煩雑な思考

バニラ2のレモンさんです。

ありがたいことに、しばしば「コンビのルーツが知りたい」という意見をいただくのですが漫才のコンビ『バニラ2』及び相方に関する情報について、私のメディアから発信することはできないと判断しました。プライバシーの守秘については私なりの基準によって決定しております。ご容赦ください。




今回のテーマは『煩雑な思考』ですが、私は自身の根幹を他者に披露することは基本的に悪手だと考えています。お笑いという場面だけでなく、日々の交流においてもそうです。この記事では、語るまでもないつまらないものをダラダラと書いています。よろしくお願いします。


振る舞いについて

私は、人の振る舞いとは「その個体によって集積された雑多な情報が個人というフィルターを介して抽出された表現のこと」だと考えています。そう考えると、それが非常に複雑な性質であることがわかりますね。人の振る舞いは複雑だから、多様なんです。

では、振る舞いの由来を明かすことが表現の場においてどういう影響をもたらすのか。その明かした由来が過度に目立ってしまい、単純に感じてしまうということが起こるのではないでしょうか。本当は複雑な表現であっても、その由来のうちのひとつがわかってしまうと、受け手は視野狭窄に陥り、わかるものだけが見え、その他が見えなくなってしまうのではないでしょうか。それゆえに単純に見えてしまう可能性があるのです。だから、自身を魅力的に見せようと思うならば自分の由来というのは秘めておくべきなんですよね。

バレてないからこそウケる表現というのはかなり身近にあります。他人の真似事がつまらないのは、その由来が広く知れ渡っているからなのかもしれませんね。



変化の瞬間

最近、詳しくいえば今年の9月23日から私は大きく変化し、それまでの自分とは全く別のものになってしまったという感覚があります。人が変わる瞬間、人生が変わる瞬間というのは、些細で、劇的で、大きな外的要因よりも小さな内的要因によって起こるのだと思いました。その構造は連鎖的で、「最強の武器を得た」や「最後のピースを埋めた」というよりは「いろんなフルーツが入ってる箱にみかん落としたら全部混ざってスイカができた」みたいだと感じました。人生はスイカゲームかもしれないです。今まで悩んで、考えて、保留にしていたものが、新しい要素によって確信を得たような。感覚的なことで、説明すらままならないですが面白い体験でした。

ちなみに、そのきっかけとなった気付きは「“自分”という意識・観念は必要ないのではないか」というものでした。



自分とは?


私は、“自分”という意識・観念の必要性が低いのではないかと考えています。

私は、「自分がなくて不安」または「自分という一貫性があることが楽」だから人は“自分”というイメージを持ち、それに対して精神を投影しているようだ、という印象を受けました。

“自分”を構成するものを、「各個体の経験に基づく思考の傾向」「個別の身体」「イメージ」の3つで考えます。それぞれの性質について、「各個体の経験に基づく思考の傾向」は実体がなく状態を維持しない現在。「個別の身体」は実体がありかなり状態を維持する現在。「イメージ」は実体がなく、ある程度状態を維持する過去。と、このようになると考えています。この中で一番曖昧な性質なのは実体がなく状態を維持しない「各個体の経験に基づく思考の傾向」で、これが“自分”を定める場合に最も意識されづらい要素となります。そうすると、“自分”という観念は状態を維持しやすい「個別の身体」と「イメージ」によって作られる場合が多いということになります。これは、過去も現在も同じ自分であると考えている人に多い印象があります。

自分を構成する3つのバランスが悪い“自分”とは不完全な観念で、このような半端なものを持つならば持たない方が賢明だというのが、私見です。セルフイメージが低いだの、それを高めるだの、そういった努力もありますが、それに依存しないやわらかさを持つことで解決する問題もあるのではないでしょうか。

人は身体という一貫性のある対象に自分へのイメージを重ねることで“自分”を成立させるのですが、こうなることは仕方ないことでもあります。それはなぜか。人は一貫性のある身体を用いて社会的活動を行うからです。つまり、社会的活動という場面では、自分へのイメージが他者から認知される部分を含むということです。
社会的活動において他者はその「個別の身体」を中心に「イメージ」で判別します。他者が見る“自分”にも「各個体の経験に基づく思考の傾向」は含みづらい要素なのです。

人生は大陸のように全て地続きではないのです。一つの島を出て海を渡り、新たな島へ行く。過去の自分は、身体という特徴から見ると同じかもしれないですが、その中身は変わり続けています。全く違うものを、同じだと思い込まないこと。

「自分を持つ」
そもそも、“自分”とは状態を維持しない訳ですが、それを持つってどういうことなんでしょうか。存在自体が曖昧なあの“自分”を持つって?馬鹿なこと言わないでおくれよ。という感じですね。誰も自分なんて持っていないですよ。自分のことを知らないし、持つ自分なんてものはない。何も持っていないんです。

自分を持っている人とは何か。自分がないことに不安がなく、堂々と自分がない人のこと。
自分を持っていない人とは何か。自分がないことが不安で、身体の中に他人が存在している人のこと。

自分の身体を他人に譲るな!

全体像は語りきれないので、この辺で。



マクドナルド

私はマクドナルドのことをマクドナルドと呼んでいます。理由は、他の呼び方がつまらなくなったからです。マクドナルド以外の呼び方をしてしまえば「マクドナルドの呼び方論争」に加担してしまうのではないかと思って、避けてしまうんです。どちらかに属することを強いるんですか?ファイアーエムブレムでもないくせに!

私はマクドナルドが好きですが、マクドナルドのメニューにはあまり興味がありません。強いて言うなら朝マックのソーセージエッグマフィンとホットコーヒーのコンビをよく食べます。そんなものよりも私はマクドナルドの「空間」という面が好きです。気を遣わないでいいカフェみたいなところでしょうか。1日の活動の起点にしたり、1日の終わりにのんびりしたり。時間を忘れて、つまんね〜ことを喋っていたい空間。



武装病

みなさん、武器を下ろしてください。身につけている防具も全て外してください。恐ろしいのでこちらへ近づかないでください。みなさんが武器を持って戦闘を強いるから、こちらも応戦せざるを得ないのです。どうか、おやめください。

ハァ。いつまで続くんだこの戦いは。


「25歳、年収1000万!成功者!その仕事未来ないです!筋トレで自分磨き✨」「わかります、これが真理!」「強者の余裕ですね」「自信が大事ですよね」「できる人はみんなこれを読んでる」「こういう人ってだいたい〜」「彼氏いないとか考えられない」「リアル充実させないと」「爆美女♪振った元カレとセックス!これが私のルーティーン!幸せです✨」「わかりすぎる。首がもげるほど頷いた」「こういう男はなにやってもだめ」「どうせ俺は」「整形しないと恥ずかしくてマスク外せない!」「インスタやってない奴はヤバい。友達いない」「セックスしてないとか」「友達いない方がいいです」「思想つよ笑」「絶対変な奴やん」「経験人数何人?笑」「ただしイケメンに限る」「スタバの新作〜✨」「上手くいく考え方✨」「こいつヤバすぎw炎上不可避」「これ知ってる人センス良すぎ」「知らない人人生損してるわ」「かわいそう」「香水臭すぎw消えてくれ」「弱者男性さん……」「こういう奴らってさ〜」「承認欲求エグい」「嫉妬?羨ましいよね?」「俺たちの方がイケてるわ」


こうなってしまったら最後、もう手の打ちようがないです。

そうですか。それなら仕方がないですね、別の場所に行きましょう。

あの、あれはなんですか?

あれは「武装病」ですよ。まず自分たちに有利な共通認識を作り、社会的優位とされる装備で身を守って、歪な形の武器を振るっているんです。

なるほど、攻撃的なんですね。こわいなあ。

いえ、そうではありません。彼らは怯えているのです。目に見えない何かに襲われるのではないかと考え、自分を守るために武器を振るうのです。

大変なんですね。どうにかしてあげられないんですか。

残念ながら。もうほとんど自我が残っていません。
感染症なので、私たちは距離を置いて注意しましょう。



推しとは?

最近流行りの概念である“推し”。私には推しにあたる存在がおらず、それが流行っている訳もよくわからない。しかし、わからないものをわからないままにしておくのは面白くないので、考えてみました。

推しとは、自身に対して恣意的に利益を与える他者のこと。憧れやコンプレックス、自身で解消することのできない欲求から自己投影の対象とする場合もある。与えられる効果は主にヒーリング効果だと考えられる。推し活動へと発展することで優越感や所属欲求、所有欲を満たしたり、ストレス発散に貢献するなどの利益を得る場合もある。推しという存在を中心に自身の欲求を解消させることを推し活動という。

こんなものではないでしょうか。なんと、言葉にしてみると興ざめですね。

この話はここまでにしておきましょう。すみません。



大人と子供

身近な表現として「大人」や「子供」という言葉が使われます。
「こんなことができないなんて、この人は子供だ」や「この人は落ち着いていて大人だ」など。しかし、私は二元論というものが好きではないので、それを使うコミュニケーションに対して否定的です。何事にもグラデーションがあるので、それを無視したくないのです。社会人を大人として見ることもせず、学生を子供として見ることもしない、物差しを持たず「その人」として見るのが、今の私の人との関わり方です。

そもそも、人間の発達段階は8つあり、それぞれ「乳児期」「幼児前期」「幼児後期」「学童期」「青年期」「成人期」「壮年期」「老年期」と呼ばれます。『エリクソンの心理社会的発達理論』より。



やりたいことをやって、やりたくないことをやらないだけ

生きていると何度も選択を強いられますが、私たちはその都度自分の持つ尺度でやりたいことをやっているだけなのです。

「いや、やりたくないこともやるべきだからやっています!」

それはあなたが社会的に正しい人間でありたい、正しくないことをしたくないという欲求から選択したことなので、やりたいことをやってやりたくないことをやってないだけです。

「勉強なんかしたくないのに、学校に行かされています!」

それはあなたが「学校に行かない」「何もしない」という重大な選択をしたくなかっただけなので、やりたくないことをやっていないだけです。

「あいつのために大金を払ったんだ!」

それはあなたが大金を払うことで得られるメリットに他者を連帯させているだけなので、やりたいことをやっているだけです。

例外はありますが、本当にやりたくないことは大概やらずに済んでいるんです。他人に責任を押し付けて、自分の内側にある本来の目的を隠していませんか。真にやりたくないことは別にやらないといけないことでもなかったりするんです。

今からご飯を食べに行くけど、食べたいものある?

「うーん、なんでもいいや。」

この時あなたは、「食べたいものを考える」と「食べたいものじゃなくていいから他人に任せる」で、後者を選びました。それは、あなたが「楽がしたい」からではないんですか。あなたが楽をしたうえに、選択の責任を押し付けるなんて都合が良すぎます〜!

「なんでもいいって言ってんじゃん。」

では、マクドナルドに行きましょう。

「あ、ちょっと待って。」

(こういう時はまずマクドナルドを挙げるのが鉄則。さあ考えろ!)



「いまナゲット15ピース490円だって!」



マクドナルドに行きたいから、行くだけ。



自分の本心を見つめて、もっと素直に振る舞いましょう✨

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