20240127_あれも、これも

 あれもこれも僕は欲しい。欲しくてたまらない。手に入れないと、ダメなんだ。絶対にダメなんだ。手に入れるまで、ここからは動かないぞ。動くもんか。
 あれもほしい、これもほしい。遠くにあるものを先に欲しがって、近くにあるものを後にほしがるというこの言葉は何なのだろう。高い物を先に要求して、そこから落としていく交渉術を使っているわけでもあるまいし。
 おかしいっぱい買ってきたよ、好きなの食べんさいね。と24歳になっても言われて、わーいと喜ぶ自分は何なのだろう。いや最近甘い物ばっか食べてるから、おせんべいでお願いします。とても腹持ちが良くて、顎も鍛えられるから、次回からは、不揃いせんべいで。
 うるせぇ、おかし買ってくんなというのも変だし。素直に、貰えるものは貰っておく。
 鬱陶しいのがおらんくなるから、寂しくなるよ。と。家族というのは、うっとしくて、厚かましい。家族というのはとても不思議な存在だ。
 ゴリラを研究している山極 壽一の話で、ゴリラはある程度距離が離れて声が聞こえなくなると、そいつは仲間では無いと判断するらしい。人間は、離れていてもそこにいるという見えないものを形として保持することが出来る。それは、ざぶとん・お皿という物質としてでもあるし、見えない糸であったり、魂というような表現で残っているように思うことが出来る。そう信じることが出来る。非合理な考えから、人間の安心感は生まれているようだ。
 東浩紀の家族論の中でも、自分からの能動的な距離感の認識では無くて、相手側からのうっとうしいアプローチが家族というものだと言っていた。それをAIが変わりをなせるのかという点を考えているよう。
 ビジネスも基本、いらないものが多い。こんなんどうですか?という提案をずうずうしくしてくることから始まっている。別になくてもいいかと思ってしまうものばかり。なんで、こんなにドレッシングの種類があるんだよ。一個に統一しろよ、とか、それを陳列する人間は考えるのだろうけど。生み出すものはその都合を考慮して生むとは思えない。これは、とてもおいしんです。今までにないような革新的なドレッシングです。というような顔でみんな作っている。非合理的な厚かましさから生まれたものを、僕たちは安くておいしいなと笑顔で受け取る。拒んでいる感じではない。そこは家族とは違うんだな。うざいなと思っているけれど、安心感がある。この謎な存在がなんなのか、また今度考えよう。
 今日は、家族で買い物へ。引っ越しに際して、必要な物を買う。フライパンさえあればいいか。あとは、電気ポットか。生きていくのに必要な最低限を知らないから、まぁ困ったら道具を増やせばいいかというノリ。
 やっと、手袋と耳当てを買った。何か月先延ばしにしたのだろう。これで外に出られる。今までは、出られなかったけど、これで出られるんだ。やっと。とか言ってみる。寒さの乗り越え方を知りたい。
 今日は、少し暖かかったので、久しぶりにランニングをした。体力が無さ過ぎて、すぐ散歩に切り替えた。たまに走るのはやっぱり気持ちが良いな、また走りにいこう。防寒具はこんかいはあるからね。
 来週からは、引っ越しに向けた準備かな。まぁ、頑張っていこう。
 今日はこの辺で、本日もお疲れさまでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?