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【アートの原体験】

day7『谷内六郎画集』谷内六郎
最終回はアート思考ではなく、自分にとってアートの原体験のような画集をご紹介します。「週刊新潮」の表紙で有名な谷内六郎さんが喘息とノイローゼでモルヒネからコカインまで大量の投薬中に描いた子供の視点で描かれた暗く物悲しい絵画集です。

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『薬害のせいもあってか、人がこわい、電車がこわい、建物がこわいと言った生まれつきの内気が度を深めて、部屋の中にテントを張ってその中に入っていました。テントの中はオレンジ色で、小さい時に押入れに入って灯した幻灯の色でもありました。』

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1955年に文藝春秋の第一回漫画賞を受賞した夜、ナイフで左腕の動脈をめちゃくちゃに傷つけ自殺を図るが一命を取り留めます。

発表された病中の作品は、壮絶な病で生死の境を彷徨う自分自身を思い出させるトラウマであり同時に『僕の命を支えてくれた作品』でもあったのです。画集が出版された当時34歳で、20年以上も病の床にあったそうです。

あとがきに                              
『僕は漫画のことを考えると、いつも希望が広がります。
少年の日(パーッとしない少年でしたが)、あの夏の陽の強い海の砂の上に、棒を拾って何百となく描いたポパイ、のらくろ、ふくちゃん、ドナルドダック、波はとどろいて空はセルリアンブルーで、確かに希望の色でありました。』

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あのノスタルジックで物悲しく鬱々とした画集の最後が夏の陽と潮騒とセルリアンブルーの空、希望の色、、、と締めくくられていています。大人になって読み返すととても胸が痛くなります。

1956年『週刊新潮』の創刊号から25年間にわたって59歳で急逝する1981年まで表紙絵を担当します。1958年 37歳のときに結婚、その後「ねむの木学園」などの養護学校とも交流し、絵の指導などを行うなど福祉活動にも力を注いだそうです。

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私が小学校の頃、家庭が不和で週末はいつも祖母の家に逃げていました。この画集は、その家の物置にあった画集で、当時、自分の孤独や悶々とした気持ちが共感していたのかもしれません。




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