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再適化 reoptimize

ああ、ずいぶん遅い時間まで起きてしまいました。
空には月が出ているかもしれません。
いや、今日は夜半から雨の予報だったかも。
いずれにせよ私はベランダの扉を開けたりはしません。花粉が入ってきますからね。
だから月が出ているかどうか確かめる術はありません。正確にはネットでなんらかのライブカメラとかを探せばいいのかな。まぁしませんが。面倒くさいから。

今私は二つのことを言った気がします。
ひとつは花粉症によって私の行動の選択肢が奪われているということ。つまり不可抗力による可能性の喪失。
もうひとつは実際に可能かもしれないライブカメラ検索をしないという不行動の選択。つまり自らの意志による可能性の放棄。
面倒だからやらないということに関して、それをも不可抗力であるという考え方もありましょうが、それはいったん措かせてください。

月は見えません。
私の目にはベランダへのガラス戸、も見えません。カーテンで覆われていますから。
さて、どこから話しましょうか。

私は今、ちょうど空っぽで、話したいことは何一つありません。
ですから、あなたから訊いてくださったりするとありがたいです。
何故空っぽか、ですか。
それは私がここしばらくの間、ずっと同じことだけを考え、ずっとそのことについてだけ口にしてきたからです。
そしてそれは終わりました。

同じことを考え続けるというのは、実はとても難しいのです。脳の同じ部分を使うからか、擦り切れていくレコードのように、考えるための力は疲弊していきますし、
記憶の劣化と改変によって、考えるための材料自体の鮮度は落ちていく一方でした。
最初のうちは、この迷宮から出ない、と決めた私でしたが、もはや迷宮の壁すらも曖昧にしか感知できず、迷宮の内と外の区別もつかないような状態です。

また、ずっと同じことを言い続ける、というのも難しい。
単純に飽きますし、自分の言葉が自分の記憶を侵食して改変したり変に固定化したりするのも気持ち悪いです。
私は詩人ではありませんので、同じことを言い続ける場合は、文字通りの意味で「同じことを言う」ことになってしまいます。

詩人だったらよかったのにとは本当に思います。
お金持ちであることを誰にも知られていないお金持ちか、或いは詩人になりたかった。

なりたかったもの、ですか。
幼い頃は小さな世界の主になりたかったと思います。それをこの社会の言葉に翻訳して「なんでも屋さんの店主」などと言っていましたが、私は商売がしたかったわけではありません。閉じられた空間を自分の好きなものだけで満たし、そこにずっと居続けたかっただけです。客なんか来ないのが理想です。
なりたいものを職業に翻訳しないといけない時点で、歪みは始まってしまっています。

ロールプレイングゲームで、演じる役割の種別を「職業」と言うのは何故でしょうか。“class”を「職業」と最初に訳出したやつが悪いのでしょうか。新和か? エルフが「職業」かよって話ですよ。
夢という言葉もありますが、たとえば「ロックスターになりたい」という夢って、たくさんの人の前で演奏するとか、たくさんの人に音楽が聴かれることであって、「それで暮らしていける」ことじゃなかったはずではないでしょうか。

「夢は見たほうがいいよ、叶わないけど。」という賢明なる先人の言葉があります。
けだし名言、と思う一方で、それも一種のエネルギーを持つ側の人の、
つまり強者の論理だよなと感じないでもない昨今です。
つまり、夢を見る、追いかけるという運動それ自体が美しく、人生を豊かにするのだということなのかと思いますが、今やそのスタンスをとるために立ち上がるのも難しい。
そんなわけでこうして部屋で膝を抱えているわけです。

そうですね、自己憐憫です。
というか私は自分を哀れむことだけをずうっと続けてきたようです。そのかわり、ほんの少しだけ、他人を哀れむようにもしていたと思います。自分への哀れみの2、3パーセントくらいのボリューム感で。
それも広い意味での自己憐憫なんだよというのも正論ですねぇ。
世界を哀れむことで世界が本来的にもっている哀しみと、自分の哀しみを同一視しようとしていたのかもしれませんね。

空っぽの私が空っぽの世界とぴったりと重なるような、皆既日食のような瞬間が訪れてくれないかと、今はそんなふうに思っています。

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