオイヤマダさんは「ヴィムさんはこの映画を撮り終えるというゴールに向かうときに愛を捨てなかった」と話した。ゴールが見えていると、それに着々と向かうために、合理的になったりして愛やその他のいろいろなものを捨てる人が結構いるけど、監督はそうではなかったんだと。
MCは映画パーソナリティの奥浜レイラさん。抜群の安定感があり、むずむずハラハラしない。ありがたい。
帰りはちょっと災難だった。初めて訪れたヒューリックホール東京はビルの11階にあって、終わったら21時半とかでエスカレーターはもう動いていなかった。エレベーターは混むので階段を使うことにした。階段はウェス・アンダーソンっぽいピンク色をしていて「火元責任者」の札が掲示されていて、ああ、平山みたいな人に支えられてここがあるなと思った。
しかし、わたしの中に芽生えた優しい気持ちの寿命は短かった。階段は8階までしかなくて、そこから下はやっぱりエレベーターに乗らないといけないのだった。エレベーターは8階でいちおう停まって扉が開くけれど、11階から人を満載している。最初からエレベーターを選択した賢い人たちをあらかた運び終えるまで階段組は8階で待ち、待ち始めの1秒2秒ぐらいでわたしは火元責任者の札がいとおかしだった時代を通り過ぎていた。係員の人はどうして、階段では下まで行けないことを教えてくれなかったんだろう。この後の銀座線もどうせ混むんだろうな。ちぇっ。ヴィムさん、これが東京です。
コンペティション部門『ゴンドラ』
色使いにほれぼれした。ファンシーでかわいいけれど目が疲れない。濃淡のつけ方がいいのか、画角内の全てにピントが合ってしまうガラケーの写真みたいなしんどさがなかった。
ゴンドラは思ったよりだいぶゆっくり行きかう。乗務員の2人の女性はかわいくて最強。チェスも強いし、図画工作も得意中の得意だし、楽器も鳴らせる。この2人はどこから来てどこへ行くのだろうか。
全編セリフがないことは全く気にならなくなる。ゴンドラの下の森の中にぽつぽつと農家や畜産家が住んでいて、その人たちもみな優しい。
いやなやつは、ゴンドラの駅に詰めている男性上司(役名がボス)だけ。女たちが自分と無関係に楽しんでいるとものすごく腹を立てる。この人物を配置したおかげで、ファンタジックなこの映画がわたしたちの住む世界につなぎとめられているのは皮肉なことだ。しかし、だから、映画に込められたエンパワメントの意図が届きやすくもなっている。わたしは今回の映画祭で見た8本の中で、この映画が一番好きだった。
コンペティション部門『タタミ』
イラン政府が棄権を命じるのは、このまま勝ち進んでイスラエル選手と対戦するわけにいかないから(イランはイスラエルを国家として認めていない)。実際に似た事件がかつて男子柔道で起こっていて、それをもとに映画を作ったのだそう。イラン人とイスラエル人の共同監督による初の長編映画になっている。
大会中に柔道連盟からコーチに最初の電話が入って、そこから指示が命令に、命令が脅迫に、とんでもないスピードで変わっていく。この緊迫感がすごかった。色彩を排除し、画面サイズも横が狭いものを選択しているので、息がつまる感じ、余裕をなくして視界が狭まる感じを味わうはめになる。
柔道の試合もスピード感や技の描写などリアル。ヒジャブを着けて戦うレイラが、それでも最初のうち絶好調なのもよく伝わってきた(それだけに棄権を強いられるのがとても辛いこととして映る)。
選手とコーチの関係は、もう少し感動的に描こうとすればいくらでもできただろうなと思う。正直、映画の観客の生理としては、ハリウッド的な盛り上がりを欲してもいた。でも、わたしたちがこの映画を感動的なヒューマンドラマとして消費するのを、監督は防ぎたかったのかなと感じた。
この映画では実際の事件から選手やコーチを女性に変更。彼女たちに手を差し伸べる世界柔道連盟の理事も理事長も女性になっている。監督は「女性を勇気づける映画にしたいと思った」と話していた。
ユース部門『私たちの世界』
学んで稼ぐ手段を得たいと思っているのに、大学の講義が休みになってばかり(コソボは紛争復興国で、慢性的な教員不足)。コソボの学生が直面する理不尽さや閉塞感がひりひり伝わる。それでも若い彼女たちに青春があるのが幸いのようでもあり、彼女たちの胸をさらに痛くしているようにも見える。
男女6人ぐらいの群像劇になるのかと思いきや、最後いきなり、村から出てきた幼なじみ2人、すなわち最初から画面に映っている2人の間で、ヲタク用語でいうところのクソデカ感情がぶつかり合って終幕となる。えー。コソボの学生たちが迷い込む袋小路とかの社会問題を描いていたと思ったのに、そんな痴話げんかみたいな終わり方あるかな。
粗削りというか、台本のまとまりは正直よくない気がする。でも邦題の通り、今まさに感じている気持ちやそこにある空気を伝えたいんだという監督の初期衝動みたいなものが前面に出ていて、こういう映画は出来がいい悪いにかかわらず好感が持てる。監督は『燃ゆる女の肖像』で使用人のソフィを演じた女優のルアナ・バイラミ。長編2作目らしい。
ラストシーンは悲劇的な結末を示唆していると解釈することもできそうだけど、わたしはそうしない。
アジアの未来部門『ラ・ルナ』
移住してきた女性店主と、シングルファーザーで年頃の娘が心配でたまらないイケメン警察署長のラブコメが始まったり、ベタな笑いがたくさん挟まってきたり、わりとお約束の通りにストーリーが展開していったりして、テーマのわりには脚本や演出が古めかしいのかなと思った。でもそれは見やすさにもつながっている。
最後のほう、村のその後を点描するくだりで、短いけど、若い宗教家が笑いをまじえて村人たちに教義を伝えているシーンも。『ウーマン・トーキング』を見たときにも思ったけど、教育って大切だ。
ティーチインで監督が「変化を受け入れることがテーマだった」と話してくれて、はっとした。前時代的な村のあり方を主人公たちが打ち破ったというヒロイックなストーリーに見えていたけれど、確かに、主人公を受け入れた村人たちのほうが英雄だったのかもしれない。
監督はまた「この世に悪い宗教はない。どの宗教もいい教義を持っている。ただ、宗教を使って人々を支配しようとする悪い人がいるだけ」と言っていた。
ユース部門『パワー・アレイ』
ブラジルでは人工妊娠中絶は犯罪で、中絶した女性は懲役1~3年、医師は1~4年。
画面の中にエネルギーをぎゅっと閉じ込めたような作品だった。中絶を断固阻止したいキリスト教(カトリック)原理主義者たちも一種異様な熱を帯びているし、ソフィアを救いたい仲間たちの友情も熱い。音楽も猛々しい。
チームはみんな下品な冗談が好きだし、万引きなどの軽犯罪もするし、誉められた子たちではないけれど、ソフィアが強豪チームに奨学金付きでスカウトされると喜んで応援するし、妊娠が分かれば中絶費用を工面しようとするし、反対派の悪質な嫌がらせにも対抗しようとする。一人の例外もないのがうれしい。女性の集団には嫉妬や羨望や陰湿な対立がつきものと決めてかかった描写にはもう飽きたので。コーチもいい人。トランス女性らしき選手もチームにいて、誰も彼も受け入れるのがコーチの方針だと劇中で説明されていた。
ソフィアとピンクのメッシュが入った髪のチームメイトと恋仲になるところはいささか唐突に思ったけど、2人がジェスチャーゲームをするシーンが無邪気でなんだか泣きたくなる。
ソフィアの父が養蜂家で、採取した蜂蜜を瓶に詰め、蓋を閉めたところに火を当てて密封するシーンがあり、これもなぜか心に残る。これ一瓶で彼はいくら手にするのだろうと思った。
1990年代後半から2000年代まで、バレーは会場でもテレビでもよく見た。ブラジル女子は常にメダル圏内にいた。映画で少女たちが「ナショナルチーム行くぞ!」と言っているのを見て、あの強いブラジル代表にもひょっとしたらこんなふうな生まれの選手もいたかもしれないんだと、今さらのように思った。
ワールド・フォーカス部門『女性たちの中で』
こちらも人工妊娠中絶が違法だった頃のスペインを舞台にした話(スペインでは1985年に、妊娠が強姦による場合、胎児に異常がある場合、母体に身体的・精神的な危険が及ぶ場合の中絶は合法化された)。
ベアの何もかもが不服そうな、いつでも怒っているようなまなざしが忘れがたい。それから、いくつかのセリフ。
「いい子は天国へ行き、悪い子はどこへでも」
フェミニズムのための社会運動をする女性グループのアジトが港にあって、そこの屋上だったか建物の周りで彼女たちが口々に言っていた。
「うちの家系では母親が娘を憎む」
ミレンがお祭りの夜に両親との折り合いの悪さをベアに告白するとき、このように言う。家系とか血筋とかであらかじめ定められているかのような言いぶり。
「人生の大事なことは頭ではなく心で決める」
これはどこかで聞いたようなセリフだけど。刑務所に収監されているベアの父が面会に来たベアに語ること。この父はいいやつというか、娘に対していいやつでいなくちゃなとちゃんと思っているやつ。
「子どもは借りもの。人生から預かっているだけ。いつかは返さなくてはいけない」
車の中でベアの母親がベアに言ってやること。「神様から」とか「未来のあなたから」とかでなく「人生から」なところに、ひどく納得させられる。
観客賞受賞作品『正欲』
東京国際映画祭の観客賞は、会場と上映開始日時だけが決まったチケットが先に売り出され、映画祭最終日17時からのクロージングセレモニーで各賞が発表されて、19時に上映が始まる。観客賞は例年邦画が強いのでだいたい予想がついていたけど、『正欲』が受賞してこれから自分がそれを見ることになったと分かったとき、少しうれしかった。2年半ぐらい前に朝井リョウの原作小説を読んで、わりと気に入っていた。
映画では夏月が欲望に耽るシーンの演出が白眉と思った。
俳優陣では磯村くんがよかった。彼は「きのう何食べた」のジルベールだったり、華のある役を演じてもしっくりくるのに、本作ではいわゆるオーラのようなものがしっかり失せている。
東野絢香さんは、ザラつくお芝居を見せてくれる。糸状乳頭だらけの猫の舌で心をざりざり舐められているかのようで、彼女が「メンタル強め美女白川さん」の林檎ちゃんだとは到底気づけない。原作では彼女の役が最後のページを担っていた。
いわゆる普通の男女のセックスを、その欲望を持ち合わせない二人が形だけ再現してみるシーンも、分かりやすくて好きだ。こうしてみるとこれもたいがい変てこだし、正気でできるようなことでもないし、なんでこれが「正」になったのかと思うし、こんなのが「正」なら他も「正」でよくないか――。みんな一瞬は少なくともそう思ったかもしれない。わたしもまんまとそう思った。
この観客賞、平日19時からの上映なので、シネスイッチ銀座には5分10分遅れて入ってくる人もいて、途中、後ろのほうから「さっさと行けよ!」と怒鳴り声が上がった。遅刻客が自分とスクリーンの間を横切るときにもたもたしていたのが許せなかったらしい。
映画館での迷惑行為は老若男女問わずいろいろやる人を見てきたけど、こういうときに女性の怒鳴り声を聞いたことはない。一度もない。いつも、前に聞こえてきたときとそっくりな声がする。主人公がDV被害に遭ったり、遭った人に連帯したりする映画でもそういう声がとどろくことがある。そういうときは、なんで彼はこの映画を見ようと思って、うっかり思ったとしてなんでまだ帰らないんだろうと思う。思うけど、思ってもわたしは怒鳴れない。
実に、女性に生まれただけでもうマイノリティ。この国ではそうなので、だから「正欲」みたいな小説や映画を待っている人が存外多いのかもしれない。
映画は終わり方が原作より寺井検事に対して辛辣で痛烈だった。フェードアウトじゃなしに、ジャン!と終わる音楽のようでさっぱりした。
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