ドブ記2:3 下層労働者ブーツの思い出
靴の話ついでにもうひとつ、大切な思い出の話を。
10年くらい人生を共にしたブーツがありました。
僕はそいつのことを 下層労働者ブーツ と呼んでいました。
そのブーツは、ヨーロッパのどっかのファイヤーマンブーツで、ちょうどジャックブーツみたいなのが欲しかったときにヤフオクで見つけて買ったのでした。
ファイヤーマンブーツと言うだけあって、内部にゴアテックスかなんかのインナーがバチッと入っていました。ブーツの中に、防水の靴下がピッタリ入ってる感じです。
分厚く頑丈なソールは耐滑仕様のようで、つま先には鉄芯も入っていました。
最初はバイクに乗るのに使っていました。カワサキの400ccでした。
バイク用なので、オーバースペック気味の防水性能がいかされることは特にありませんでした。
そのうち、仕事で使うようになりました。その時の仕事では、ガラクタとかゴミとか金属とか木とか、あらゆるものを仕分けしたり、トラックの荷台からドッカンドッカン降ろしたり積んだりとかしていたのですが、このような作業のときにこのブーツを履いていると、とがったものや汚いもの、水濡れなどをまったく恐れる必要が無く、大変に重宝しました。
その仕事は会社(正確に言うと、敷地)が無くなったりして、続けられなかったのですが、いろいろと他の仕事をやっているうちに製鉄工場で働くことになりました。
真っ赤な溶けた鉄や、いまだ赤熱する鉄柱が流れる中、ストーブのように熱くなった機械の間を動き回りながら作業をしていました。
なにしろ製鉄工場ですから、そこらじゅうに鉄粉が積もっていて、ほっておくと砂丘のようになります。
また、酸化してナッツのような匂いを放ち真っ黒になった廃油(オイルや、グリス)がそこら中をべとべとにしています。
この鉄と油の環境の中で、ブーツがとてつもなく役に立ちました。ジャックブーツのようなタイプなので紐がどうしたとかベルクロが死んだとかいうこともなく、耐滑ソールは油に汚れた床から守ってくれます。
またファイヤーマンブーツの完全防水機能のおかげで、オイルの池や、大雨でときおり部分的に水没する構内の地面に対して、完全な耐性ができました。
そして鉄芯も入っているので安全もバッチリです。一度、爪先より内側の鉄芯が無い部分に鉄板を落とした時は飛び上がるほど痛かったですが。
この製鉄工場時代に、ブーツには「下層労働者ブーツ」という栄誉ある名前が付与されました。
汗と鉄粉と廃油にまみれた下層労働の現場(この環境での過酷な肉体労働を自らそれなりに楽しんでやっていた身として、誤解を恐れずあえて下層労働と呼称します)で鈍くかがやく伝説の武具。僕にとってこのブーツはまさにアーティファクトとなりました。
ミンクオイルやラナパーの代わりに廃油を吸い込んだブーツの革が、集塵機の巨大モーター室の片隅で、黒灰色に光っていたのです。
そんな製鉄工場時代も終わりをつげ、転職することになりました。
下層労働者ブーツにはこれからも一緒にいて欲しかったし、使わないなら使わないで記念品としてとっておきたいくらいだったのですが、なにしろ隅から隅まで廃油を吸っているため、洗ってどうにかなるような代物ではなくなっていました。洗っても洗っても、永遠に油汁がにじむでしょう。
そもそも工場内では汚損のレベルがヤバいため、作業服は洗わずに着続け、臭くなるか油が染みてきたら捨てていました。
というわけで、どうすることもできないので、とうとう下層労働者ブーツに別れを告げました。
工場での仕事を終え、荷物を整理した最後の日、ブーツは工場内のゴミ捨て場のコンテナに放り込まれました。鉄芯入りの重いブーツが大きな音を立ててゴミの中に体を横たえたのです。
さようなら、下層労働者ブーツ。
ありがとう、下層労働者ブーツ。
ずっと忘れないであろう、靴の思い出でした。
金くれ