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【思春期(1980年代)からのアート思考】

自分はアート思考という言葉に出会うまで、アーティストとサラリーマンという、ライフワーク(内発的動機の無償の行為)とライスワーク(外発的動機の報酬)を切り離して生活していました。もしくは行ったり来たりしながら、どちら付かずな感じで、これはなかなか息苦しいものでした。

ある時はアーティスト的な創造性、あるときはビジネスマン的な理論と説得力をもってやりこなしてきたおかげでクリエイティブな仕事に携わり、大企業や国のイノベーションの現場にも立ち会うことができました。そのバランスが、アート思考、つまりアート(内発的な創造力)と思考(論理的な情報処理)をしてきた自分のアイデンティティーとなっています。

私がアート思考という言葉に出会い活用している理由の一つに、アート思考が私を定義する言葉の一つであることに気がついたということがあります。
例えば、性同一障害という概念が医学的でない時代には、異性趣味という単なる趣向性で片付けられていました。以前は性別の不一致感から悩んだり、落ち込んだり、不安になることが医学的にも法的にも認知されていませんでした。2000年以降になってそれが医学の対象となり、徐々に市民権を得ることになります。アスペルガーなどの発達障害も、人とコミュニケーションできない、落ち着きがない、集中力がない性格とされていました。もっといえばアレルギーで食べることができないものがあるということすら好き嫌いで片付けられていました。医学の進歩によって原因や治療法は明確でなくても、それらを個人の性格や趣向性で片付けることは無くなってきました。同じようにアートと思考、相反するようなその言葉が一つになることで、ある意味、葛藤してきた自分にとっての救いであるかもしれません。

私自身、例えば左右盲(左右が直感的に認識できない)だったり、数を数えることが極端に遅かったり、普通の人ができることがとても不器用にしかできない時があります。いまだに、レントゲンで台の上で右を向いて、左を向いてと言われると、2分の1の確率で向きを変えるので、当然指示の通りに動けません。レントゲン技師はレントゲンで緊張のあまりパニックになっていると思うようで「大丈夫ですよー、痛くありませんよー」というのですが、違います。左右がよくわからないのです。
小学生の頃などは、よく忘れ物をする、授業中集中力がない、などと注意されていました。
普通の人と何か違う、でも自分が悪いんだ、なにかが足りないんだ。。。これが内的な要因です。それでも、小中学校の頃は自然の多い鎌倉でのびのび育っていました。

1980年代中学三年の時、石川県に転向しました。そこで、いじめという外的要因に苛まれます。
生徒のみならず、先生からも酷い仕打ちを受け、さらに家庭では父が会社のストレスをぶち撒け、居場所もなく必死に逃げ場を求めました。その逃げ場が音楽とアートでした。これがアート思考の目覚めです。当時の自分を振り返るとアートは没頭していることで全てを忘れられる無心になれる瞬間。思考はなぜこの世の中の大人があれほどまでに愚かなのか?愚かな世界がなぜ生まれたのか?資本主義のせいなのか?それを神が創ったのか?腐った世界を知りたい。という思考が常に頭を巡っていました。
学校の教師含め無能な大人は全て死ねばいいと思ってましたし、サラリーマンは社会に従属する無能な人間の集団として卑下していました。くだらない大人が作った義務教育というシステムと社会へ属すことは、同属化することであり最も避けなければならない生きる課題でした。

そう思いつつ、孤立していたはずが、いつの間にか、学校になじめない、かといって不良になるわけでもない言わば癖のある学生が周りに集まり始めました。課後、学校の枠を超えて自宅に団員が集まると楽器にさわったことがないのに楽器を持たせ、好き勝手に演奏させ、時には楽器自体も作り、ある者は歌ではなく本を朗読し、ある者は奇妙なオブジェを作り始めました。何の制約もなく。高校生がコピーする流行りの音楽とは程遠い、変な音楽を作り続けました。アート集団<暇団激割>の誕生です。その音楽は必然的にノイズといわれるジャンルの音楽になっていきました。当時ではアインシュツルツェンデ・ノイバウデンの影響も受けました。というよりは同じ音楽をしている人もいるという希望だったのかもしれないです。音楽を演奏することや、売れることが目的ではなく、ただ好きなように社会への苛立ちを表現していました。それが無能で無知な大衆に対抗する術だったような気がします。

1983年当時の<暇団激割>ライブ音源です。


社会への属性を拒否するための理解不明なゲリラ的なパフォーマンスはエスカレートしていき金沢美大でのインスタレーションなどにも招聘され、パフォーマンス集団は30名近いメンバーになっていきました。あるメンバーが私たちと同じようなことをやっている大人がいるといって知ったのが当時のヨーゼフ・ボイスやナム・ジュン・パイクでした。

変な大人もいるもんだと、おこがましくも同志と仰ぎ、励みにしていました。哲学や量子力学、コリン・ウィルソンの実存主義思想、ウィリアム・S・バロウズ、オルダス・ハクスリー、ライアル・ワトスンなどに傾倒し、読むたびに、「これでいいのだ、僕らは間違っていない」と確信していたのだと思います。
内的要因としてのコンプレックスと外的要因の社会への憎しみから、妄想や創作、演奏に没頭する時間だけが、煩わしい世界と隔離される自由な時間でした。時に数百人規模のライブステージに立っていましたが、全く緊張したことがなく、それをある大人の人が「柴田くんは日常で緊張しているから、ステージという非日常では逆にリラックスできるんだろう」と言いました。確かにそうかもしれません。
そのように、自分の中では日常と非日常、ハレとケのような世界で生きていたのが高校の3年間で、この圧倒的な現実逃避と社会に対する憎悪が自分を構成する思春期の大きな世界観でした。
このことが内的思考性としてのアート思考の基礎を作ったのだと思います。

そして、大学受験を迎え集団は解散します。私は理解者の多い金沢美大に進学したいと思っていましたが、父から絵描きになったら食べていけないから、せめて日芸にしろと言われ、高校の先生に「日芸に進学したい」というと「お前みたいな何の個性もなくセンスのない学生が受かるわけがない」とはっきり言われました。心の中で「お前は生徒の何を見てそう言っているんだ」と思いましたが、無理もありません。学校では一切その存在を消し、どこにも所属せず義務を果たしていただけでした。なので、母校である星稜高校での記憶はほとんどありません。そんな自分が星稜高校初の日芸合格者となったのです。今思えば、屈折した嫌な高校生だったと思います。でも、その時期がなければ今の自分にはなれていない。今の自分になれたのはその時期があったからこそ、殺したいと思った先生は顔が浮かびますが、今は感謝しています。

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