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「彼氏」「彼女」と呼ぶこと

 「彼氏」「彼女」という表現に違和感がある。例えば私が誰かの「彼女になりたい」というのは、相手が私のことを女性として見て女性を好きになるという前提の言葉であるような気がしてしまう。そういう意味で私は別に彼氏という立場になってもいいと思っているし、極論どちらかに定めてしまうのがなんだか違うような気がする。というか、彼氏とか彼女とか、分ける必要があるのかが疑問である。

 だけど別にそれは、私の性自認に違和感や揺らぎがあるということでもない。生物学的にも、自認も、私は女性であると思っているし、そこに何か違和感を持ったことは特にない。
 ただ、私が女という性別であることに違和感はないが、女性という個体として扱われることには少し違和感があるかもしれない。女性ではなく、私という人間として見て欲しい。多分、私が他人のことを、男性とか女性ではなく人間として扱おうとするからだと思う。
 過去の出来事によるトラウマ故の異性嫌悪はあるけれど、基本的には男女に囚われず好きになる可能性がある。彼氏、彼女のどちらかになりたい、なってほしいというわけではなくて、好きになった人と、男女というより人と人として交際したい。生物学上の性別と性自認に揺らぎや相違のある人でも、私がその人を好きだと思ったら恋をすると思うし、交際したいと思うだろう。だから、誰かに対して彼女になりたいという表現を使うことにもなんとなく違和感がある。私が女という生き物である以上この呼称が正解なのだろうと、理解してはいるんだけど。

 こういう気持ちがあるから、「彼氏」「彼女」よりも「恋人」という表現が好きなのかもしれない。恋人呼び、時折サブカルとか意識高そうとか小馬鹿にされたりするけれど、人を人として見ているからそういう表現になるような気がしている。
 相手のことを「女・男として好き」ではなく「人として好き」になる。つまり、どちらかの性別を持った人ではなくその人という個体として好きになるのだ。
 だから別に性別などどちらでも何でもいいし、そしてあなたにとっての私もどちらでも何でもいいですよ、どんな立場にもなりますよ、と思うんだけど、これは私がパンセクシャルだから思うことなんだろうか。普通は女性として男性として好きになるものなのか、それとも片方の性別しか恋愛対象にならなくても人として好きになるものなのか、疑問である。
 長い間全性愛を自認して生きていると、片方の性別にしか恋愛感情を抱けない、という感覚が理解しにくくなる。私にとっては性別が何であっても素敵な人は素敵で、そう思える人とそばにいたいと思うだけなのだ。

 他人の性的指向や性自認を決めつけることも、わずかに暴力的だと思う。私が女性でも男性でもなくただ個体として扱われたいように、女性や男性として見られたくない人間や両性の感覚がある人間もいると思っていて、だから私は他人を「彼・彼女」という三人称で呼称することにも少しだけ抵抗がある。気にしすぎと言われてしまえばそれまでだけど、これまで性自認が曖昧な人とも接してきて、こちらが勝手にどちらかに定めてしまうことが嫌になった。
 表向きは完全に男性のように生きている人が本当は女性的な面を持っていたり、その逆もあって、女性らしさや男性らしさを定義することにも違和感が生まれた。生物学上の性別だけですべてを表せるならそれで十分なのかもしれないが、女性の心を持つとか男性の心を持つとかそんな大層なことでなくとも、(一般に抱かれるイメージとして)女性・男性的な男性・女性が存在してもいいし、どちらかに属する必要もない、と思う。

 性別の問題でなくとも時代とともに人々の生き方は変化していて、それに適応していく努力は必要とされると思うけれど、生物学的性別によるジェンダーロールや性差は無くせないし、極端な差別でも起こらない限りはそれを無くす必要もないと私は思う。ただ、こと恋愛においては、異性愛者にしろ両性・全性愛者にしろ、相手の女性性・男性性よりも人間性を愛したいし、他人にもそうあってほしいと思うのは我儘なのだろうか。

 あなたがあなたであることが好き、という優しい気持ちを大切にしていたいし、そんな世の中であったらいいな。

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