再適化3
静かな夜ですね、
と言いたいところですが、耳を澄ますと電子機器の音や通気口からの換気音が聞こえます。
全く何も聞こえない状態がないように、全く何も考えていない状態になれたことがありません。子どもの頃からそれを当たり前のこととして受け入れてきていましたが、どうやらみんながみんな、そういうわけでもなさそうですね。
誰かが言っていた言葉で、自分の性質を表すのにピッタリきた言葉があるのですが、私は「常に気が散っている」人間です。
幼い頃は姉と子供部屋で遊びながら、居間でしている両親の会話に突如割って入ったりして驚かれ「(10人の話をいっぺんに聞けたという)聖徳太子みたいやなぁ」などと言われて、自分が何かの特別な能力をもつ人間かのように勘違いしたりもしていましたが、何のことはない、単純に集中力が無いのです。あったとしてもごく短い時間しか続かない。
耳寂しいから音楽でもかけましょうか。
ああ、これにしますか。いいですけど、すぐ終わっちゃいますよ。
このCDは2枚組なんですが、2枚合わせても普通のアルバムと収録時間は同じくらいです。1時間弱くらい。なんでわざわざ2枚に分けてるかっていうと、レコードを意識してるんですね。レコードは、A面を聞いたらB面に裏返すという作業がある。その手間をかけさせたい。
単なるアナログへの郷愁だけじゃなくて、「人間の集中力はそもそも30分程度しかもたない」というデータだか思い込みだかに基づいてそうしていたような気がします。曖昧ですが。
その話を当時高校生だった私は福音のように、いやそれは言い過ぎですね、「ちょうどいい言い訳を得た」くらいの感じで受けとりました。
でも周りを見ても、みんな30分以上集中力が持続しているように見えるんですよね。
いい曲ですねぇ。このボーカルの方は若くして亡くなってしまったんですよ。
残念か、と問われたらとりあえず「はい」とは答えますが、ホントのところはそれほどでもないかもしれません。冷たいですね。
いや、大好きなんですよ。この人の音楽は。
でもバンド時代のアルバムが7枚、ソロになっても4枚、その他のユニットで出したアルバムなんかもあって、「これだけ有れば十分」という気持ちもどこかにあるんですよね。
もちろん今彼が生きていて奏でたはずの音を聴いていないからそんなことが言えるのかもしれません。
でもどうなんでしょう。
一人の人間が一つの才能から享受できる悦びの量って、最大値が決まっている気がしませんか?
集中力の話でしたね。
今のくだりでもお分かりのように、私の話はあっちへ行ったりこっちへ行ったりとふらふらし通しです。なんか、思ったらそれをすぐに口にしないと、という強迫観念があったりもするんですよね。ああ、でもそもそも集中力があれば、別のことを考えたりすらもしないわけか。
だからかどうかは自分でもわからないのですが、私は言葉を紡ぎ始めたものの、しばらく書いていると、その話を収束させたくて仕方なくなるんです。
飲食店にいて食べ終わったら長居できない感覚に似ています。ええ、喫茶店でもそうですね。客の長居がある程度想定されているお店でも、私は追い立てられるような気持ちで店を出るのが常です。
そんなふうに、ずっとこの話を書いていられない、となって、尻切れトンボだろうが辻褄が合ってなかろうが投げっぱなしエンドだろうが、とにかく終止符を打ちたくなる。
飽きる、というのともちょっと違っていて、腰を据えられないというか、子どもが一箇所に留まっていられないのに似た気持ちなんですが、うーん、伝わりにくいですかね。
そもそも集中力がないので、作業としての「書くこと」も長くは続けられないんです。
長い文章への憧れはあります。
結局なんか一つでいい気がするんですよね。自分の魂のかたちを知るための文章なんて。というかそういう形の方がわかりやすいし美しい気がしませんか。
でも、途中で息切れしないよう、ある程度しっかりプロットを立てて書き始めると、それを消化するだけになって、書くほどに「自分」から遠ざかっていく気がしますし、かといってどこに到達するかわからないものをずっと書いていく忍耐力もなく。
結局ずっと断片のようなものを綴っています。
それが自分のかたちを知るという目的に向かって前進しているのかどうかはわかりません。
ええ、これで終わりです。
5曲で終わりですね。もう一枚もかけますか? こっちは6曲で、5曲目は私のお気に入りです。
気に入った曲があると何回も聴いてしまって、結局早く飽きてしまうことってないですか? 私が少し偏執的なんですかね。
集中力はないのに執着はあるという面倒な人間なので。
そうなんです。
そして執着という観点から見ると、私がずっと綴っていた言葉は、結局一つのことしか言っていなかったのでした。
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